第四話 才蔵覚書
井戸端から末森城までは、歩いて半刻ほどだった。
濡れた着物は女中衆に取り上げられ、乾いたものを着せられ、熱い湯を飲まされた。断る間もなかった。信勝は先を歩き、俺は借りた羽織を肩にかけて、少し後ろをついていく。同い年のはずなのに、信勝の足取りは危なっかしく、何度も壁や荷車に手をついていた。
城下の大通りは、井戸端の騒ぎが嘘のような賑わいだった。
里の仕事で、六角の城下や近江の町を、何度も聞いてきた。どこも声は低く、聞こえてくるのは年貢の愚痴と、浪人を恐れるひそひそ話ばかりだった。
尾張は違った。荷車の軋み、銭のぶつかる音、市の呼び声。その呼び声には、美濃訛りも伊勢訛りも三河訛りも混じっている。
(人が、集まってくる音だ)
鍛冶屋の前を通ると、奥から槌の音がした。拍が揃っている。一軒ではない。隣も、そのまた隣も、同じ拍で鉄を打っている。同じ形の物を、大量に作っているのだ。
(戦の支度だ。それも、小競り合いの規模じゃない)
「勘十郎様ー! 今日はどこで転びなすった!」
「井戸端だよ!」
「ははは、お怪我なく!」
町の者が次々に声をかけ、信勝は一人ずつに手を振って応えている。
茶屋の縁台で、年寄りが声を張っていた。
「津島も熱田も、大殿のおかげで銭が回る。尾張は今に、日の本の真ん中になるぞ」
「しっ、声がでかい。美濃も駿河も、黙っちゃいねえぞ」
「大殿の次は、勘十郎様か、吉法師様か」
笑い声の下に、低いざわめきが混じっていた。誰もが口に出さないだけで、同じことを思っている。
(この国は、何かを作ろうとしている。そして、作り終える前に、何かが揺らぎかけている)
里は、音を売る場所だった。ここは、音が生まれる場所だ。
俺は、鼻をすすった。
奥の間は、書物の山と墨の匂いの部屋だった。春先の弱い日差しが障子から差し込んでいる。
廊下の冷気から暖かい部屋に入った拍子に、鼻がむずむずしたが、一度で済んだ。借りた羽織のおかげだ。
「紹介するね」
信勝が、座布団を勧めながら言った。
「こちらがお葉。僕付きの筆頭女中で、年は十八。城下の帳面は、ほとんどお葉がつけてくれてる。怖いけど、すごく頼りになるんだ」
「怖くはありません」
井戸端で杓文字を握っていた背筋の伸びた娘が、無表情で頭を下げた。膝元には、どこかで見た笠が置いてある。
「お前、渡し場にいた」
「尾張に入る前から、お見かけしておりました。美濃の関所に張らせていた者から、くしゃみの異様に大きい男が尾張へ向かったと報せがありまして」
「そんな理由で」
「あれほど目立つ忍びは、他におりません」
「それから、障子の外で盆を拾ってるのが、おちよ。台所見習いの十四で」
「お、おちよです!」
障子がすっと開いて、小柄な少女が顔を出した。井戸端で盆を抱えたまま半泣きになっていた子だ。
「先ほどは、そのっ、お盆をっ……あっ」
すてん。
干し柿の皿が宙を舞い、柿が一つ、俺の膝にころんと転がってきた。
「おちよ、下がりなさい」
「すみませんすみません!」
おちよは這うように下がっていった。信勝は聞かなかったことにして、柿を俺に勧めた。
「台所には、お松さんとお梅さんっていう、もっと賑やかな人たちもいるけど、それはまた今度。……お葉、読んで」
信勝が文机の脇から、分厚い帳面を取り出した。表紙には達筆で『才蔵覚書』とある。
「僕は、城下の困りごとを帳面にまとめてるんだ。それで、才蔵さんが尾張に入ってからのことも、お葉たちに書き留めてもらってた」
「俺の悪事の記録か」
「悪事じゃないよ」
お葉が帳面を開き、淡々と読み上げた。
「渡し場にて、産気づいた女に気づく。方法、音。臍の緒の異変を、産婆より先に察知」
「あれは、婆さんがほとんどやった。俺は『落ちた』『戻った』と叫んでただけだ」
「産婆は船頭に、『あの子の耳がなければ、母子ともに危なかった』と申しておりました。次。木賃宿にて、隣室の老人の異変に気づく。方法、寝息」
