第六話 勘十郎様の一日
まだ暗いうちに、障子を叩く音で目が覚めた。
「才蔵、起きて。今日は一日、僕の仕事を見てもらうね」
戸を開けると、信勝はもう草履を履いて立っていた。後ろには、帳面を抱えたお葉がいる。
「困ってる人を探して回るのは、いつもの仕事の合間にやってるんだ」
「合間?」
「うん。本当の仕事は、他にあるから」
その意味は、昼までにいやというほど分かった。
寅の刻
最初の仕事は、城の裏山の坂道だった。
信勝は黙々と登っていた。息が上がり、膝が笑い、何度も木の幹に手をつく。それでも足を止めない。
「毎朝、十往復」
「十!?」
「今日は三往復で膝が笑ったから、七で終わりにするよ」
(七でも、里の修行よりきついぞ)
俺は平気でついていけた。だが、信勝の背中を見ていると、妙に胸が詰まった。
「何のためにやってる」
「生まれつき体がふらつくから、筋で支えるんだ。医者が、鍛えれば少しは良くなるって」
信勝は、汗を拭いて笑った。
「領主が馬から落ちたら、みんな困るでしょう」
卯の刻
次は、城付きの老僧による、学問の時間だった。
「兵は拙速を聞くも、未だ巧みの久しきを睹ざるなり」
「はい、先生」
「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」
「はい、先生」
俺は部屋の隅で、舟をこいでいた。
「そこの者、起きておるか」
「起きています」
「今、何を申した」
「……戦わずして、屈する」
「上等じゃ」
そのとき、信勝が手を挙げた。
「先生。戦わずに勝つには、戦を避けるための銭が要りますよね。その銭は、誰が出すんですか」
老僧が、絶句した。
「……そのような問いを、お立てになる方を、わしは初めて見た」
「分からなければ、調べます」
信勝は、分からないことを、恥じなかった。
(十五だぞ、こいつ)
辰の刻
城門の脇の小屋には、すでに二人の客が待っていた。
「朝早くから、申し訳ございません。熱田の加藤家の手代、吉兵衛にございます」
「熱田神宮寺の使いにございます」
「昨日の、荷揚げの件ですね」
信勝は、板の間に座るなり、古びた書付を二通取り出した。
「先の証文では、荷揚げ銭の三分の二が神宮寺、残りが加藤家。でも、荷が倍に増えて、荷揚げ銭が膨らんだ。神宮寺さんは『三分の二の元が増えたのだから、増えた分も三分の二』と。加藤家さんは『増えた荷は、うちが人足を増やして捌いた。増えた分の取り分は、うちが多いのが筋』と」
(……何の話だ)
「でも、証文の『荷揚げ銭』という言葉が、荷そのものの料金なのか、人足の手間賃を含むのかが、曖昧なんです」
(……)
「そこで、増えた分だけを『荷』と『手間』に分けて、荷は証文通り、手間は加藤家に寄せる。ただし、神宮寺さんが損をしない範囲で」
信勝の算盤が、ぱちぱちぱちと走った。
「これで、神宮寺さんは前の取り分を割らず、加藤家さんは人足の手間賃を取り戻せます。どうでしょう」
手代と僧が、同時に「ああ!」と声を上げた。
「それなら」
「それなら、角が立たぬ」
信勝は、さらさらと筆を走らせ、判を押した。二人は深々と頭を下げ、晴れた顔で帰っていった。
俺は、口を半開きにしたまま、座っていた。
「……結局、誰が得をしたんだ」
「誰も損してないよ」
「手品か」
「算術だよ」
(いや、何一つ分からなかった)
「お前、十五の判で、通るのか」
「お父上の名代として押してるからね。前例に沿って、間違えないように押すのが決まり。最近はお父上が奥にこもることが多くて、僕が押す数が増えたんだ」
その言葉に、袖で口元を押さえた信秀の姿が、浮かんだ。
俺は、鼻をすすって、黙った。
「大殿は、津島と熱田の商人を庇護して、銭を集めておられます」
お葉が、帳面に書きつけながら補った。
「八年前には、禁裏の築地塀の修理に四千貫を献上されました」
「四千貫」
「同じ頃、今川義元の献上は五百貫です」
(俺の赤字は、二十匁の路銀だぞ)
桁が違いすぎて、笑うしかなかった。
巳の刻
「勘十郎様ああああ!」
廊下に、雷のような声が響いた。
