↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
くしゃみの止まらない落ちこぼれ忍び、織田信長の弟・信勝に拾われました  作者: おさ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/7

第五話 虎の前で

お抱えになった翌日の朝、俺は台所の前で足止めを食らっていた。


「ほら、食べな。痩せっぽちじゃ、忍びは務まらないよ」


どん、と置かれた膳には、雑炊と焼き魚と卵が二つ。声の主は、丸い体を揺らして笑う五十がらみの女だった。


「あたしはお松。台所の主だよ。城中の腹は、あたしが預かってる。あんたの腹も、今日から預かる」

「お松さん。才蔵殿は、これから大殿にお会いするのです。食べすぎては」

「だったら、卵は一つにしといてやろうかね」

「二つで結構です」


お葉が即答した。味方なのか敵なのか分からない。


そこへ、別の女が、湯気の立つ盆を持って入ってきた。四十がらみで、口元がよく動く。


「あらあら、あんたが噂の天井の兄さん……じゃなくて、井戸の兄さんかい! お梅だよ。城のことなら何でも知ってるから、聞きたいことがあったらこっそり聞きな。ただし、あたしが話したとは言うんじゃないよ。で、あんた、いくつだい? どこの出だい? 好物は? あたしの亡くなった旦那はね、柿が」

「お梅さん。才蔵殿が固まっています」

「あらま」


里では、朝飯は黙って食うものだった。ここでは、朝飯が戦場だ。


「あ、あの、お水をお持ちしました!」


おちよが、盆を抱えて走ってきた。


「走るなと、あれほど」

「す、すみませーんっ!」


すてん。盆の水が、きれいな放物線を描いた。俺は膳をひょいと持ち上げて避けた。水は、お葉の足元に落ちた。


「……おちよ」

「ひっ」

「掃除は、あなたがするのですよ」


お葉は怒らない。ただ淡々と手拭いを渡す。こういう人は怖い。


支度は、女中衆の総動員になった。


「寝癖がひどい! お松さん、水!」

「帯が二本届いていますよ、おちよ」

「どちらも同じ色なので、両方締めようかと」

「やめなさい」

「あたしの亡くなった旦那もね、大殿に会う朝は決まって腹を」

「お梅さん、手を止めないでください」


お葉が最後に、襟をぴしりと正した。


「才蔵殿。大殿の前では、聞かれたことにだけ、短く答えなさい。呼ぶときは、勘十郎様と」

「分かった」

「嘘は、いけません」

「忍びに嘘をつくなと言うか」

「あなたは嘘が下手です。それに、大殿は人の嘘を、あなたの耳より先に見抜く方です」


脅しだった。


廊下の向こうから、信勝が壁に手をつきながらやってきた。


「才蔵、準備できた? 僕もご一緒するね」

「勘十郎様」


試しに呼んでみた。信勝は、少し目を丸くして、くすぐったそうに笑った。


「変な感じだね」


広間は、思ったより広く、明るかった。


上座に、四十がらみの男があぐらをかいていた。肩ががっしりして、髭が濃い。目だけが、鷹のように静かだった。


織田信秀。


廊下の冷気と広間の暖気がぶつかって、鼻がむずむずした。


(来るな、今は)


「ぶえっくしょい!」


広間が凍りついた。


信秀が、ふっと笑った。


「良い音じゃ。勘十郎、お前の言った通りか」

「でしょう?」

「しばらく、才蔵と二人で話す。皆、下がれ」


家臣たちが、ざわついた。信勝が首をかしげる。


「僕も?」

「お前は、庭の柿を取ってこい。熟れた頃じゃろう」

「……はい」


信勝は壁に手をつきながら、素直に出ていった。足音が遠ざかり、障子が閉まった。


広間には、俺と信秀だけが残った。


そのとき、信秀が、小さく咳をした。


袖で口元を押さえる、ほんの短い咳だった。


その一音に、俺の耳が止まった。


乾いている。その奥に、胸の底が濡れたような、嫌な音が混じっている。鍛冶屋の親父と、同じ音だ。ただ、あれより、ずっと深い。


信秀は、何事もなかったように、盃に手を伸ばした。


「才蔵」

「……はっ」

「今、聞こえたな」


背筋が冷えた。


「聞こえました」

「いつから分かった」

「今の、一音で」

「ふむ」


信秀は、盃を置いた。


「薬師は、あと半年と申した。家中は誰も知らぬ。勘十郎にも、まだ言うておらぬ」


喉が、つまった。


「なぜ、俺に」

「聞こえる者に、隠しても無駄じゃ」


信秀は、静かに言った。


「今のうちに、お前を見ておきたかった。勘十郎の隣に置く者を、な」


「甲賀の里は、お前を何と呼んでおる」

「……落ちこぼれと」

「そうじゃろうな」


信秀は、あぐらのまま、続けた。


「甲賀は、六角の庭じゃ。いずれは、美濃にも、駿河にも、人を売る。お前を尾張に送ったのは、わしが里を買ったからではない。見つかっても、里は知らぬ顔ができる。損のない捨て駒として、お前は選ばれた。気づいておったか」


