第五話 虎の前で
お抱えになった翌日の朝、俺は台所の前で足止めを食らっていた。
「ほら、食べな。痩せっぽちじゃ、忍びは務まらないよ」
どん、と置かれた膳には、雑炊と焼き魚と卵が二つ。声の主は、丸い体を揺らして笑う五十がらみの女だった。
「あたしはお松。台所の主だよ。城中の腹は、あたしが預かってる。あんたの腹も、今日から預かる」
「お松さん。才蔵殿は、これから大殿にお会いするのです。食べすぎては」
「だったら、卵は一つにしといてやろうかね」
「二つで結構です」
お葉が即答した。味方なのか敵なのか分からない。
そこへ、別の女が、湯気の立つ盆を持って入ってきた。四十がらみで、口元がよく動く。
「あらあら、あんたが噂の天井の兄さん……じゃなくて、井戸の兄さんかい! お梅だよ。城のことなら何でも知ってるから、聞きたいことがあったらこっそり聞きな。ただし、あたしが話したとは言うんじゃないよ。で、あんた、いくつだい? どこの出だい? 好物は? あたしの亡くなった旦那はね、柿が」
「お梅さん。才蔵殿が固まっています」
「あらま」
里では、朝飯は黙って食うものだった。ここでは、朝飯が戦場だ。
「あ、あの、お水をお持ちしました!」
おちよが、盆を抱えて走ってきた。
「走るなと、あれほど」
「す、すみませーんっ!」
すてん。盆の水が、きれいな放物線を描いた。俺は膳をひょいと持ち上げて避けた。水は、お葉の足元に落ちた。
「……おちよ」
「ひっ」
「掃除は、あなたがするのですよ」
お葉は怒らない。ただ淡々と手拭いを渡す。こういう人は怖い。
支度は、女中衆の総動員になった。
「寝癖がひどい! お松さん、水!」
「帯が二本届いていますよ、おちよ」
「どちらも同じ色なので、両方締めようかと」
「やめなさい」
「あたしの亡くなった旦那もね、大殿に会う朝は決まって腹を」
「お梅さん、手を止めないでください」
お葉が最後に、襟をぴしりと正した。
「才蔵殿。大殿の前では、聞かれたことにだけ、短く答えなさい。呼ぶときは、勘十郎様と」
「分かった」
「嘘は、いけません」
「忍びに嘘をつくなと言うか」
「あなたは嘘が下手です。それに、大殿は人の嘘を、あなたの耳より先に見抜く方です」
脅しだった。
廊下の向こうから、信勝が壁に手をつきながらやってきた。
「才蔵、準備できた? 僕もご一緒するね」
「勘十郎様」
試しに呼んでみた。信勝は、少し目を丸くして、くすぐったそうに笑った。
「変な感じだね」
広間は、思ったより広く、明るかった。
上座に、四十がらみの男があぐらをかいていた。肩ががっしりして、髭が濃い。目だけが、鷹のように静かだった。
織田信秀。
廊下の冷気と広間の暖気がぶつかって、鼻がむずむずした。
(来るな、今は)
「ぶえっくしょい!」
広間が凍りついた。
信秀が、ふっと笑った。
「良い音じゃ。勘十郎、お前の言った通りか」
「でしょう?」
「しばらく、才蔵と二人で話す。皆、下がれ」
家臣たちが、ざわついた。信勝が首をかしげる。
「僕も?」
「お前は、庭の柿を取ってこい。熟れた頃じゃろう」
「……はい」
信勝は壁に手をつきながら、素直に出ていった。足音が遠ざかり、障子が閉まった。
広間には、俺と信秀だけが残った。
そのとき、信秀が、小さく咳をした。
袖で口元を押さえる、ほんの短い咳だった。
その一音に、俺の耳が止まった。
乾いている。その奥に、胸の底が濡れたような、嫌な音が混じっている。鍛冶屋の親父と、同じ音だ。ただ、あれより、ずっと深い。
信秀は、何事もなかったように、盃に手を伸ばした。
「才蔵」
「……はっ」
「今、聞こえたな」
背筋が冷えた。
「聞こえました」
「いつから分かった」
「今の、一音で」
「ふむ」
信秀は、盃を置いた。
「薬師は、あと半年と申した。家中は誰も知らぬ。勘十郎にも、まだ言うておらぬ」
喉が、つまった。
「なぜ、俺に」
「聞こえる者に、隠しても無駄じゃ」
信秀は、静かに言った。
「今のうちに、お前を見ておきたかった。勘十郎の隣に置く者を、な」
「甲賀の里は、お前を何と呼んでおる」
「……落ちこぼれと」
「そうじゃろうな」
信秀は、あぐらのまま、続けた。
「甲賀は、六角の庭じゃ。いずれは、美濃にも、駿河にも、人を売る。お前を尾張に送ったのは、わしが里を買ったからではない。見つかっても、里は知らぬ顔ができる。損のない捨て駒として、お前は選ばれた。気づいておったか」
胸の奥が、冷えた。
気づいていた、と答えるのは嘘だ。気づかないふりをしていた、が正しい。
「頭領は、『見つかったら知らん顔をしろ』と申しました」
「そう言って送り出す者は、そもそも戻ってくるとは思うておらぬ」
信秀は、俺の顔を見た。
「頭領の心の臓は、静かであったろう」
「……はい。静かすぎました」
「聞こえておったのか」
「聞こえました。嘘をついている、と」
「それでも、行ったのか」
「……はい」
「なぜ」
答えようとして、言葉に詰まった。
里を出られる。誰にも怒られない場所で、思う存分、音を聞ける。そんな浅ましい期待が、胸のどこかにあった。
