第七話 おちよのお使い
「才蔵さん! お使いです! 一緒にお使いに行きますよ!」
朝の台所で、おちよが目を輝かせて飛びついてきた。飛びつきすぎて、足がもつれて、俺の腹に頭突きが入った。
「……痛い」
「ごめんなさい!」
お松さんが、味噌樽を磨きながら笑った。
「庄内川沿いの庄屋さんから、味噌にする豆を十俵、受け取ってくるんだよ。荷車は庄屋さんが出してくれるし、運ぶのは村の若い衆。おちよは受け取りの判をもらって帰るだけさ。才蔵はお目付け」
「お目付け?」
「おちよが川に落ちないようにね」
「護衛だな」
「その通りだよ」
おちよが「落ちません!」と言った拍子に、土間の段差で転んだ。
門まで見送りに出た信勝が、いつもより少しそわそわしていた。
「気をつけてね。ゆっくり行って、夕方までに戻ればいいから。庄屋さんに何か言われたら、断らずに従ってあげて」
「はい!」
おちよの返事は元気だった。だが、俺の耳は別のものを拾っていた。
信勝の胸の拍が、少しだけ速い。嘘の音ではない。何かを楽しみにしている人間の音だった。
(何か、企んでるな)
だが、悪い音ではなかったので、黙っておいた。
城下を抜けて、田の畦道を北へ歩いた。
三月の風は、まだ冷たい。おちよは小さな身体に大きな竹籠を背負い、跳ねるように歩いている。
「才蔵さん、忍びって、どうやってなるんですか?」
「どうって」
「ほら、屋根を走ったり、壁に張りついたり、ぱっと消えたり」
「俺はできない」
「えっ」
「屋根を走ると瓦が割れる。壁に張りつくと、鼻が出る。消えるのは、苦手だ」
「それ、忍びじゃないですよね?」
「そうだな」
おちよが、声を上げて笑った。
「でも、お葉さんが言ってました。才蔵さんが来てから、城の雰囲気が変わったって」
「どう変わった」
「勘十郎様が、よく笑うようになりました」
俺は、鼻をすすった。
「前は、笑ってなかったのか」
「笑ってはいました。でも、笑い方が、お仕事の笑い方だったんです。最近のは、お腹から出てます」
(お腹から、か)
それは、俺の耳でも、聞き分けられていなかった違いだった。
道の途中、野良犬が、前の藪から飛び出してきた。
「ひいっ!」
おちよが、俺の背中に隠れた。犬は、低く唸って歯を剥いた。
俺は、荷から干し柿を一つ取り出して、犬の前にそっと置いた。犬は、じっと柿を見て、それから、むしゃむしゃと食べた。
「……才蔵さん、いま、犬に柿あげましたよね」
「腹が減ってる音がした」
「犬の腹の音まで聞こえるんですか!」
「聞こえる」
犬は、食べ終わると、俺の足元にまとわりついてきた。それから、そのまま、ついてきた。
「ついてきますよ」
「柿が、もう一つ欲しいんだろう」
「あげないでくださいよ、もう」
「分かってる」
その夜、おちよの籠から干し柿が減っている件で、お松さんに怒られることになるのだが、それはまだ先の話だ。
川が見えてきた頃、おちよが、ふと、真面目な顔をした。
「才蔵さんは、どうして忍びになったんですか。さっきは聞き流されちゃったので」
「……なりたくて、なったわけじゃない」
俺は、前を向いたまま答えた。
「甲賀の里は、忍びの里だ。そこで生まれた子は、他に食う道がない」
「ご両親も、忍びですか」
「父は、そうだった。俺が六つの時に、任務に出て、帰ってこなかった」
おちよが、口を閉じた。
「里からは、見舞銀が、二十匁届いた」
「二十匁……」
「父の命の値段が、二十匁だった。俺の初めての赤字の路銀と、同じ額だ」
自分でも、笑い話のように言ってしまった。だが、おちよは、笑わなかった。
「お母さんは」
「母は、病で臥せっていた。父が帰ってこなくなってから、ずっと」
風が、田の水面をなでた。
「咳が、ひどかった。夜になると、特にひどくなる。俺は、母の隣で寝ていた。毎晩、母の息の音を聞いて、数えて、眠った」
「……数える?」
「息が、続いているかどうか、数えていた。止まったら、起こさなきゃいけないから」
おちよが、息を呑んだ。
「九つの冬だった。ある夜、目が覚めた。何が起きたのか、分からなかった。ただ、静かだった」
俺は、足を止めなかった。
「母の息の音が、聞こえなくなっていた」
おちよが、俺の袖をそっと掴んだ。
「聞こえて、いたんだ。眠る前までは。聞こえなくなったから、目が覚めた。でも、遅かった」
言葉にするのは、何年ぶりだろう。
「それからだ。音が止まるのが、怖くなった。止まってから気づいても、遅い。だから、止まる前に動く。……そういう癖が、ついた」
(井戸の底の、声が止まった瞬間)
あの時、体が先に動いたのは、これだったのだと、やっと分かった。
