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くしゃみの止まらない落ちこぼれ忍び、織田信長の弟・信勝に拾われました  作者: おさ


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2/7

第二話 渡し場の産声

船頭が、遠巻きにこちらを見ていた。


「兄さん、風邪かい」

「いえ、体質で。出し切るまで止まらないだけです」

「そりゃ難儀だな。……坊主、いくつだ」

「十五です」

「十五? 十二、三かと思った」


よく言われる。背は低く、肩は薄い。里では「痩せた鼠」と呼ばれていた。継ぎだらけの黒染めの古着に、ぼさぼさの髪。鼻の下は年中擦りむけて赤く、目だけが大きい。忍びらしい凄みが、一つもない。


川面に映った自分の顔を見て、俺は鼻をすすった。


(これで、織田の城下に潜入するのか)


我ながら、無理がある。


渡し場には、十人ほどの旅人がいた。商人、行脚の僧、親子連れ。川が荒れていて、船が出せないのだという。


急ぐ旅ではない。そう思って、少し寂しくなった。里では、仕事には必ず期限があって、遅れれば帳面に赤字が足された。だが今回は、報告の日取りも何も決められていない。


誰も、俺を待っていないのだ。


(考えるな)


目を閉じると、人の呼吸と鼓動が並んで聞こえてきた。商人は腹が減っている。僧は眠い。子供は退屈している。


その中に、一つだけ、おかしな音があった。


荷物の陰に座る若い女。笠を深くかぶり、背中を丸めている。呼吸が浅く、ときどき息が止まる。痛みを必死にこらえている音だ。そして体の奥から、もう一つ、小さな鼓動が聞こえた。


(産み月か)


(関わるな)


師匠の声が、頭に響いた。


(聞いた音は里の物だ。銀に替えぬ音は、聞いていないのと同じだ)


分かっている。あの女中の泣き声を聞いたときも、同じ言葉を思い出した。そして結局、銀を置いてきた。


女の息が、ひときわ細く途切れた。


「あんた」


気づいたら、声をかけていた。女がびくりと顔を上げた。


「産気づいてるな。いつからだ」

「……朝から。半刻おきに。でも、夫が尾張で待っていて、迷惑をかけたくなくて」


小さな声だった。年の割に、ずいぶん痩せている。


周りがざわついた。


「産気づいてるのか!?」

「困るよ、渡し場で産まれちゃあ」

「船頭、早く舟を出せ!」

「川が荒れてて出せねえんだ!」


そのとき、人垣の後ろから、杖をついた老婆が顔を出した。


白い頭巾をかぶった、行脚の尼のような婆さんだった。背は俺より低く、顔は皺だらけで、目だけが妙に澄んでいる。


「静かにおし」


一言で、場が静まった。


「産気づいた女が、一番やっちゃいけないのは、我慢することだよ。あたしは若い頃、三百人は取り上げてる。任せな」


婆さんは女の手首を取り、腹に掌を当てて、慣れた手つきで確かめた。


「そこの商人、お湯だ。船頭、小屋の火を貸しとくれ。坊さんは、お経じゃなくて布を集めとくれ」


誰もが反射的に動き出した。


(これが、本物の産婆か)


俺の出る幕はない。そう思ったとき、寒い川辺から暖かい渡し小屋に入って、鼻が爆発した。


「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい!」


「うるさいよ!」

「すみません!」


小屋の隅で鼻を押さえながら、俺は無意識に、女の腹の音を聞いていた。


とくとくとく。とくとくとく。


小さな鼓動が、一定の速さで鳴っている。


(……?)


女が、波に襲われて身をよじった。そのとき、小さな鼓動が、すとん、と落ちた。


ゆっくりになった。そして、波が引くと、元に戻った。


(今のは)


次の波。また、落ちた。戻った。


(波のたびに、落ちてる)


迷った。俺は忍びだ。産婆でもない。口を挟めば、婆さんに怒鳴られる。


(関わるな)


だが、次の波で、鼓動の落ち方が、さっきより深かった。


「婆さん」

「なんだい、今忙しい」

「子の鼓動が、痛みの波のたびに、落ちています。さっきより、深く」


婆さんの手が、止まった。


「……何だって?」

「波が来ると、ゆっくりになって、引くと戻ります。だんだん、戻りが遅くなっています」


婆さんは、じっと俺を見た。疑っている目だった。当然だ。そんなことが分かるはずがない。


だが、俺は、目をそらさなかった。


「……あんた、本当に、聞こえるんだね」

「はい」

「嘘だったら、承知しないよ」

「嘘なら、心の臓が乱れます。聞いてください」


婆さんは、一瞬、呆気に取られた。それから、ふっと口の端を上げた。


「面白いことを言うね。分かった。信じるよ」


婆さんは、女の腹をもう一度探り、顔色を変えた。


「臍の緒が、首に巻いてるかもしれない」

「え」

「巻いてりゃ、波のたびに首が締まって、鼓動が落ちる。あたしの手じゃ、そこまでは分からなかった」


婆さんは、女の体を横向きに寝かせた。


「いいかい、あんた。今から、あたしの言うことだけを聞くんだ。いきんじゃいけない。息を吐いて、波をやり過ごす」

「は、はい……」

「才蔵、って言ったね。あんたは、そこで聞いてな。落ちたら『落ちた』、戻ったら『戻った』。それだけ、大声で言いな」

「はい」


そこからは、長かった。


「落ちた」

「戻った」

「落ちた」

「戻った」


俺は、自分の声が嗄れるのも気にせず、同じ言葉を繰り返した。婆さんは、その声に合わせて、女の背をさすり、息を合わせさせた。


寒い川辺の風と、小屋の暖気が混ざって、鼻水が止まらなかった。くしゃみが何度も出た。そのたびに婆さんが「うるさい」と怒鳴り、俺は「すみません」と言いながら、また聞いた。


