其の一
鳥が、澄み渡る空を渡って行く。
見上げた桂城の短く刈った白髪混じりの伽羅色の髪と暗緑色のマントの裾を、風が撫でて抜けた。
緑眩しい季節の山だ。坂を登り始めてどれほど経っただろう。休憩するほどではないと思いながら、歩いてみれば、鍛えているとは言え六十を超えた身には勾配がきつい箇所もあり、やはりそろそろひと休みするかと足を止めて辺りを見回す。
その耳に、子供の声が聞こえた気がした。
「おやつー!」
「お腹すいたー!」
間違いない。舌っ足らずな、幼い子供特有の声。もう少し先からだ。
<と言うことは、もうすぐそこか>
いざその時が来たとなると、無意識に身が引き締まる。桂城は腰元のサーベルの柄を厳かに握り、今一度背筋を伸ばすと、声のした方へ歩き出した。
果たして、登り切ったそこには木造平家造りの、思いの外しっかりした小屋が建っていた。そこに、声の主であろう子供──兄妹だろうか、二つの小さな背中が、まろぶように入って行くのが見えた。
「ほら、靴を脱いだら手を洗って」
家の中で響く、鈴の音のような耳心地の良い女性の声。「はーい」と、やはり複数の声が返される。
あまりに平和な光景に思わず足を止め、目を細めて眺めていたそこへ、今しがた自分が来たのと逆方向から、緩やかに波打つ金髪を高く結い上げた、壮年というにはまだ若い男が現れた。ごく簡素な赤茶色の七分袖の上衣に、やはり質素な麻の長ズボンを纏い、左手に鎌を持っている。右手は──袖の先が存在していなかった。隻腕なのだ。
脳裏に瞬間的に、あの日見た、血まみれで肉塊と化し転がっていた人間の前腕がよぎる。
<やはり……>
だが、どう声をかけるべきかを迷うより先に、声が出た。
「ダリュスカイン殿」
呼ばれた男は立ち止まって桂城を凝視し、秀麗な顔を僅かに強張らせた。
「桂城殿……」
紅赤の瞳に、明らかな動揺が走る。しかし次の瞬間には、その目に僅かな震えを湛えながら、彼は桂城に向き合った。
爽やかな緑の景色とは裏腹に、凍てつくような空気が辺りを支配する。
それもそのはずだった。
桂城は、長きにわたって羅沙の社の頭領に仕えていた従者だ。約五年前、その頭領──靂を手に掛けた仇こそが、同じ主人に仕えた側近であり、屈指の上級魔術であったこの男、ダリュスカインなのだから。
そんな関係の男が訪ねてきた目的は、つまり──仇討ち以外に他ならないと、ダリュスカインは瞬時に悟ったのだ。
「ああいや、そう身構えなさるな」
桂城は、ダリュスカインの緊張を察し、あえて長閑な調子を意識して告げた。ダリュスカインは黙ったまま、用心深くその目を桂城の腰元のサーベルに向ける。その時──
「父さまっ」
先ほどの子供のうちの一人、ダリュスカインと同じ金の髪をふわりと肩まで波打たせた女児が、顔を覗かせた。
「だあれ?」
すぐにダリュスカインの足にしがみついて、桂城を怪訝そうに見つめる。ダリュスカインがやや腰を落とし何か言いかけた時、桂城が口を開いた。
「桂城と申します」
丁寧に腰を屈めて名乗ると、姿勢を戻し、ダリュスカインに向き直る。
「ダリュスカイン殿。私はここで、そなたと刃を交えるつもりは毛頭ない。ただ、巷で噂の魔術師とやらが、私の知るダリュスカインかどうかを、確かめたくなって来たのだ」
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桂城は、胡座をかいた足元に置かれている盆に湯呑みを置き顔を上げた。その表情は穏やかだ。腰元のサーベルはすでに外され、仇討ちではないという言葉を裏付けるように背後に置かれている。
「そなたとて、私に易々と仇として討たれる気も毛頭なかろう」
二人は、小屋の居間から隣接する部屋に向き合って座っていた。六畳ほどの広さの床の縁を板張りにした畳敷きになっている。外に面する硝子を嵌め込んだ障子戸は半分ほど開かれ、そこから気持ちの良い微風が入ってくる。引き戸で仕切られた向こうでは、子供たちと母──結迦が何やらままごとのような遊びに興じているようだった。
「なぜ、そう思うのです」
ダリュスカインが、硬い声で問う。すると、桂城は口元を緩めた。
「守るべき家族がいる今、そう簡単に命を諦めるわけにいかぬ。違うかね?」
引き戸の向こうに、視線を向ける。
先ほど、あの子供たちがダリュスカインと結迦の間に産まれた二卵性双生児であることを聞いたのだ。女の子──姉が来華、弟である男児が柊。現在、三歳だという。可愛い盛りだ。
「……しかし──桂城殿こそ、私を許せるはずがないのでは?」
思わず尋ねたのは、桂城の態度が本心から仇討ちを望んでいないことを、ダリュスカインもまた無意識に感じ取ったからだろう。だが、かえって戸惑いは強まる。主人を殺された復讐の念が、強まってこそすれ、消えるはずなどないのだから。
「そうさの……だが」
桂城は、頭を振る。そして、再びダリュスカインを真っ向から見据え、おもむろに告げた。
「私はむしろ、そなたに謝りたいのだ」
ダリュスカインの眉が動き、「え?」と小さく声が漏れた。「どういう……ことですか」
桂城は、両の手を組み、視線を落とす。しばしの沈黙のあと、再び顔を上げると、大きく息を吐き出すよう打ち明けた。
「本来ならば私が、私の手で、靂様を解放して差し上げるべきだった。しかし私は、どうしてもその決断ができずに、そなたにそれを委ねてしまった。主人殺しという罪をそなたに負わせてしまったのは、私の不徳の致すところ──」
そうして桂城は、両の手を畳につくと、深々と頭を下げた。
「ダリュスカイン殿。許してくれとは言わぬ。ただ、そなたが靂様を手にかけるほど追い詰めてしまったことを……深く深く、お詫び申し上げたい」
「桂城殿、何を……」
ダリュスカインは内心ひどく狼狽し、なんとか「待ってください」という言葉を捻り出した。
「頭を上げてください。靂様を解放とは? あの時、桂城殿が……靂様に手をかけるおつもりであったということですか?」
全く頭の中の整理が追いつかぬまま尋ねると、桂城はようやく頭を上げ、髪と同じ伽羅色の目をダリュスカインにしっかりと合わせた。そこには、一言でどうとは形容し難い感情が蠢いているように見えた。
「正式には、あの時ではない。本来なら、もっと前──靂様が許嫁の姫沙夜様を亡くされた時に、望む通りにして差し上げればよかったのだ」
「もっと、前?」
桂城は、いまだ胸の内が収まらぬ様子で頷く。
「左様。あの時……私は、靂様の苦しみよりも、自分のもとから靂様がいなくなることに耐えられず、もっともらしい建前を並べ、靂様を社に縛りつけてしまった」
「それは──」
ダリュスカインが真意を探るような目線を向けると、彼はふぅと息を吐き、湯呑みを取って、自らを落ち着けようと茶を口に含んだ。
そして「少しばかり、長い話になるのだが……」と前置いて、あの時のことを語り始めた。




