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くしゃみの止まらない落ちこぼれ忍び、織田信長の弟・信勝に拾われました  作者: おさ


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3/7

第三話 井戸の底の音

木曽川を渡って二日。俺は末森の城下に着いた。


想像以上に賑やかな町だった。市が立ち、職人が声を張り、子供が駆け回っている。織田の勢いを、肌で感じた。


宿は城下の外れの木賃宿にした。安くて、客が多くて、目立たない。


「兄さん、くしゃみ、うるさいよ」

「すまん。体質なんだ」

「布団をもう一枚貸そうか」

「いい。出し切るまで止まらんから、貸しても同じだ」


宿の主人は苦笑した。ちなみにその夜、厠の帰りに冷えた廊下から帳場に入って、盛大にくしゃみをした。翌朝、なぜか主人が飯に卵をつけてくれた。理由は聞いても教えてくれなかった。


城下に入って二日、俺は偵察らしきことをした。


城の出入り、見張りの交代、家臣の顔ぶれ。師匠に教わった通り、遠くから静かに見る。


結果は、見事なまでに空振りだった。


耳が勝手に、違う音ばかり拾うのだ。鍛冶屋の親父が、夜に腰をかばって咳をする音。荷担ぎの若者が、片足を引きずる拍子。市の婆さんが、売れ残りの菜っ葉を前に溜息をつく気配。


城の秘密は、ひとつも聞こえない。町の困りごとばかりが、耳に溜まっていく。


(里の帳面なら、赤字だな)


三日目の朝、俺は人混みの中で足を止めた。


物売りの声。井戸端の噂話。槌の音。遠くの寺の鐘。その全部の向こうに、ほんの小さな、おかしな音が混じっていた。


誰かが泣いている。


声にならない、小さな嗚咽。水の中で響くような、くぐもった音だった。


(どこだ)


町の中央にある古い井戸の方から聞こえる。井戸の周りには、人だかりができていた。


「うちの子が見つからないんです! 朝から、どこにも!」


女が半狂乱で叫んでいる。


「落ち着いて、お内儀さん。井戸ならさっき皆で覗いた。誰もいなかったよ」

「でも、あの子、井戸の近くで遊ぶのが好きで」


(誰も、気づいていない)


嗚咽は、井戸の底から聞こえていた。だが、人混みの中でそれを拾えるのは、たぶん俺だけだ。


(関わるな)


師匠の声がした。


(俺は忍びだ。目立つな。見つかるな。銀にならない音は、聞かなかったことにしろ)


分かっている。分かっているが、あの渡し場の婆さんの声も、同時に蘇った。


(聞いちまったもんは、聞かなかったことにはできない)


足が、一歩出た。


その時、嗚咽が、ぴたりと止まった。


背筋が冷えた。


泣き声が止まるのは、落ち着いたからではない。泣く力が尽きたか、意識が遠のいたかだ。


「どいてくれ!」


俺は人垣をかき分け、井戸の縁に足をかけた。


「おい、何してる!」

「底の横穴に、子供がいる。昔、水が涸れた時に掘った穴だ。体を縮めて隠れてる」

「なんでお前に分かる」

「音が聞こえた。今、止まった」


説明している暇はなかった。縄をつかみ、近くにいた男に押しつけた。


「しっかり持ってろ!」


返事を待たず、飛び降りた。


井戸の底の水は、氷のように冷たかった。腰まで浸かると、鼻の奥がぞくりと痺れた。


(来る。今は、来るな)


「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい!」


井戸の中に、くしゃみがわんわんと反響した。


「うわあああ!」


横穴の奥から悲鳴が上がった。生きている。


「おばけ、おばけ!」

「おばけじゃない! 忍びだ!」

「忍者はもっとこわい!」

「そうだな! すまん!」


水をかき分けて頭を突っ込むと、七つか八つの男の子が、膝を抱えて震えていた。唇は紫で、着物は濡れている。


「ほら、出ておいで。お母さんが、ずっと探してる」

「お、お母さん……?」


子供は、泣きながら俺の首にしがみついた。


氷のような体だった。ここで外の風に晒せば、体の熱を全部持っていかれる。


俺は襟を開いて、子供を懐に入れた。


「少し、我慢しろ。上に出るぞ」


縄を揺らして合図を送る。上から、人々が勢いよく引き上げてくれた。


地上に出た途端、冷たい風が顔を殴った。


「ぶええっくしょい!」


子供が母親の腕に飛び込んだ。


「お母さーん!」

「ああ、よかった、よかった!」


母親が子供を抱きしめて、わんわん泣いた。周りの人々が拍手と歓声を上げる。


(これで終わりだ)