とくとくとく。とく。とく。……


(落ちた。深い)


「落ちた! 深い!」

「まだ、いきむんじゃないよ!」

「戻らない」

「何だって」

「戻らない。……いや、待て」


心臓が、止まりそうだった。


小さな鼓動が、聞こえない。


耳を、澄ませる。波の音。女の呼吸。炭のはぜる音。


その向こうに。


とく。


「戻った!」

「今だ! いきんでごらん!」


女が声を上げた。婆さんが両手を差し入れ、何かを外す仕草をした。一息、二息。


小屋に、赤子の体が現れた。


声が、しなかった。


産声がない。


(止まった?)


婆さんが、赤子の背中を、強く、強く擦った。


「さあ、泣きな、泣きな!」


とくとくとく。小さな鼓動は、聞こえる。生きてる。だが、泣かない。


「泣け……泣いてくれ」


気づけば、俺は声に出していた。


その時、赤子が、くしゃりと顔を歪めた。


「おぎゃあ、おぎゃあ!」


小屋に、産声が響き渡った。


旅人たちが、一斉に歓声を上げた。商人が拍手し、僧が経を唱え、船頭が帽子を放り投げた。


女は、泣いていた。腕の中には、小さな赤子。


「ありがとうございます、ありがとうございます……!」


俺は、その場にへたり込んだ。喉がかすれて、声が出なかった。


婆さんが、手拭いで手を拭きながら、俺の隣に腰を下ろした。


「あんた、名前は」

「才蔵です」

「才蔵。あたしは、いい耳の持ち主を見たのは、初めてじゃない。けど、あんたみたいに、聞いたまま動く子は初めてだ」

「……俺は、何もしてません。ずっと、鼻水を垂らしてただけで」

「馬鹿言いな」


婆さんは、じろりと俺を見た。


「あたしらの世界じゃね、産む女の言えないことを聞く人を、一番大事にするんだ。痛い、怖い、不安だ。そういうのを、声にならないうちに拾う人をね」


婆さんは、赤子を抱く女を、静かに見ていた。


「あんたは、その『聞く人』だ。生まれつきね」

「でも、俺は、忍びです。聞いた音は、里の物で……」

「忍びのことは、知らないよ」


婆さんは、肩をすくめた。


「ただ、一つだけ、覚えておきな。聞いちまったもんは、聞かなかったことには、できない。聞いたなら、最後まで付き合いな。半端に聞いて、半端に逃げるのが、一番、相手を傷つける」


(師匠と、同じことを)


胸の奥が、きゅっとなった。


「……最後まで、ですか」

「そう。最後まで。それが、聞く人の仕事さ」


婆さんは、にやりと笑った。


「その耳、安売りするんじゃないよ。あんたの耳には、銀なんかじゃ測れない値打ちがある」


昼過ぎ、霧が晴れて、舟が出た。


産んだ女と赤子は、船頭の計らいで先に乗せてもらった。婆さんも一緒に乗り込む。


「あんたも、乗りな」

「俺は、次の舟で」

「ほら、早く」


押されるようにして、俺も乗り込んだ。


舟が岸を離れたとき、女が、俺の袖に何かを押し込んだ。


握り飯が、二つ。


「夫の分に、と思って持ってきたものですが」

「いらない。お前が食え。産後は力がいる」

「いいえ、どうか」


押し問答の末、俺は握り飯を一つだけ受け取った。


塩気が、ちょうどよかった。


川を渡る舟の中で、俺は握り飯を齧りながら、まだ耳に残っている音を数えていた。


波のたびに落ちた鼓動。戻らなかった、あの一瞬の静けさ。「戻った」と叫んだとき、喉の奥が震えたこと。


(銀には、ならないな)


里の帳面に書けば、「路銀と時間の浪費、銀ゼロ」。それだけの話だ。


それなのに、胸の奥が、妙に温かかった。


銀にならない音を、初めて、聞いていてよかったと思った。


俺は、気づいていなかった。


渡し場の端、霧の向こうに、笠をかぶった一人の娘が立っていたことを。


才蔵の耳は、困っている人の音には、驚くほど敏感だった。だが、困っていない人の足音には、驚くほど鈍かった。


その娘が、懐から小さな帳面を取り出して、さらさらと筆を走らせていたことを。


『才蔵、渡し場にて産婦に気づく。方法:音。臍の緒の異変を、産婆より先に察知。本人、自覚なし』

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