第二話 渡し場の産声
船頭が、遠巻きにこちらを見ていた。
「兄さん、風邪かい」
「いえ、体質で。出し切るまで止まらないだけです」
「そりゃ難儀だな。……坊主、いくつだ」
「十五です」
「十五? 十二、三かと思った」
よく言われる。背は低く、肩は薄い。里では「痩せた鼠」と呼ばれていた。継ぎだらけの黒染めの古着に、ぼさぼさの髪。鼻の下は年中擦りむけて赤く、目だけが大きい。忍びらしい凄みが、一つもない。
川面に映った自分の顔を見て、俺は鼻をすすった。
(これで、織田の城下に潜入するのか)
我ながら、無理がある。
渡し場には、十人ほどの旅人がいた。商人、行脚の僧、親子連れ。川が荒れていて、船が出せないのだという。
急ぐ旅ではない。そう思って、少し寂しくなった。里では、仕事には必ず期限があって、遅れれば帳面に赤字が足された。だが今回は、報告の日取りも何も決められていない。
誰も、俺を待っていないのだ。
(考えるな)
目を閉じると、人の呼吸と鼓動が並んで聞こえてきた。商人は腹が減っている。僧は眠い。子供は退屈している。
その中に、一つだけ、おかしな音があった。
荷物の陰に座る若い女。笠を深くかぶり、背中を丸めている。呼吸が浅く、ときどき息が止まる。痛みを必死にこらえている音だ。そして体の奥から、もう一つ、小さな鼓動が聞こえた。
(産み月か)
(関わるな)
師匠の声が、頭に響いた。
(聞いた音は里の物だ。銀に替えぬ音は、聞いていないのと同じだ)
分かっている。あの女中の泣き声を聞いたときも、同じ言葉を思い出した。そして結局、銀を置いてきた。
女の息が、ひときわ細く途切れた。
「あんた」
気づいたら、声をかけていた。女がびくりと顔を上げた。
「産気づいてるな。いつからだ」
「……朝から。半刻おきに。でも、夫が尾張で待っていて、迷惑をかけたくなくて」
小さな声だった。年の割に、ずいぶん痩せている。
周りがざわついた。
「産気づいてるのか!?」
「困るよ、渡し場で産まれちゃあ」
「船頭、早く舟を出せ!」
「川が荒れてて出せねえんだ!」
そのとき、人垣の後ろから、杖をついた老婆が顔を出した。
白い頭巾をかぶった、行脚の尼のような婆さんだった。背は俺より低く、顔は皺だらけで、目だけが妙に澄んでいる。
「静かにおし」
一言で、場が静まった。
「産気づいた女が、一番やっちゃいけないのは、我慢することだよ。あたしは若い頃、三百人は取り上げてる。任せな」
婆さんは女の手首を取り、腹に掌を当てて、慣れた手つきで確かめた。
「そこの商人、お湯だ。船頭、小屋の火を貸しとくれ。坊さんは、お経じゃなくて布を集めとくれ」
誰もが反射的に動き出した。
(これが、本物の産婆か)
俺の出る幕はない。そう思ったとき、寒い川辺から暖かい渡し小屋に入って、鼻が爆発した。
「ぶえっくしょい! ぶえっくしょい!」
「うるさいよ!」
「すみません!」
小屋の隅で鼻を押さえながら、俺は無意識に、女の腹の音を聞いていた。
とくとくとく。とくとくとく。
小さな鼓動が、一定の速さで鳴っている。
(……?)
女が、波に襲われて身をよじった。そのとき、小さな鼓動が、すとん、と落ちた。
ゆっくりになった。そして、波が引くと、元に戻った。
(今のは)
次の波。また、落ちた。戻った。
(波のたびに、落ちてる)
迷った。俺は忍びだ。産婆でもない。口を挟めば、婆さんに怒鳴られる。
(関わるな)
だが、次の波で、鼓動の落ち方が、さっきより深かった。
「婆さん」
「なんだい、今忙しい」
「子の鼓動が、痛みの波のたびに、落ちています。さっきより、深く」
婆さんの手が、止まった。
「……何だって?」
「波が来ると、ゆっくりになって、引くと戻ります。だんだん、戻りが遅くなっています」
婆さんは、じっと俺を見た。疑っている目だった。当然だ。そんなことが分かるはずがない。
だが、俺は、目をそらさなかった。
「……あんた、本当に、聞こえるんだね」
「はい」
「嘘だったら、承知しないよ」
「嘘なら、心の臓が乱れます。聞いてください」
婆さんは、一瞬、呆気に取られた。それから、ふっと口の端を上げた。
「面白いことを言うね。分かった。信じるよ」
婆さんは、女の腹をもう一度探り、顔色を変えた。
「臍の緒が、首に巻いてるかもしれない」
「え」
「巻いてりゃ、波のたびに首が締まって、鼓動が落ちる。あたしの手じゃ、そこまでは分からなかった」
婆さんは、女の体を横向きに寝かせた。
「いいかい、あんた。今から、あたしの言うことだけを聞くんだ。いきんじゃいけない。息を吐いて、波をやり過ごす」
「は、はい……」
「才蔵、って言ったね。あんたは、そこで聞いてな。落ちたら『落ちた』、戻ったら『戻った』。それだけ、大声で言いな」
「はい」
そこからは、長かった。
「落ちた」
「戻った」
「落ちた」
「戻った」
俺は、自分の声が嗄れるのも気にせず、同じ言葉を繰り返した。婆さんは、その声に合わせて、女の背をさすり、息を合わせさせた。
寒い川辺の風と、小屋の暖気が混ざって、鼻水が止まらなかった。くしゃみが何度も出た。そのたびに婆さんが「うるさい」と怒鳴り、俺は「すみません」と言いながら、また聞いた。
とくとくとく。とく。とく。……
(落ちた。深い)
「落ちた! 深い!」
「まだ、いきむんじゃないよ!」
「戻らない」
「何だって」
「戻らない。……いや、待て」
心臓が、止まりそうだった。
小さな鼓動が、聞こえない。
耳を、澄ませる。波の音。女の呼吸。炭のはぜる音。
その向こうに。
とく。
「戻った!」
「今だ! いきんでごらん!」
女が声を上げた。婆さんが両手を差し入れ、何かを外す仕草をした。一息、二息。
小屋に、赤子の体が現れた。
声が、しなかった。
産声がない。
(止まった?)