俺は立ち上がって、そっと人垣から離れようとした。名乗るな。礼を受けるな。師匠の教えは、体に染みついている。


だが、足が止まった。


子供の呼吸が、まだ浅い。心の臓の音が、まだ遅い。唇も、紫のままだ。


(半端に関わって逃げるのが、一番、人を傷つける)


師匠の声と、婆さんの声が、ここで一つに重なった。


「お内儀さん。濡れた着物を脱がせて、すぐ温めろ。足の先と手の先を、さすってやれ。眠らせるな」

「え、は、はい」

「誰か、火を。それと、熱い湯を。飲ませるのは、少しずつだ」


人々が、慌てて動き出した。


俺は子供のそばに膝をついて、小さな手を両手で包んだ。冷たかった。


「いいか、寝るな。目を開けてろ。名前は」

「……太助」

「太助。好きな食い物は」

「ぼたもち」

「ぼたもちか。じゃあ、お母さんが作ってくれるまで、起きてろ」


太助は、こくりと頷いた。


火を焚いた焚き火の前で、そうして半刻ほど手をさすっていた。やがて太助の唇に、ほんのり赤みが戻った。心臓の音も、ゆっくり力強さを取り戻していく。


(よし)


そこでようやく、俺の鼻水が堰を切った。


「ずず、ぶえっくしょい。ずず、ぶえっくしょい」

「あんた、自分がずぶ濡れじゃないか!」

「誰か、手拭いを!」

「いえ、俺は」


人々が、わっと俺の周りに集まった。


そのときだった。


人垣の向こうから、慌てた足音が聞こえた。


「すみません、通してください! 通して……わっ」


どすん、と鈍い音がした。誰かが人垣の端で、盛大に転んだらしい。


「勘十郎様!」

「大丈夫ですか、勘十郎様!」


数人の女の声が、一斉に響いた。


(勘十郎?)


人垣が割れた。


その真ん中を、よろよろと、一人の少年が歩いてきた。年は俺と同じくらい。色白で細面。上等な着物の膝が、泥で汚れている。立って歩いているのに、体がわずかに左に傾いていた。


後ろには、杓文字を握った背筋の伸びた娘と、盆を抱えたまま半泣きの小柄な少女がついてきている。


「いたた……ごめんなさい。道が悪くて」


少年は膝をさすりながら井戸端まで来て、母親と太助の姿を見た。


ぱっと、顔が明るくなった。


「よかった、見つかったんだ」

「勘十郎様。こちらの忍び風の方が、井戸の底から助けてくださいました」

「うん。聞こえてたよ」

「聞こえてた?」


思わず口が出た。井戸からここまで、かなりの距離があったはずだ。


「くしゃみ。井戸の底から響いてきて、町の端まで届いてたんだ」


少年は、悪びれもせずに言った。


「何事かと思って、駆けつけたんだよ」

「勘十郎様。駆けつけたのではなく、転びながら来られたのです」

「お葉、細かいよ」


後ろの娘が、無表情で訂正した。


少年は、地面に座り込む俺の前に、よろよろと膝をついた。


そして、自分が着ていた羽織を、すっと脱いだ。


「これ、羽織って」

「いや、汚れる」

「いいの。寒いでしょう」


分厚い綿入れの羽織が、俺の肩にかけられた。


温かかった。鼻の奥の痺れが、少しずつ引いていく。くしゃみが、ようやく止まった。


「……ありがとう」

「ううん、こっちこそ」


少年は、にこりと笑った。


「見届けてくれたでしょう。太助くんが温まるまで、ずっと手をさすってた。僕、そこから見てたんだ」


(見られてた)


「ありがとう。あの子の手を離さないでいてくれて」


胸の奥が、ざわついた。


誰にも礼を言われまいと、逃げ続けてきた。それなのに、この少年の礼だけは、どうしても、逃げ場がなかった。


「僕、織田勘十郎信勝。君は、才蔵さんだよね」


俺は、固まった。


名乗っていない。井戸の前でも、渡し場でも、宿でも、誰にも本名を言っていない。


「……なんで、俺の名を」

「ずっと、会いたかったんだ」


信勝は、羽織の袖を、俺の肩に整えながら言った。


「君に」



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