「ああ、あの爺さん。息が途切れるのが気になって、眠れなかっただけだ」
「老人は、心の臓に持病がありました。主人が医者を呼び、一命を取り留めております。飯に卵がついたのは、その礼かと」
「教えてくれればいいのに」
「あなたが、礼を言われると困った顔をなさるので、主人も言いそびれたようです」
(卵の理由は、それか)
「次。鍛冶屋の親父。通りすがりに、才蔵殿が『咳が深いぞ。肺の奥で、ぜいぜい鳴っている』と声をかける」
「独り言だ」
「親父は笑い飛ばしましたが、気になって薬師に診せたところ、肺の病の初めでした。今なら養生で治るそうです」
「聞こえたことを、言っただけだ」
「はい。だから、記録するのです」
お葉の声の調子が、わずかに変わった。
「この覚書の全てに、共通点があります。当事者の誰一人、才蔵殿に助けを求めていません。産婦は隠し、老人は眠り、鍛冶屋は笑い飛ばしていた」
お葉は、最後の頁を示した。墨が、まだ乾ききっていなかった。
「先ほどの井戸の幼子です。才蔵殿は、泣き声が消えた瞬間に走り出された。聞こえている間は、人はまだ大丈夫です。止まったときが危ない。才蔵殿は、それを知っておられた」
「……そんなこと、考えたこともない」
「それが、才蔵殿の耳なのです」
信勝が、静かに言った。
「才蔵さんが拾うのは、『助けて』って言えない人の音なんだと思う。泣いてる人は助けを呼べる。でも、声を殺して我慢してる人は呼べない。才蔵さんの耳は、『言えない』が聞こえるんだよ」
胸の奥に、何かが落ちた。
里では、銀にならない音ばかり拾う落ちこぼれと言われた。それを、この少年は、別の名前で呼び直した。
「……そんな風に、言われたことはない」
俺は、顔をそむけた。耳が熱かった。
「なぜ、俺を知っていた」
しばらくして、俺は聞いた。
「羽織を着せて、名前まで呼んだ。尾張に入る前から、知っていたはずだ」
「うん。甲賀出身の薬売りで、与六さんって人がいてね」
聞き覚えは、なかった。
「三年前、里の市で、荷を運んでる才蔵さんが、倒れかけた薬売りを助けたって」
思い出した。胸の拍が、ときどき飛ぶ男だった。座れと言ったら、本当に倒れた。
「あの人か」
「その与六さんが、命の恩人のことを調べたんだ。近江の小領主のお屋敷で、母の薬代に泣いてた女中さんのところに、黒染めの小さな忍びが、黙って銀を置いて帰った話も」
息が、止まった。誰にも見られていないと思っていた。
「その女中さんのお母さんの薬を、後で届けたのは、与六さんなんだ。『置いたのが誰か、すぐ分かった』って。それと、才蔵さんの師匠さんが、与六さんに言ったんだって。『あれは忍びには向かん。だが、人の耳としては惜しい』って」
胸の奥が、きゅっと熱くなった。
(あの人は、「関わるな」と言いながら)
「それを聞いて、すぐ会いたいと思った。僕は、困ってる人を全部拾いたい。でも、帳面には、声に出された困りごとしか載らない。言えない人の分は、空白のままなんだ」
信勝は、膝の上の帳面を撫でた。
「才蔵さんなら、その空白が埋まる。それが、僕が一番欲しかったことだよ」
「お前自身は、どうなんだ」
自分でも、なぜ聞いたのか分からなかった。
「え?」
「他人の困りごとは、全部拾いたいんだろう。お前の困りごとは、誰が拾うんだ」
信勝は、きょとんとした。それから、いつもの顔で笑った。
「僕? 僕は、何も困ってないよ」
その瞬間だった。
信勝の胸の拍が、半拍、飛んだ。
声は、穏やかだった。笑顔にも、ひびはなかった。だが、胸の底の拍だけが、確かに、一つ跳ねた。
「兄上もいるし、お父上もいるし、お葉たちもいる。体のことも、もう慣れたし。僕は、困りごとを聞く側だから」
また、跳ねた。
(嘘をついている)
だが、その音は、嘘をつく人間のものとは、違っていた。嘘をつく者は、息を整え、拍を揃えようとする。信勝の拍は、何も隠そうとしていなかった。