そう言いかけて、気づいた。
違う。
「……聞こえた嘘を、聞かなかったことにしたかったのです」
「ほう」
「頭領の言葉が嘘だと、認めたくなかった。里に、いらぬ者だと、思われたくなかった」
声が、かすれた。
「俺は、人の嘘は聞こえるのに、自分のことになると、聞こえないふりをします」
信秀は、ゆっくり頷いた。
「それよ」
「お前の耳は、他人の言えぬ音を拾う。じゃが、自分の言えぬ音は、拾わぬ。勘十郎と、同じじゃ」
「勘十郎様も、ですか」
「あれは、自分の困りごとを、人に言わぬ。言わぬのではない。知らぬのじゃ」
昨日の、あの拍を思い出した。
「今日、勘十郎様が、何も困っていないと申されました。心の臓が、二度、跳ねました」
「ほう」
信秀の眉が、わずかに動いた。
「気づいたか」
「はい。嘘をつく者の音ではなく、嘘をついていると知らない音でした」
「その音を、聞き分ける者を、わしは今まで見たことがない」
信秀は、深く息を吐いた。
「あれは、人の悪意を聞かぬ。悪意の裏にある困りごとを、先に見てしまう。そのくせ、自分の困りごとだけは、見えぬ。斬りに来た者にも、飯を出す」
遠くを見るように、信秀は続けた。
「それは、あれの美徳じゃ。だが、あれが生きるこの世では、いつか命取りになる」
「……」
「お前の耳は、売り物にならぬ。だが、勘十郎の耳が拾えぬものを、拾える」
俺は、顔を上げた。
「だから、聞け。あれが聞かぬものを、お前が聞け。お前が聞かぬ自分の音を、あれが聞いてやればよい」
その言葉は、命令ではなかった。
「それが、わしの頼みじゃ」
「ただ、問う。お前は、命をかけてあれの隣におれるか」
息を、一つ吸った。
答えは、考えるまでもなかった。
「隣には、おりますが、命は、懸けられません」
信秀の眉が、わずかに動いた。
「懸けて死んだら、勘十郎様の心を傷つけます」
「……」
「俺にできるのは、転んだとき、困っているとき、音に気づくことです。それしか、できません」
しばらく、沈黙があった。
信秀が、ゆっくりと笑った。
「それで良い」
その声は、虎ではなかった。
「家臣は皆、命を懸けると申す。そう言わねば、わしが信じぬと思うておるからじゃ。だが、そう言う者ほど、いざという時に逃げる」
信秀は、盃を空けた。
「お主みたいな者が、あいつの隣には必要じゃ。覚えておけ」
「はっ」
「才蔵。里のことは、わしが片をつける」
「え」
「今日のうちに、甲賀へ使者を出す。銀を十貫、礼金として送る。その代わり、お前は織田が預かる。里への報せは、月に一度、わしが目を通した文だけじゃ」
「里は、承知するでしょうか」
「里は、利で動く。お前を一人失う損より、銀十貫の得が大きければ、頷く。それが、忍びの里の理じゃ。悲しむことではない」
信秀は、少しだけ声を和らげた。
「それと、一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「わしの咳のことは、しばらく、勘十郎に黙っておけ」
息が、止まった。
「あれは、自分の困りごとを知らぬ。そこに、父の病が重なれば、折れる。わしが言うべき時が来るまで、お前の胸に、仕舞っておけ」
「……俺は、嘘が下手です」
「知っておる」
信秀は、わずかに笑った。
「だから、嘘をつかなくてよい。ただ、聞かれたときは、黙れ。嘘は、わしがつく」
それは、命を懸けるより、重い頼みだった。
俺は、深く頭を下げた。
廊下から、どたどたと慌ただしい足音が近づいてきた。
「お父上ー! 取ってきましたー!」
障子が開いて、信勝が、柿を三つ抱えて転がり込んできた。壁に手をつく余裕がなくて、そのまま畳に突っ伏した。
「痛い……」
「勘十郎様!」
思わず、声が出た。信勝は、顔を上げて、ぷくっと頬を膨らませた。
「……その呼び方、やっぱり変な感じ」
「公の場では、そう呼ぶのが筋でしょう」
「えー」
信秀が、盃を傾けながら、肩を震わせていた。
「勘十郎。才蔵は、お前のお抱えじゃ。主従は主従、けじめは要る」
「でも、二人のときは、せめて」
「好きにせい。家臣の前でなければ、問わぬ」
信勝は、ぱっと顔を明るくした。
俺は、信勝の笑顔の裏で、小さな音を聞いていた。
信秀の胸の底の、濡れた拍。そして、信勝の胸の、いつもの、ほんの少し速い拍。
二つの音を、同じ部屋で聞きながら、俺は、何も言わなかった。
広間を出ると、廊下の風が冷たかった。
「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい!」
「お疲れさま、才蔵」
信勝が、壁を伝って追いついてきた。両手には、さっきの柿が三つ。
「お父上と、何を話してたの?」
胸の奥が、きゅっとなった。
「里の話と、お前の話だ」
「僕の?」
「子を思う親心の音を聞いた」
「うーん。なんか、怪しいな」
嘘は、ついていない。ただ、全部は、言っていない。
信勝は、柿を見つめた。
それから、ゆっくり笑った。
「才蔵、これからよろしくね」
信勝が、柿を一つ、俺の手に乗せた。
甘かった。