「才蔵さんが、人を助ける理由は、そこにあったんですね」
「理由なんて、立派なもんじゃない。ただ、怖いだけだ」
「怖いのに、動けるのが、立派なんです」
おちよが、袖を掴んだまま、言った。
「私、才蔵さんのこと、最初は、ちょっと怖いなって思ってました。忍びなのに、いつも鼻をすすってて、何を考えてるか、分からなくて」
「今は」
「今は、一番、話しやすい人です」
俺は、答えられなかった。
「師匠さんは、どんな人だったんですか」
しばらく歩いてから、おちよが聞いた。
「里で、俺を引き取ってくれた人だ。母が亡くなって、一人になった俺を、囲炉裏のある家に置いてくれた」
「優しい人ですね」
「口癖は、『忍びは、人に関わるな』だった」
「えっ」
「毎日、言われた。里を出る朝にも」
俺は、小さく笑った。
「関わるなと言いながら、鼻の薬を渡してきた。効くかどうかは知らん、と」
「それ、関わってますよ」
「ああ。俺もそう思った」
おちよが、ふと、立ち止まった。
「あの、才蔵さん。師匠さんは、才蔵さんが傷つくのが、嫌だったんじゃないですか」
「……」
「人に関わると、別れが来ますよね。お母さんの時みたいに」
足が、止まった。
「だから、『関わるな』って言ったんじゃ。才蔵さんが、もう、あんな思いをしないように」
風が、頬を打った。
(そうかもしれない)
師匠は、口癖のように言った。人に関わるな。聞いた音は里の物だ。銀に替えぬ音は、聞いていないのと同じだ。
それは、俺を忍びとして使うための言葉だと、思っていた。
だが、俺が母を亡くした夜のことを、一番よく知っているのは、師匠だった。
「……考えたことが、なかった」
「そうですか」
「ありがとう、おちよ」
おちよは、驚いて、それから、顔を真っ赤にした。
「わ、私は、何も!」
その拍子に、足元の石につまずいて、また転んだ。
庄屋の屋敷に着いたのは、昼前だった。
「おお、お城のお使いの方か。豆はもう、積んであるよ」
庄屋は、小柄な老人だった。若い衆が、手際よく荷車に豆の俵を積んでいく。おちよが判をもらい、俺は荷車の綱を確かめた。
「それと、おちよ殿」
「は、はい」
「これは、勘十郎様からの言づけなんだがね」
庄屋が、にこにこして言った。
「お使いの荷が積み終わったら、半日、暇を取って、実家に寄ってあげなさい、と」
おちよが、ぽかんとした。
「……え」
「おちよ殿の家は、この村の外れだろう。去年の秋から、一度も帰ってないそうじゃないか。勘十郎様が、気にかけておられてね。城には夕方までに戻ればいいと、お松殿にも話を通してあるそうだ」
おちよの目が、みるみる潤んだ。
(それで、あの拍だったのか)
門で聞いた、あの速い拍。何かを楽しみにしている人間の音。
信勝は、おちよを実家に帰すために、お使いの口実を作ったのだ。
「でも、私、お手紙で、母の具合のこと、聞いてなくて」
「うん」
「母が、咳をするって、去年、書いてあって。それから、手紙が来なくなって」
「うん」
「帰るのが、怖くて」
おちよが、震える声で言った。
「怖いなら、俺もついていく」
自分でも、驚くほど、すぐに言葉が出た。
おちよの家は、川沿いの、小さな藁屋根の家だった。
戸口に立つと、中から、咳が聞こえた。
乾いた、軽い咳だ。続けて二つ、三つ。それから、息が、細く落ち着いていく。
俺は、目を閉じた。
(……違う)
鍛冶屋の親父の咳でも、信秀の咳でもない。胸の奥で濡れた音が鳴る、あの種類ではない。浅く、乾いた、喉の咳だ。
「おちよ」
「は、はい」
「入ってから、お母さんの顔を見ろ。俺は、息の音を聞く」
戸を開けた。
藁布団の上に、痩せた女が横たわっていた。おちよと同じ、小さな顔。目が合うと、女は、驚いて、半身を起こしかけた。
「おちよ……!」
「お母さん!」
おちよが駆け寄った。母親が、娘を抱きしめて、泣きながら笑った。
「どうして、帰ってきたの、お勤めは」
「お使いの途中で、お暇をもらったの。お母さん、咳は、まだ」
「大したことないよ、もう冬だし、ね」
俺は、土間で立ったまま、二人の息の音を聞いていた。
母親の呼吸は、浅いが、規則正しい。胸の奥の音に、濁りはない。咳の合間にも、息は、途切れない。
おちよが、振り返って、不安そうに俺を見た。
「才蔵さん」
俺は、一つ、深く息を吸って、言った。
「音は、止まっていない」
「え」
「お母さんの息は、続いてる。咳は軽い。胸の奥は、濁っていない。今すぐ、危ない病じゃない」
おちよの顔が、くしゃっと歪んだ。
「ただし、一度、薬師に診せた方がいい。冬の咳は、油断すると、長引く」
