第九章 毒入りの晩餐
俺は前夜から二十時間、王城厨房にこもっていた。星見草の砂糖を二度濾し、ガラム果実を六時間かけてコンポートにし、チョコレートは念入りにテンパリングした。仕込みノートに、すべての温度と時刻を記録した。エルディオス侯爵が派遣した書記官が、俺の作業を三十分ごとに別ノートに記録していた。普段の俺の習慣が、この日に限って意味を持った。
完成した皿は、俺の手で晩餐の間に運ばれた。国王陛下、王妃、宰相、エルディオス侯爵、そして数人の重臣。席の端にクルガがいた。彼の顔はいつもより青白かった。目の下の隈が深く、数日眠れていない顔をしていた。
国王陛下が、最初の一口を運んだ。
そして、皿を取り落とした。手からフォークが滑り落ちた。胸を押さえ、椅子の背にもたれかかった。顔色が、急激に紙のように白くなった。
「陛下!」と王妃が悲鳴を上げた。宰相が立ち上がり、近衛を呼んだ。貴族たちが椅子を蹴って立ち上がった。
「毒だ! 毒見役は何をしていた!」
「ツルミの皿だ。料理人を捕えろ」
「待て、これは何かの間違い」
エルディオス侯爵が叫んだが、声は近衛の足音に掻き消された。俺は両側から腕を取られた。抵抗しなかった。この場で抗えば、リリアまで巻き込まれる。ただ、俺はテーブルの向こう、クルガの顔を見た。彼の唇の端がわずかに上がっていた。ほんの一瞬の、勝者の笑み。彼はすぐに表情を取り繕おうとしたが、その遅さが、彼の浅さを示していた。
なるほど、と俺は冷静に考えた。倉橋なら、ここまではしない。だが、この男は地位を守るためなら、ここまでする男だった。そういう違いだ。顔は同じでも、芯の腐り方が深い。
俺は地下牢に投じられた。石の床は冷たく、明かりは細い格子越しに射す月光だけ。手にはノートも温度計もなかった。それでも、俺は静かに座った。倉橋に手柄を奪われた、十年前の最初の夜。婚約者に指輪を返された、あの喫茶店の夜。巨大ケーキの下敷きになった、あの厨房の夜。どの夜も、俺は静かだった。怒らなかった。ただ三十二度を測り続けた。
でも、今夜は違った。俺はリリアのために、ここで立ち上がる。立ち上がれない俺ではなく、立ち上がる俺の方を、彼女に見せる。それが、俺の決めた本気だった。
深夜、足音が聞こえた。看守のものではなく、軽い、子供のような足音。格子の向こうにリリアが立っていた。包帯を巻いた右手、左手で何かを抱えている。黒いフードを目深に被っているが、亜麻色の前髪がわずかに覗いていた。
「先生」
「リリア。来るな、危険だ」
「これ」と彼女は格子越しに、俺のノートと温度計を押し込んできた。
「先生のお部屋から、持ってきました」
「リリアちゃん」
「先生、私、信じてます。先生は、毒なんて、入れない人です」
「ありがとう」
「私、できることは、全部、します」
彼女は深々と頭を下げ、走り去った。走り去る前に、最後にこう言った。「先生、私の右手より、先生の三十二度の方が、大事です」
俺は声を失った。
ノートを開いた。月光の下で、震える指でページを繰った。晩餐前の二十時間の記録。温度、時刻、素材ロット、すべての工程。そのページの隅に、俺は無意識に小さなスケッチを描いていた。完成した皿の、表面の砂糖の結晶パターンを。星見草の砂糖は、特殊な六角形に結晶化する。その紋様は、俺が皿を運んだ時、きれいな六角形だった。
だが、晩餐の間で皿が国王陛下の前に置かれたとき、俺は見ていた。表面がわずかに濁っていた。俺が運んだ時とは違う紋様になっていた。誰かが、皿が運ばれてから王の手前で、表面に何かを上掛けした。
俺は震える手で、ノートに走り書きした。「晩餐の間、王の手前で、皿に介入した人物がいる。表面結晶構造、α型変換あり。介入者、特定可能」――介入できた人物は、俺の知る限り、ひとりしかいなかった。
俺はゆっくりと笑った。倉橋と同じ顔の男は、倉橋がやらない一線まで、自分から踏み越えた。その一線が、彼の墓穴になる。
月光の中、もう一行書き加えた。「リリアの右手より、俺の三十二度の方が大事、と弟子が言った。今日、初めて、自分が誰かの大事になったことを、知った」――その一行を、何度もなぞった。涙は出なかった。代わりに、十年ぶんの何かが、ゆっくりとほどけていく感覚があった。