俺は、思わず両耳を押さえてうずくまった。耳がいいということは、こういう時、地獄を見るということだ。
「権六殿。声が、少し大きいです」
「失礼つかまつる!」
現れたのは、岩のような体格の武士だった。年は二十代の終わりか。眉は太く、顎は四角い。
「柴田権六にござる! 足軽衆の扶持米が、三日も遅れておりますぞ! 兵が、腹を空かせて、怒っておる!」
「承知してます。今日の夕刻までに、必ず届けます」
「夕刻! 届かねば、この権六、腹を切って、お詫び申し上げる!」
「切らないでください」
信勝が、真顔で言った。
「理由を聞いてください。扶持米が遅れたのは、僕の算段が甘かったからです。熱田の件が片付いて、加藤家から銭が入りますので、それを充てます」
権六は、じろりと信勝を見た。それから、帳面を出すよう促し、一行ずつ、指で追った。
「……ふむ。確かに」
「お待たせして、すみません」
「いや。勘十郎様は、数の話は強いが、戦の話は、まだまだですな」
「はい。教えてください、権六殿」
権六は、虚を衝かれた顔をして、それから、大声で笑った。
「はっはっは! よろしい! この権六が、鍛えて差し上げよう!」
去っていく背中を、俺は、耳を押さえたまま見送った。
怖い男だった。だが、胸の拍は太く、まっすぐだった。嘘のつけない人間の音だ。
「いい人だね、権六殿」
「……声は、ひどいがな」
午の刻
昼は、城下の南の空き地に、足を運んだ。
「ここに、新しい市を立てるんだ」
棟梁らしい男が、図面を広げて待っていた。信勝は、図面と空き地を見比べ、棒で地面に線を引いた。
「用水は、ここから引いて、この傾きで。傾きが急だと、水が荒れて堤が削れる。緩いと、水が溜まって腐る」
「千分の一ほどで」
「それなら、雨が降っても、溢れません」
棟梁が、目を丸くした。
(新しい町を、一から、決めてるのか)
末森城は、三年前にできたばかりの新しい城だという。この空き地に市ができれば、津島や熱田の商人が、さらに集まってくるのだ。
そのとき、俺の耳が、小さな音を拾った。
足元の、堤の下の方から、ちろちろと、水の抜ける音がした。
「おい」
「ん?」
「その堤、下から水が抜けてる。今は少しだが、雨が降れば、そこから崩れる」
棟梁が、慌てて堤の根元を掘り返した。小さな穴が、ぽっかり開いていた。
「……鼠穴か。いつの間に」
「才蔵、ありがとう。これ、大事な話だよ」
信勝は、嬉しそうに言った。
申の刻
午後は、鍛冶屋の並ぶ一角から、城の大広間へと移った。
「槍の穂先、五百本。矢、一万二千。弓、二百張」
家老たちが居並ぶ前で、信勝は、算盤を弾きながら、淡々と数字を読み上げた。
「三河に出る場合、兵は二千。兵糧は、一人一日六合で、十日分。それに馬の飼い葉と、荷駄の人足の分」
(……六合の二千人が、十日で……)
数字が、頭の中を、ぐるぐる回った。
「米は、千二百石。津島と熱田から、それぞれ半分を調達するとして」
「勘十郎様、美濃の備えは」
「同時に出るとなれば、足りません。だから、片方は出ません。出さないための備えも、要ります」
家老たちが、うなずいた。
俺は、広間の隅で、目を回していた。
散会の後、廊下で、信勝は、ぽつりと言った。
「戦は、できるだけ、したくないんだ」
「備えているのに、か」
「備えるのは、使わないためだよ。槍を作るのは、槍を使わないため」
信勝は、窓の外の夕焼けを見ていた。
「でも、備えがなければ、使わずに済ませる交渉もできない。矛盾してるよね」
(こいつは、十五で、この矛盾を、一人で抱えてるのか)
その夜、足軽衆の扶持米は、日が暮れる前に、無事に届いた。
権六が、頭を下げに来た。信勝は、笑って「お疲れ様でした」と言った。
俺は、離れの小部屋で、天井を見上げた。
朝は坂を登り、学問をし、算盤を弾き、町を作り、戦の備えをする。その合間に、迷子の犬を見つけ、荷を持った老婆に手を貸した。昼飯を食べ損ね、お葉に叱られていた。
(いつ寝るんだ、あいつは)
隣の部屋から、筆の音が聞こえてきた。さらさらと、夜更けまで、途切れなく続いている。




