第三話 井戸の底の音
木曽川を渡って二日。俺は末森の城下に着いた。
想像以上に賑やかな町だった。市が立ち、職人が声を張り、子供が駆け回っている。織田の勢いを、肌で感じた。
宿は城下の外れの木賃宿にした。安くて、客が多くて、目立たない。
「兄さん、くしゃみ、うるさいよ」
「すまん。体質なんだ」
「布団をもう一枚貸そうか」
「いい。出し切るまで止まらんから、貸しても同じだ」
宿の主人は苦笑した。ちなみにその夜、厠の帰りに冷えた廊下から帳場に入って、盛大にくしゃみをした。翌朝、なぜか主人が飯に卵をつけてくれた。理由は聞いても教えてくれなかった。
城下に入って二日、俺は偵察らしきことをした。
城の出入り、見張りの交代、家臣の顔ぶれ。師匠に教わった通り、遠くから静かに見る。
結果は、見事なまでに空振りだった。
耳が勝手に、違う音ばかり拾うのだ。鍛冶屋の親父が、夜に腰をかばって咳をする音。荷担ぎの若者が、片足を引きずる拍子。市の婆さんが、売れ残りの菜っ葉を前に溜息をつく気配。
城の秘密は、ひとつも聞こえない。町の困りごとばかりが、耳に溜まっていく。
(里の帳面なら、赤字だな)
三日目の朝、俺は人混みの中で足を止めた。
物売りの声。井戸端の噂話。槌の音。遠くの寺の鐘。その全部の向こうに、ほんの小さな、おかしな音が混じっていた。
誰かが泣いている。
声にならない、小さな嗚咽。水の中で響くような、くぐもった音だった。
(どこだ)
町の中央にある古い井戸の方から聞こえる。井戸の周りには、人だかりができていた。
「うちの子が見つからないんです! 朝から、どこにも!」
女が半狂乱で叫んでいる。
「落ち着いて、お内儀さん。井戸ならさっき皆で覗いた。誰もいなかったよ」
「でも、あの子、井戸の近くで遊ぶのが好きで」
(誰も、気づいていない)
嗚咽は、井戸の底から聞こえていた。だが、人混みの中でそれを拾えるのは、たぶん俺だけだ。
(関わるな)
師匠の声がした。
(俺は忍びだ。目立つな。見つかるな。銀にならない音は、聞かなかったことにしろ)
分かっている。分かっているが、あの渡し場の婆さんの声も、同時に蘇った。
(聞いちまったもんは、聞かなかったことにはできない)
足が、一歩出た。
その時、嗚咽が、ぴたりと止まった。
背筋が冷えた。
泣き声が止まるのは、落ち着いたからではない。泣く力が尽きたか、意識が遠のいたかだ。
「どいてくれ!」
俺は人垣をかき分け、井戸の縁に足をかけた。
「おい、何してる!」
「底の横穴に、子供がいる。昔、水が涸れた時に掘った穴だ。体を縮めて隠れてる」
「なんでお前に分かる」
「音が聞こえた。今、止まった」
説明している暇はなかった。縄をつかみ、近くにいた男に押しつけた。
「しっかり持ってろ!」
返事を待たず、飛び降りた。
井戸の底の水は、氷のように冷たかった。腰まで浸かると、鼻の奥がぞくりと痺れた。
(来る。今は、来るな)
「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい!」
井戸の中に、くしゃみがわんわんと反響した。
「うわあああ!」
横穴の奥から悲鳴が上がった。生きている。
「おばけ、おばけ!」
「おばけじゃない! 忍びだ!」
「忍者はもっとこわい!」
「そうだな! すまん!」
水をかき分けて頭を突っ込むと、七つか八つの男の子が、膝を抱えて震えていた。唇は紫で、着物は濡れている。
「ほら、出ておいで。お母さんが、ずっと探してる」
「お、お母さん……?」
子供は、泣きながら俺の首にしがみついた。
氷のような体だった。ここで外の風に晒せば、体の熱を全部持っていかれる。
俺は襟を開いて、子供を懐に入れた。
「少し、我慢しろ。上に出るぞ」
縄を揺らして合図を送る。上から、人々が勢いよく引き上げてくれた。
地上に出た途端、冷たい風が顔を殴った。
「ぶええっくしょい!」
子供が母親の腕に飛び込んだ。