「……はい」
「大丈夫だ。止まる前に、動けばいい」
母親が、きょとんとして、娘と俺を見比べた。
「この方は」
「お城の、お抱えの、才蔵さん。すごく耳がいい人」
「耳?」
「うん。お母さんの息を、聞いてくれたの」
おちよは、母親の胸に、顔をうずめた。
俺は、静かに戸口へ下がった。
その時、庭の犬が、ぴくりと耳を動かして、遠くへ吠えた。
荷車の軋む音が、聞こえた。
車輪の音が、庭の外の細い道を、ごとごとと近づいてくる。引く足音は、やけに規則正しい。
(この足音は)
戸口から顔を出すと、見慣れた背筋の伸びた娘が、荷車を引いて、坂を上がってきていた。
「お葉」
「才蔵殿。お疲れ様です」
荷車の上には、空の味噌樽が二つ積まれ、その上に、信勝がちょこんと座っていた。隣には、白髪の薬師が、薬箱を抱えて乗っている。鍛冶屋の親父を診た、あの薬師だった。
「才蔵ー!」
信勝が、手を振った。荷車が止まった拍子に、体がぐらりと傾いて、薬師が慌てて支えた。
「お前、何をしてる」
「えっと、報告を、待てなくて」
「は?」
「お昼過ぎても、戻らないから。庄屋さんから、おちよがお家に着いたって、伝令が来て。そしたら、お母さんの咳のこと、居ても立ってもいられなくなって」
信勝は、膝の上の手を、そわそわと動かした。
「薬師の道庵先生にお願いして、お連れしたんだ。診てもらえるなら、早い方がいいと思って」
「勘十郎様は、本日の予定を、全てお断りになりました」
お葉が、荷車を止めながら、淡々と告げた。
「午後の学問も、権六殿との稽古も、棟梁との打ち合わせも。全て、日を改めていただきました」
「お葉、言わなくていいよ!」
「事実です」
(あの権六に、断りを入れたのか)
「お前は、あの荷車に、どうやって」
「お葉が、引いてくれた。僕は、馬に乗れないから」
「荷車を、お葉が」
「私は、慣れております」
信勝は、荷車から降りようとして、また足を滑らせた。俺は、思わず手を伸ばして、受け止めた。
「ありがとう」
「三里近く来たのか。一人で来るつもりだったのか」
「お葉と、道庵先生が、一緒だったから」
「そういう意味じゃない」
信勝の胸の拍は、速かった。走ってきた子供のような、まっすぐな音だった。
「報告を、待ちきれなかったんだ。おちよの顔を、早く見たくて」
「勘十郎様……!」
戸口から、おちよが飛び出してきた。涙で顔がぐしゃぐしゃだった。
「勘十郎様、お母さんが、お母さんが……!」
「うん。才蔵が、診てくれたでしょう」
「診てくれました! ありがとうございます、ありがとうございます!」
おちよが、信勝の前に、へなへなと座り込んで、頭を下げた。信勝は、慌てて、同じ高さまでしゃがみ込んだ。
「顔を上げて。僕が、勝手にやったことだから」
「でも」
「おちよが、お母さんの話をしないのは、知ってたよ。お葉が、教えてくれたから。でも、お願いされなかったから、僕から言えなくて」
信勝は、困った顔で、笑った。
「今日は、お使いのついでってことにしたら、断りにくくないかなって」
(そういうことか)
おちよが、お使いを楽しみにしていたのも、お松さんが妙に協力的だったのも、全部、信勝の段取りだった。
誰にも、恩を着せないやり方で。
薬師の道庵が、おちよの母親を診る間、俺は、荷車の脇に座っていた。
信勝が、隣に腰を下ろした。
「才蔵」
「何だ」
「おちよの、お母さんの息は、どうだった?」
「大丈夫だ。咳は軽い。胸の奥の音も、濁っていない」
「そう。よかった」
信勝が、ほっと息をついた。
「僕には、そういうのが、聞こえないから」
「お前には、お前の見方があるだろう」
「うん。でも、才蔵に聞いてもらえると、安心する」
信勝は、膝を抱えて、少し笑った。
俺は、その横顔を見ながら、思った。
母の息が止まった夜、俺は、何もできなかった。聞こえていたのに、間に合わなかった。それが、悔しくて、怖くて、それでも耳を捨てられなかった。
信勝には、その耳がない。聞こえない。それなのに、聞こえる前に動く。誰かの息が止まる前に、荷車に乗って、十里を駆けてくる。
(音が止まる前に動く人間が、ここにもいた)
「どうしたの、才蔵」
「いや」
「なんか、変な顔してる」
「鼻が、むずむずするだけだ」
「ぶえっくしょい!」
くしゃみが出た。信勝が、懐紙を差し出した。
「用意しておいたよ」
「……お前、今日の分まで把握してるのか」
「うん。才蔵の鼻水の量は、帳面で」
「もう、いい」
夕焼けが、川面を赤く染めていた。庭の犬が、荷車の車輪の影で、眠そうに丸くなっていた。
おちよの笑い声が、家の中から、聞こえてきた。