自分が嘘をついていることを、本人が、知らない音だった。
「……お前、今、嘘をついたな」
「え? ついてないよ」
「心臓が跳ねた。『何も困ってない』のところで、二回」
信勝は、目を丸くした。
「そんな、だって、本当に」
「もう一度、言ってみろ」
「僕は、何も困ってない」
跳ねた。
信勝の笑顔が、固まった。
「……もう一回」
「僕は、困ってない、……はず」
声が、細くなった。今度は、拍が揺れていた。
お葉が、静かに息を飲んだ。
「勘十郎様。私どもは、勘十郎様がいつも笑っておられるので、困りごとはないものと、ずっと」
「お葉……」
「申し訳ございません。一度も、お聞きしたことが、ありませんでした」
信勝は、しばらく黙っていた。
障子の向こうから、おちよの足音と、遠くの槌の音が聞こえる。
「そっか」
信勝は、ぽつりと言った。
「僕、困ってたんだ」
「何に困ってるのかは、まだ分からない」
「うん」
「でも、嘘をついてるつもりは、本当になかったんだ。ずっと、本気で、そう思ってた」
信勝は、膝の上の手を、そっと握った。
「才蔵さんの耳は、僕に聞こえない僕の音まで、拾うんだね」
俺は、答えられなかった。
自分の耳が、里では欠陥と呼ばれたこの耳が、初めて、誰かの一番奥にある音に届いた気がした。
「才蔵さん。お願いがあるんだ」
信勝は、背筋を伸ばして、俺をまっすぐに見た。
「僕の、お抱えの忍びになってくれないかな」
「お抱え?」
「織田家の家臣じゃなくて、僕個人の。衣食住はこっちで用意する。給金もちゃんと出す。羽織は、冬用と夏用を」
「条件が多い」
「大事なのは、これだけ」
信勝は、指を一本立てた。
「困っている人を見かけたら、助けること。それ以外は、何も強制しない。その中には、僕も入れてほしい。僕が、自分で気づけない分も」
俺は、答える前に、頭の中で音を数えた。
同じ拍で鳴る槌の音。他国訛りの呼び声。笑い声の下の、低いざわめき。そして、さっき跳ねた、あの拍。
(里は、音を売る。だが、ここは、音が生まれる場所だ)
この国は、何かになろうとしている。その真ん中に、自分の困りごとにも気づかず笑っている男が、一人で立っている。
(この国が何になるのか、聞いてみたい)
(この男の、隣で)
「俺は、里の者だ。里の許しもなく、勝手に主を持てん」
「そこは、お父上に頼むよ。里との話は、お父上にお任せする」
「大殿に」
「うん。僕が決められるのは、才蔵さんの気持ちだけ」
信勝は、湯呑みを両手で包んだ。
「……受ける」
声が、少しだけ震えた。
「ただし、お前のためだけじゃない。この国が何になるのか、最後まで聞いてみたい」
「うん。それでいいよ」
「くしゃみが止まらなくなっても、怒るな」
「怒らないよ。むしろ」
信勝は、袂から、小さな懐紙の束を取り出した。
「用意しておいた」
「……いつの間に」
「才蔵さんの鼻水の量は、帳面で把握してるから」
背後で、お葉が口元を押さえて、肩を震わせていた。
その夜、俺は城の離れの小部屋を与えられた。
六畳ほどの、飾り気のない部屋だ。布団は干したてで、枕元には火鉢が置かれ、壁際の行李には冬用と夏用の羽織が畳んである。
(今日の昼に決まった話なのに、もう用意してあったのか)
忍びの習慣で、部屋の隅から隅までを確かめた。隠し戸なし、覗き穴なし。あるのは、静かな夜と、火鉢の暖かさだけだった。
懐から、師匠の包みを取り出した。山の婆様の鼻の薬だ。結局、一度も使わなかった。
(見届けたぞ、師匠)
誰に向けた言い訳なのか、自分でも分からなかった。
目を閉じると、昼間の拍が、耳の奥で鳴った。半拍、飛んだ、あの音。
(何も困っていない、か)
あの嘘は、何を隠していたのだろう。
そのとき、遠くから、別の音が聞こえてきた。
筆が、紙の上を走る音だ。信勝の部屋の方角だった。さらさらと、夜更けまで、途切れなく続いている。
何を書いているのか、この時の俺は、まだ知らなかった。