胸の奥が、冷えた。


気づいていた、と答えるのは嘘だ。気づかないふりをしていた、が正しい。


「頭領は、『見つかったら知らん顔をしろ』と申しました」

「そう言って送り出す者は、そもそも戻ってくるとは思うておらぬ」


信秀は、俺の顔を見た。


「頭領の心の臓は、静かであったろう」

「……はい。静かすぎました」

「聞こえておったのか」

「聞こえました。嘘をついている、と」

「それでも、行ったのか」

「……はい」

「なぜ」


答えようとして、言葉に詰まった。


里を出られる。誰にも怒られない場所で、思う存分、音を聞ける。そんな浅ましい期待が、胸のどこかにあった。


そう言いかけて、気づいた。


違う。


「……聞こえた嘘を、聞かなかったことにしたかったのです」

「ほう」

「頭領の言葉が嘘だと、認めたくなかった。里に、いらぬ者だと、思われたくなかった」


声が、かすれた。


「俺は、人の嘘は聞こえるのに、自分のことになると、聞こえないふりをします」


信秀は、ゆっくり頷いた。


「それよ」


「お前の耳は、他人の言えぬ音を拾う。じゃが、自分の言えぬ音は、拾わぬ。勘十郎と、同じじゃ」

「勘十郎様も、ですか」

「あれは、自分の困りごとを、人に言わぬ。言わぬのではない。知らぬのじゃ」


昨日の、あの拍を思い出した。


「今日、勘十郎様が、何も困っていないと申されました。心の臓が、二度、跳ねました」

「ほう」


信秀の眉が、わずかに動いた。


「気づいたか」

「はい。嘘をつく者の音ではなく、嘘をついていると知らない音でした」

「その音を、聞き分ける者を、わしは今まで見たことがない」


信秀は、深く息を吐いた。


「あれは、人の悪意を聞かぬ。悪意の裏にある困りごとを、先に見てしまう。そのくせ、自分の困りごとだけは、見えぬ。斬りに来た者にも、飯を出す」


遠くを見るように、信秀は続けた。


「それは、あれの美徳じゃ。だが、あれが生きるこの世では、いつか命取りになる」

「……」

「お前の耳は、売り物にならぬ。だが、勘十郎の耳が拾えぬものを、拾える」


俺は、顔を上げた。


「だから、聞け。あれが聞かぬものを、お前が聞け。お前が聞かぬ自分の音を、あれが聞いてやればよい」


その言葉は、命令ではなかった。


「それが、わしの頼みじゃ」


「ただ、問う。お前は、命をかけてあれの隣におれるか」


息を、一つ吸った。


答えは、考えるまでもなかった。


「隣には、おりますが、命は、懸けられません」


信秀の眉が、わずかに動いた。


「懸けて死んだら、勘十郎様の心を傷つけます」

「……」

「俺にできるのは、転んだとき、困っているとき、音に気づくことです。それしか、できません」


しばらく、沈黙があった。


信秀が、ゆっくりと笑った。


「それで良い」


その声は、虎ではなかった。


「家臣は皆、命を懸けると申す。そう言わねば、わしが信じぬと思うておるからじゃ。だが、そう言う者ほど、いざという時に逃げる」


信秀は、盃を空けた。


「お主みたいな者が、あいつの隣には必要じゃ。覚えておけ」

「はっ」


「才蔵。里のことは、わしが片をつける」

「え」

「今日のうちに、甲賀へ使者を出す。銀を十貫、礼金として送る。その代わり、お前は織田が預かる。里への報せは、月に一度、わしが目を通した文だけじゃ」

「里は、承知するでしょうか」

「里は、利で動く。お前を一人失う損より、銀十貫の得が大きければ、頷く。それが、忍びの里の理じゃ。悲しむことではない」


信秀は、少しだけ声を和らげた。


「それと、一つ、頼みがある」

「何でしょう」

「わしの咳のことは、しばらく、勘十郎に黙っておけ」


息が、止まった。


「あれは、自分の困りごとを知らぬ。そこに、父の病が重なれば、折れる。わしが言うべき時が来るまで、お前の胸に、仕舞っておけ」

「……俺は、嘘が下手です」

「知っておる」


信秀は、わずかに笑った。


「だから、嘘をつかなくてよい。ただ、聞かれたときは、黙れ。嘘は、わしがつく」


それは、命を懸けるより、重い頼みだった。


俺は、深く頭を下げた。


廊下から、どたどたと慌ただしい足音が近づいてきた。


「お父上ー! 取ってきましたー!」


障子が開いて、信勝が、柿を三つ抱えて転がり込んできた。壁に手をつく余裕がなくて、そのまま畳に突っ伏した。


「痛い……」

「勘十郎様!」


思わず、声が出た。信勝は、顔を上げて、ぷくっと頬を膨らませた。


「……その呼び方、やっぱり変な感じ」

「公の場では、そう呼ぶのが筋でしょう」

「えー」


信秀が、盃を傾けながら、肩を震わせていた。


「勘十郎。才蔵は、お前のお抱えじゃ。主従は主従、けじめは要る」

「でも、二人のときは、せめて」

「好きにせい。家臣の前でなければ、問わぬ」


信勝は、ぱっと顔を明るくした。


俺は、信勝の笑顔の裏で、小さな音を聞いていた。


信秀の胸の底の、濡れた拍。そして、信勝の胸の、いつもの、ほんの少し速い拍。


二つの音を、同じ部屋で聞きながら、俺は、何も言わなかった。


広間を出ると、廊下の風が冷たかった。


「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい!」


「お疲れさま、才蔵」


信勝が、壁を伝って追いついてきた。両手には、さっきの柿が三つ。


「お父上と、何を話してたの?」


胸の奥が、きゅっとなった。


「里の話と、お前の話だ」

「僕の?」

「子を思う親心の音を聞いた」

「うーん。なんか、怪しいな」


嘘は、ついていない。ただ、全部は、言っていない。


信勝は、柿を見つめた。


それから、ゆっくり笑った。


「才蔵、これからよろしくね」


信勝が、柿を一つ、俺の手に乗せた。


甘かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。