婆さんが、赤子の背中を、強く、強く擦った。
「さあ、泣きな、泣きな!」
とくとくとく。小さな鼓動は、聞こえる。生きてる。だが、泣かない。
「泣け……泣いてくれ」
気づけば、俺は声に出していた。
その時、赤子が、くしゃりと顔を歪めた。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
小屋に、産声が響き渡った。
旅人たちが、一斉に歓声を上げた。商人が拍手し、僧が経を唱え、船頭が帽子を放り投げた。
女は、泣いていた。腕の中には、小さな赤子。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
俺は、その場にへたり込んだ。喉がかすれて、声が出なかった。
婆さんが、手拭いで手を拭きながら、俺の隣に腰を下ろした。
「あんた、名前は」
「才蔵です」
「才蔵。あたしは、いい耳の持ち主を見たのは、初めてじゃない。けど、あんたみたいに、聞いたまま動く子は初めてだ」
「……俺は、何もしてません。ずっと、鼻水を垂らしてただけで」
「馬鹿言いな」
婆さんは、じろりと俺を見た。
「あたしらの世界じゃね、産む女の言えないことを聞く人を、一番大事にするんだ。痛い、怖い、不安だ。そういうのを、声にならないうちに拾う人をね」
婆さんは、赤子を抱く女を、静かに見ていた。
「あんたは、その『聞く人』だ。生まれつきね」
「でも、俺は、忍びです。聞いた音は、里の物で……」
「忍びのことは、知らないよ」
婆さんは、肩をすくめた。
「ただ、一つだけ、覚えておきな。聞いちまったもんは、聞かなかったことには、できない。聞いたなら、最後まで付き合いな。半端に聞いて、半端に逃げるのが、一番、相手を傷つける」
(師匠と、同じことを)
胸の奥が、きゅっとなった。
「……最後まで、ですか」
「そう。最後まで。それが、聞く人の仕事さ」
婆さんは、にやりと笑った。
「その耳、安売りするんじゃないよ。あんたの耳には、銀なんかじゃ測れない値打ちがある」
昼過ぎ、霧が晴れて、舟が出た。
産んだ女と赤子は、船頭の計らいで先に乗せてもらった。婆さんも一緒に乗り込む。
「あんたも、乗りな」
「俺は、次の舟で」
「ほら、早く」
押されるようにして、俺も乗り込んだ。
舟が岸を離れたとき、女が、俺の袖に何かを押し込んだ。
握り飯が、二つ。
「夫の分に、と思って持ってきたものですが」
「いらない。お前が食え。産後は力がいる」
「いいえ、どうか」
押し問答の末、俺は握り飯を一つだけ受け取った。
塩気が、ちょうどよかった。
川を渡る舟の中で、俺は握り飯を齧りながら、まだ耳に残っている音を数えていた。
波のたびに落ちた鼓動。戻らなかった、あの一瞬の静けさ。「戻った」と叫んだとき、喉の奥が震えたこと。
(銀には、ならないな)
里の帳面に書けば、「路銀と時間の浪費、銀ゼロ」。それだけの話だ。
それなのに、胸の奥が、妙に温かかった。
銀にならない音を、初めて、聞いていてよかったと思った。
俺は、気づいていなかった。
渡し場の端、霧の向こうに、笠をかぶった一人の娘が立っていたことを。
才蔵の耳は、困っている人の音には、驚くほど敏感だった。だが、困っていない人の足音には、驚くほど鈍かった。
その娘が、懐から小さな帳面を取り出して、さらさらと筆を走らせていたことを。
『才蔵、渡し場にて産婦に気づく。方法:音。臍の緒の異変を、産婆より先に察知。本人、自覚なし』




