第八章 忍び寄る悪意
翌日、宮廷の老侍女が、銀のスプーンを磨いている俺の隣にしゃがみ込んで、囁いた。
「あの方は、結晶のおかげで主任菓子司なんです」
「と、いうと」
「十年前、結晶が不安定になり始めた頃に、突然頭角を現したお方なのですよ。『結晶の波長を読む特異な味覚』をお持ちだとか何とか。結晶の不調に対応するお菓子を献上することで、王様のご信頼を、得てきたのです」
「結晶が直ると」
「あの方の特異性は、無価値になります。主任菓子司の地位は、若い職人に取って代わられる」
「だから、結晶が直ることを、望まない」
「そういうことですよ」
彼女はそう言うと、立ち上がり、何事もなかったような顔で銀の盆を抱えて去った。
倉橋と同じ顔の男は、倉橋と同じ理屈で動いている。他人の不調を養分にして自分の地位を保つ。日本でも、異世界でも、この種の人間は同じ顔をしている。違うのは、倉橋がやらない一線を、クルガは平気で越えるらしい、ということだった。覚えておく必要があった。
その日から、俺の周囲で小さな事故が連続した。厨房の砂糖が湿気る。俺の温度計が紛失する。俺の出した試作品が、床に落ちている。一つひとつは偶然のように見えるが、十年同じ職場にいた俺には分かる。倉橋がよくやっていた手だ。倉橋は、これを「指導」と呼んだ。お前のミスだ、お前が雑だ、お前が向いていない、と。
俺は黙って対処した。予備の温度計を作る。砂糖を別保管する。試作品は二つ作っておく。怒っても、騒いでも、こういう人間は止まらない。止めるには、別の決定的な何かがいる。倉橋に対して、俺は十年それを掴めなかった。しかしここでは、まだ機会がある気がした。
二日後、リリアが厨房で倒れた。冷蔵保管庫の扉が突然落ちて、彼女の右手が下敷きになった。扉の蝶番のネジが、明らかに緩められていた。誰がやったかは、聞かなくても分かった。近くを通っていた厨房スタッフの誰一人、目撃証言をしようとしなかった。皆、クルガを恐れていた。
彼女は気を失ったまま、医務室に運ばれた。俺は廊下で医師の診察を待った。白い廊下が、無限に長く感じられた。壁に手をついて立っていなければ、たぶん膝が崩れていた。
医師が出てきたとき、俺の手は震えていた。
「右の指、二本に骨折と神経損傷が見られます」
「治りますか」
「治りますが、菓子職人としては、もう難しいでしょう」
その言葉が、俺の中で何度も反響した。菓子職人としては、もう、難しい。
俺はその場にしゃがみ込んだ。拳を握った。白い指の関節が、骨の色になった。倉橋に殴られかけた時にも、こんなふうに拳を握ったことはなかった。婚約者に去られた時にも、こんなには握れなかった。今、俺は、リリアのために、初めて拳を握った。
頭の中で、いくつかの声が重なった。「鶴見さん、それ、鶴見さんが作ったやつなのに」――桜井の声。「あなたは、自分のために怒れない人なの」――美雪の声。「先生、私、誰にも言いませんから」――リリアの声。
ゆっくりと立ち上がった。涙は出なかった。ただ、決めた、というだけだった。俺はもう、黙らない。
医務室の扉を一度だけ振り返り、王城の長い廊下を歩き出した。次の晩餐会まで、あと三日だった。
深夜、俺は医務室に戻った。看護の老婦人が、ろうそくの灯の下で編み物をしていた。彼女は俺を見ても咎めず、椅子を貸してくれた。無言の優しさだった。
リリアは白いベッドで眠っていた。包帯の右手が、毛布の上で動かないように固定されていた。顔色は悪くなかった。しかし、頬がいつもより痩せて見えた。俺は椅子に座り、彼女の左手を軽く握った。子供の手の温度だった。
「先生」と彼女が目を覚ました。驚かないように、ゆっくり目を開けた。
「リリア。起こしたか」
「いえ。先生、私、大丈夫ですから」
「ああ」
「右手、動かなくても、左手で何でもできます。先生、私、悲しんで、いません」
彼女の声は思ったより強かった。しかし、その目はわずかに潤んでいた。
「悲しんで、いいんだぞ」
「えっ」
「俺の前では、悲しんで、いい。強がらなくて、いい。俺は、強がる弟子は、苦手だ」
彼女はしばらく口を開かなかった。それから、ぽろり、と左目から涙がこぼれた。次に右目からも。彼女は左手で口元を押さえた。しかし嗚咽はこぼれた。
「私、菓子職人に、なれない、かもしれないって。医師の方が、そう、言うのを、聞いてしまったんです」
「うん」
「私、怖いんです」
俺は彼女の頭を撫でた。亜麻色の髪が、指の間で絡まった。
「君は、菓子職人になれる。俺が保証する」
「右手が動かなくても?」
「動かなくても」
「左手だけで?」
「左手だけで」
「先生、それは、嘘です」
「嘘じゃない。世界の菓子職人の中には、片手の人も、片足の人も、目の見えない人もいる。皆、それぞれの不自由を抱えて、それでも温度を見ている」
「先生」
「君の右手は、たぶんいつか動く。動かなかったら、左手だけでやる。それだけだ」
「先生、私、左手の方が、不器用なんです」
「だから、これから訓練するんだ」
「先生、それ、できますか」
「君が、できる」
俺は彼女の左手をもう一度握った。
「君の左手の方が、君の右手より、強いと俺は思う。なぜなら、君はこれから、自分の意思で左手を選ぶからだ。右手はただ、生まれつき器用だっただけ。意思が、入ってない」
「先生、それ、屁理屈です」
「うん。屁理屈だ」
彼女は笑った。涙の中で、笑った。その笑い方は、最初に村の宿屋で俺を見上げた時のそれと同じだった。
「先生、ありがとうございました。私の左手を、信じてくれて、ありがとうございました」
俺は何も答えられなかった。ただ、彼女の頭をもう一度、撫でた。看護の老婦人が、奥で小さく洟をすする音が聞こえた。
医務室を出る時、老婦人が俺の肩を軽く叩いた。
「お兄さん、あんたの弟子、いい子だね」
「ええ」
「あんたも、いい先生だ」
「いえ、俺は」
「いい先生は、皆、自分のことをいい先生じゃない、って言うもんだよ」
彼女は笑った。歯が欠けていた。しかし、その笑い方は、リリアの祖母と言われても信じる笑い方だった。
俺は頭を下げて医務室を出た。廊下は冷たかった。しかし、俺の中はもう、寒くなかった。次の晩餐会まで、あと三日だった。
その夜、王城の客室に戻ってから、俺は温度計を握り直した。十年、ずっと右手で握ってきた相棒。重さも、針の角度の見え方も、右手でしか覚えていないはずの道具。
俺はそれを、左手に持ち替えた。
最初、針が二度に見えた。違う、違う。指の腹の当たる位置が違うだけだ。俺はゆっくり、左手の指を、慣れない角度で、温度計の軸に巻きつけ直した。針が一本に戻った。
リリアは明日から、左手で温度計を見る。たぶん俺より、ずっと不器用に、ずっと不安定に、それでも見続ける。それを、ひとりでやらせない。彼女の左手が温度を見るとき、俺の左手も同じ温度を見ている、というのを、彼女に黙って約束しておく。それくらいのことは、師として、できる。
俺はノートに小さく書き加えた。「明日から、左手」――それだけ。理由は書かなかった。書かなくても、自分が読み返したとき、何を意味する一行か、分かるはずだった。




