第一話 甲賀の鼻
甲賀の里で、俺は「歴代で最も忍ばない忍者」と呼ばれていた。
隠れれば腹が鳴る。息を殺せば鼻が鳴る。屋根に登れば、月も出ていないのに影が濃い。
「才蔵。お前は気配が派手すぎる」
師匠は毎回、深いため息をつく。
原因は鼻だ。暖かい部屋から冷たい廊下に出ても、冷たい庭から囲炉裏端に入っても、鼻の奥がむずむずして、水っぱなが垂れてくる。しかもくしゃみは一発で済まない。鼻の中が空っぽになるまで、五発でも十発でも続く。暑いところから寒いところへ出るときの方が、ひどい。
薬師にも山の婆様にも見せたが、答えは同じだった。
「分からん。出し切るまで出すしかない」
忍びとして、これ以上の欠陥はない。
甲賀は、里ぐるみで動く。
忍びは一人一人が主を持つのではなく、里が仕事を受け、里が人を割り振り、里が銀を受け取る。六角家のような近隣の大名から、商家、寺、時には他国の誰かまで、依頼主は選ばない。里の者は、銀の分だけ働く。
頭領の屋敷には、一冊の大きな帳面がある。誰がいくら稼ぎ、誰がいくら食い、誰が里にいくら損を出したか。それが全て書かれている。
俺の頁は、赤字ばかりだった。
「才蔵。先月の仕事の報告を聞こう」
その日、師匠が俺を呼び出した。囲炉裏の前で、師匠は腕を組んでいる。
「近江の小領主の屋敷に、三日張りついたな」
「はい」
「何を聞いた」
「……何も」
「何も?」
「異状なし、と」
師匠が、深く息を吐いた。
「あの屋敷の主は、来月、六角に寝返ると噂されていた。里はその確証に、銀を二十匁積むつもりだった。お前は三日も張りついて、何を聞いていた」
俺は、黙った。
聞こえたのだ。主の密談ではなく、台所の隅で、年若い女中が声を殺して泣いている音が。
故郷の母親が病で、薬代が足りない。給金の前借りを頼んだが、断られた。女中はそのことを、誰にも言えず、夜な夜な、水甕の陰で泣いていた。
三日目の夜、俺は気づいたら、懐の銀を水甕の脇に置いていた。里から持たされた、仕事の路銀だ。
結局、密談は一つも聞いていない。聞こえた音の分だけ、足が止まっていた。
「才蔵」
「はい」
「お前の耳は、里で一番だ」
師匠は、静かに言った。
「他の者が聞き取れぬ囁きを、お前は拾う。遠い足音、衣擦れ、人の心の臓の乱れ。それだけの耳があれば、里でも指折りの働き手になれる」
「……はい」
「だが、お前はその耳で、誰も銀を払わぬ音ばかり拾う」
師匠の目は、怒っていなかった。ただ、ひどく疲れていた。
「忍びは、人に関わるな。聞いた音は、里の物だ。里の外へは一つも漏らすな。銀に替えぬ音は、聞いていないのと同じだ」
「分かっています」
「分かっていないから、毎回言っている」
その夜の帳面には、路銀の分が、また赤字で足された。
天文二十年の冬の終わり。
俺は頭領の屋敷に呼ばれた。囲炉裏の向こうに、頭領が座っている。傍らには、師匠もいた。
頭領は、五十を過ぎた小柄な男だった。柔らかな物腰で、笑うと目が糸のようになる。里の者は皆、この人の前では、背筋を伸ばす。
「才蔵」
「はい」
「尾張へ行ってもらう」
俺は鼻をすすった。屋敷に入ったばかりで、鼻がまだ緩んでいる。
「尾張というと、織田ですか。あの成り上がりの」
「織田信秀。尾張の虎と呼ばれておる。美濃の斎藤、駿河の今川、どちらに転ぶにせよ、尾張の動きは東海道の行く末を決める。今のうちに、末森の城下に人を入れておきたい」
「そんな大役、俺に務まるでしょうか」
「務まる」
頭領は、にこりと笑った。
「お前の耳は、里一番だ。期待しておる」
(……あれ)
俺は、頭領の胸の音を聞いた。
驚くほど、静かだった。乱れも、跳ねもない。まるで、水面に張った薄い氷のように、整っていた。
嘘をつく人の心臓は、普通、少しだけ乱れる。だが、長く嘘をついてきた人は逆だ。乱れるどころか、かえって整う。
(この人は、俺に期待などしていない)
そう分かったが、顔には出さなかった。
「ただし、条件がある」
頭領は、柔らかく続けた。
「深入りはするな。見つかるな。もし見つかったら、知らぬ顔をしろ」
「知らぬ顔、ですか」
「里は、お前を知らぬ。お前も、里を知らぬ。そういうことだ」
師匠が、わずかに身じろぎした。
その音が、俺の耳に届いた。畳を擦る小さな音と、息を飲む気配。
頭領は、にこやかなまま、続けた。
「尾張は遠い。路銀は多めに持たせよう。励め、才蔵」
要するに、これは、捨て駒だった。
里から送り出す偵察は、見つかっても損がない者を選ぶ。落ちこぼれで、帳面が赤字の俺は、まさに適任だ。
分かっていた。聞こえていた。
だが俺は、「はい」と答えた。
里の外へ出られる。誰にも怒られない場所で、思う存分、音を聞ける。そんな浅ましい期待が、胸のどこかにあったからだ。
聞こえた嘘を、聞かなかったことにした。
出発の朝は、霜が降りていた。
里の外れまで、子供たちが見送りに来た。
「才蔵兄ちゃん、行っちゃうの?」
「ああ、尾張にな」
「お土産は?」
「期待するな。たぶん、鼻水しか持って帰らん」
子供たちは笑った。その中の一人、洟の垂れた小さな男の子が、俺の袖を引いた。
「兄ちゃんのくしゃみ、おもしろいから好きだったのに」
「面白がるな」
俺は少し笑って、その子の鼻を拭ってやった。ぐず、と鼻をすする音が、やけに大きく聞こえた。
そう、耳がいい。俺は子供が泣きそうな音を、先に拾ってしまう。里の子が転ぶ前に走ったり、泣き出す前に抱き上げたり、気づけばいつも、そんなことばかりしていた。師匠いわく、「忍びの仕事の邪魔」らしい。
「才蔵」
師匠が、懐から小さな包みを取り出した。
「持っていけ。山の婆様の、鼻の薬だ。効くかどうかは知らん」
「師匠」
「効かなくとも、気は晴れるだろう」
俺は、包みを受け取った。
師匠は、しばらく、何か言いたそうに口を動かした。結局、出てきたのは、いつもの台詞だった。
「いいか、才蔵。忍びは、人に関わるな」
「分かってます」
「分かっていないから、言っている」
師匠は、俺の肩に手を置いた。
「だが、もし、お前が、人に関わらずにいられぬなら」
師匠の声は、少し震えていた。
「その時は、関わった人を、最後まで見届けろ。半端に関わるのが、一番、人を傷つける」
「……師匠」
「行け。日が昇る」
里の門をくぐるとき、風が冷たかった。吐く息が白い。鼻の奥が、むずむずする。
「……ぶえっくしょい!」
三発、四発、五発。霜の道に、盛大な音が響いた。
背後で、子供たちの笑い声と、師匠のため息が重なって聞こえた。
俺は袖で鼻を拭い、振り返らずに歩き出した。
尾張までは、七日の道のり。
捨て駒にされたことは、分かっていた。それでも、足取りは軽かった。