「お母さーん!」
「ああ、よかった、よかった!」
母親が子供を抱きしめて、わんわん泣いた。周りの人々が拍手と歓声を上げる。
(これで終わりだ)
俺は立ち上がって、そっと人垣から離れようとした。名乗るな。礼を受けるな。師匠の教えは、体に染みついている。
だが、足が止まった。
子供の呼吸が、まだ浅い。心の臓の音が、まだ遅い。唇も、紫のままだ。
(半端に関わって逃げるのが、一番、人を傷つける)
師匠の声と、婆さんの声が、ここで一つに重なった。
「お内儀さん。濡れた着物を脱がせて、すぐ温めろ。足の先と手の先を、さすってやれ。眠らせるな」
「え、は、はい」
「誰か、火を。それと、熱い湯を。飲ませるのは、少しずつだ」
人々が、慌てて動き出した。
俺は子供のそばに膝をついて、小さな手を両手で包んだ。冷たかった。
「いいか、寝るな。目を開けてろ。名前は」
「……太助」
「太助。好きな食い物は」
「ぼたもち」
「ぼたもちか。じゃあ、お母さんが作ってくれるまで、起きてろ」
太助は、こくりと頷いた。
火を焚いた焚き火の前で、そうして半刻ほど手をさすっていた。やがて太助の唇に、ほんのり赤みが戻った。心臓の音も、ゆっくり力強さを取り戻していく。
(よし)
そこでようやく、俺の鼻水が堰を切った。
「ずず、ぶえっくしょい。ずず、ぶえっくしょい」
「あんた、自分がずぶ濡れじゃないか!」
「誰か、手拭いを!」
「いえ、俺は」
人々が、わっと俺の周りに集まった。
そのときだった。
人垣の向こうから、慌てた足音が聞こえた。
「すみません、通してください! 通して……わっ」
どすん、と鈍い音がした。誰かが人垣の端で、盛大に転んだらしい。
「勘十郎様!」
「大丈夫ですか、勘十郎様!」
数人の女の声が、一斉に響いた。
(勘十郎?)
人垣が割れた。
その真ん中を、よろよろと、一人の少年が歩いてきた。年は俺と同じくらい。色白で細面。上等な着物の膝が、泥で汚れている。立って歩いているのに、体がわずかに左に傾いていた。
後ろには、杓文字を握った背筋の伸びた娘と、盆を抱えたまま半泣きの小柄な少女がついてきている。
「いたた……ごめんなさい。道が悪くて」
少年は膝をさすりながら井戸端まで来て、母親と太助の姿を見た。
ぱっと、顔が明るくなった。
「よかった、見つかったんだ」
「勘十郎様。こちらの忍び風の方が、井戸の底から助けてくださいました」
「うん。聞こえてたよ」
「聞こえてた?」
思わず口が出た。井戸からここまで、かなりの距離があったはずだ。
「くしゃみ。井戸の底から響いてきて、町の端まで届いてたんだ」
少年は、悪びれもせずに言った。
「何事かと思って、駆けつけたんだよ」
「勘十郎様。駆けつけたのではなく、転びながら来られたのです」
「お葉、細かいよ」
後ろの娘が、無表情で訂正した。
少年は、地面に座り込む俺の前に、よろよろと膝をついた。
そして、自分が着ていた羽織を、すっと脱いだ。
「これ、羽織って」
「いや、汚れる」
「いいの。寒いでしょう」
分厚い綿入れの羽織が、俺の肩にかけられた。
温かかった。鼻の奥の痺れが、少しずつ引いていく。くしゃみが、ようやく止まった。
「……ありがとう」
「ううん、こっちこそ」
少年は、にこりと笑った。
「見届けてくれたでしょう。太助くんが温まるまで、ずっと手をさすってた。僕、そこから見てたんだ」
(見られてた)
「ありがとう。あの子の手を離さないでいてくれて」
胸の奥が、ざわついた。
誰にも礼を言われまいと、逃げ続けてきた。それなのに、この少年の礼だけは、どうしても、逃げ場がなかった。
「僕、織田勘十郎信勝。君は、才蔵さんだよね」
俺は、固まった。
名乗っていない。井戸の前でも、渡し場でも、宿でも、誰にも本名を言っていない。
「……なんで、俺の名を」
「ずっと、会いたかったんだ」
信勝は、羽織の袖を、俺の肩に整えながら言った。
「君に」




