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贖罪の架  作者: 香月優希
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其の二 ─追憶─

 それは、今となっては遥か昔に思える、二十五……いや六年前か。ダリュスカイン殿が羅沙(ラージャ)にやってくる、さらに十年ほど前のこと──


 レキ様の許嫁であった姫沙夜(キサヤ)様が逝去した後、ひと通りの法要も済み、当の靂様が思ったほど取り乱さずに淡々と職務をこなしている強靭な精神の在り方に、私を含めた皆が驚きつつ、(やしろ)に日常が戻ってき始めていた晩秋の頃であった。


 ある夜ふけ、私がいつものように社の見廻りをしていると、靂様の居室がある三階建ての塔の方から、何かを叩き割るような音が聞こえた。

<なんだ?>

 しかし、あたりはしんと静まり返っている。気のせいかと思い直した瞬間、もう一度、今度は明らかに硝子(ガラス)が砕ける、繊細で狂気めいた音が響いた。


「──!」

 

 間違いない。音の発信源は、靂様の居室のあたりだった。続いて、絞り出すような叫び声が夜の空気を裂いた。

「靂様っ!」

 私は手にしていたランタンの火を吹き消し、走り出した。暗闇の中でも迷うことなく塔の入り口まで辿り着くと、ランタンを投げるように置いて鍵と(かんぬき)を外し重い鉄扉を開け、三階までの階段を駆け上った。その間も、心臓が縮こまりそうな破壊音が断続的に続いていた。


「靂様!」


 重厚な木造扉を開け、失礼致しますの言葉をかける間もなく部屋に飛び込んだ。果たしてそこは、いつもの整然とした様相とは一変していた。

 外に面した窓硝子は枠を残して派手に割れ落ち、うっすらと灯りに照らされた板張りの床には硝子や陶器の破片が散らばって、椅子も倒れている。飾り棚に置かれていたはずの数々の物品が無惨に転がる先の薄闇には、散乱した白銀の髪が不気味に浮き上がり、そこに──靂様が背を向けてうずくまっていた。

 荒い息をついている背後から、声をかけようと一歩踏み出した途端、靂様が動き、手にしていた短剣を自らの首に突き立てようとした。


「なりませぬ!」


 どれほどの速さだったのか、次の瞬間、短剣は遥か遠くに飛び、本棚に当たって床に落下した。寸でのところで、私は間に合ったのだ。

 だが、靂様はまるで私など目に入らぬかのように手を大きく振りかぶって拳を床に叩きつけると、落ちた短剣の方に黄金(きん)の瞳を鋭く投げ、立ち上がろうとした。

 私は咄嗟に、いつもは決して触れぬように努めていた靂様の身体にしがみつき、「おやめください!」と渾身の力で動きを封じようとした。

退()け桂城!」

 靂様も、刀を振るい多少の武術の心得があるとはいえ、護衛として日々鍛錬を重ねている私よりは華奢だが、背丈は上回る。正気を失ったかのような勢いに、ともすれば私の方が振り払われそうになりながら、必死に身体ごと押さえこんだ。

「靂様っ! おやめください!」

「放せ! 無礼ぞ!」

「なりませぬ!」

 しばし息もつけぬほど我武者羅(がむしゃら)に押し合った末、ついに靂様が、事切れたように私の腕の中に伏した。


「靂…様?」


 沈黙──そして静寂。


 靂様は瞼をきつく閉じ、噛み締めた唇を微かに震わせていた。腰近くまであった美しい白銀髪は、肩のあたりで乱雑に途切れている──あの短剣で自ら断ったに違いなかった。纏っている炭黒色の羽織も単衣も乱れ、片肩が露わになっている。

 そして、靂様の両の手が血まみれであることに、初めて気づいた。

<硝子を素手で叩き割ったのか>

 状況が見えてくればくるほど、胸が張り裂けんばかりに動悸が強まった。こんな──

「靂様……」

 自分より十も若い主人の身体を抱え、大きく息を吐いて呼吸を整えながら部屋の凄惨な光景に慄きつつ、私は自分の浅はかな判断を心から呪っていた。

 どうなさったのですか、などとは愚問だった。


<無理をなさっていたのだ>


 最愛の許嫁を亡くしても、靂様はさして気にも留めない様子で頭領としての責務をこなしていた。私も最初こそ心配したものの、気丈なのは昔からのこと、ましてや余命の宣告は受けていたゆえ、覚悟ができていたのだと解釈した。

 しかし──


「逝かせてくれ、桂城」


 靂様が、腕の中で小さく呻いた。「もう……私には、生きる意味など……何もない」

 初めて聞く絶望の言葉に、私の胸の奥を経験したことのない息苦しさが襲った。

<そんな>

 二十年もの間、全てを捧げて仕えてきた私にとって、自分の前から靂様が消えることなど有り得なかった。

<靂様が、私の前からいなくなる?>

 それこそ、こちらの生きる意味もなくなるほどの衝撃が、錯乱をもたらそうとしていた。それだけはあってはならない。こんなことで、靂様を失うなど。

 

「なりませぬ」


 私はなんとか心の均衡を保ち、震える声で告げた。


「貴方はこの社の頭領です。頭領がいなくなったら、ここにいる者たちはどうなるのです?」

 自分でも嫌気がさすような正論を述べた。

「私は、そのような願いを聞き入れるわけにはいきません」

 靂様は蒼白の顔で私の瞳を見つめ、「……すまぬ」と、聞いたことのないか細い声で答えられた。謝られたことなど、一度だってなかった。それだけで、靂様がどれほど極限状態なのか、察するに余りある。私の方こそ、ともすれば暴れ出したい衝動を必死に堪えた。

「だが……お前だけは」

 お前だけと言われ、心は揺らいだ。しかし、ゆえに靂様をここに繋ぎ止めておかねばならぬという思いが私を支配した。

「どうか、思い(とど)まってください。それだけは──」私のためにも、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「分かっている」

 

 靂様の、あまりに覇気なくあっさりと受け入れた態度に罪悪感を覚えたものの、私は前言を撤回しなかった。するわけにはいかなかった。


「少しばかり、深酒を煽ってしまってな」

 

 諦めたような微笑みに、私はたまらず、剥き出しの肩にそっと羽織をかけ直すと、まだ取っ組み合った余波で熱を持っている両腕で、躊躇(ためら)わずに靂様の身体をしっかりとかき抱いた。

 すると、靂様の手が背中に周り、私の服を強く掴んだのが分かった。長く仕えてきた中で、そんなふうに触れるのは初めてだった。


 嗚咽が、漏れた。

 靂様の、耐え続けてきた心が、腕の中で一切の虚勢もなく瓦解していく。それはあまりに痛々しく、悲しい瞬間だった。

 私もまた、幼い頃から見てきた主人のかつてないほどの乱心ぶりを目の当たりにし、血が滲むほどの心の悲鳴を見抜けなかった激しい後悔と、ひとまず引き留められた安堵が複雑に渦巻いていた。

 そうして、靂様がこれ以上壊れて消えてしまわないよう、その腕に精一杯の力をこめて、嗚咽が聞こえなくなるまで、ずっとじっとしていた。

 長い、長い夜だった。

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