第七章 砕けた魔晶結晶
「これは……ファットブルームだ」
俺は思わず日本語で呟いていた。
翌朝、俺は国王陛下とエルディオス侯爵、数人の魔導士に案内されて、王城地下の聖堂に降りた。石造りの螺旋階段を下りるごとに、空気が冷たくなった。壁の松明の炎が、不規則に揺れていた。その揺れ方は、地下の何かに呼応しているように見えた。最後の扉を、神官が両手で押し開けた。錆びた蝶番が、低く軋んだ。
巨大な空洞だった。高さは三十メートルはあるだろう。円筒状の聖堂で、壁面に古い文字が螺旋状に刻まれている。空洞の中央に、それはあった。
高さ十五メートルほどの、巨大な六角柱の結晶。虹色の光を内側に湛えている。ただし、表面には無数の白い亀裂が走っていた。光は、その亀裂の周りで、不規則に脈打っていた。拍動が、生き物の心音に似ていた。それも、瀕死の心音に。
「これが、魔晶結晶だ」と国王陛下が低い声で言った。
「百年前は、もっと安定して輝いていた。だが、ここ十年、不規則になり、五年前から亀裂が走り始めた」
「気候は」
「異常になっている。北は雪が降らず、南は乾く。中央の麦は実らない」
「飢饉が、来てるんですね」
国王陛下は重く頷いた。その肩が、少し落ちた。
俺は結晶に近づき、その表面を見つめた。白い亀裂、光のムラ。この紋様は、知っている。チョコレートをテンパリングし損ねた時、表面に現れる白い結晶――ファットブルーム。β型結晶ではなく、不安定なα型やγ型が混じり込んだ時の現象。艶を失い、味は変わらないが、輝きが死ぬ。
ただし、それを治す方法も、俺は知っている。チョコレートの場合は、一度、五十度近くまで溶かして、構造を完全にリセットする。そして、二十七度まで冷やして、種結晶を作る。最後に、三十二度で、安定化させる。それだけのことだ。それを、八時間、丁寧に、繰り返すだけだ。
「陛下」と俺は言った。「これ、再結晶化、できるかもしれません」
その瞬間、空洞中の魔導士たちが息を呑んだ。神官の一人がよろめいた。
「再結晶化、だと」
「俺の世界の言葉で、テンパリングと言います。一度、構造を壊して、正しい温度で組み直すんです」
「しかし、結晶を壊すなど、不敬では」
「逆です。今、勝手に壊れている。それを止めて、組み直すんです」
俺はノートを開き、温度のメモを書き殴った。ペン先が、冷えた石の床の上で、小さく震えた。
「条件は、三つです。素材の純度、温度の精度、時間。八時間以上、温度を維持する必要があります」
「八時間。ただ温度を、見続けるのか」
「はい」
俺は答えた。それだけだ。俺がこの十年やってきたのと、同じことだ。誰にも見られない夜の厨房で、温度計だけを見続けた、あの十年と。
国王陛下が、ゆっくりと頷いた。その目に、迷いが消え、決意が灯った。
「やってくれるか。レン殿」
「はい」
「成功したら、お前を救国の聖人として叙する」
「いえ、肩書きはいりません」
「では、何を望む」
「陛下」と俺は息を吸った。石の床の冷気が、肺の奥まで染みた。
「俺を、元の世界に帰す方法を、探してください」
国王陛下は、長く沈黙した。彼の隣で、エルディオス侯爵がわずかに眉を寄せた。彼は、俺がこの世界に残ることを勝手に期待していたのかもしれない。しかし、彼は何も言わなかった。代わりに、王妃陛下が扉の影から姿を現した。いつから、そこにいたのだろう。
「レン殿。私からも、お願いします。我が国を、救ってくださいませ。その代償が、あなたを失うことであっても、私たちは、約束を守ります」
彼女は深く頭を下げた。貴族が、外国人の前で頭を下げた。俺は思わず、自分も深く頭を下げ返した。
「分かった。賢者を集めよう」と国王陛下が静かに宣言した。
階段を上る途中、俺は気配を感じた。踊り場の暗がりに、銀の髪の男が立っていた。クルガだった。彼の顔がねじれていた。倉橋と同じ顔が、こんな表情をするのを俺は初めて見た。悪意というより、恐怖に近い、剥き出しの何か。
「ツルミ。お前、何をしようとしている」
「クルガ様、仕事です」
「結晶を、お前が直すというのか」
「やってみます」
「やめろ」と彼の声が震えた。「あの結晶は、私のものだ」
俺は黙った。あの結晶は、俺のものだ。その台詞の意味の重さが、俺の中にゆっくりと沈んでいった。彼にとって、結晶の不調こそが、自分の存在価値の根拠だった。結晶が直れば、彼はただの平凡な菓子職人に戻ってしまう。それが、彼の恐怖の正体だった。
その夜、俺はリリアに言った。
「リリア。明日から、俺の周りで何か起きる気がする」
「えっ」
「君は、距離を取れ。巻き込まれるな」
「先生、私は」
「これは命令だ」
彼女は俯いた。が、首を縦には振らなかった。代わりに、こう言った。
「日本では、弟子は、師の命令を、聞かないと、いけませんか」
「日本では、まあ、聞くな」
「アステリアでは、違います。弟子は、師の言うことの中で、本当に大事なことだけ、聞きます。残りは、自分の頭で考えて、決めます」
「それが、アステリア式の弟子です」
彼女はそう言って、にっこり笑った。俺はため息をついた。ため息をつきながら、内心、頼もしい、と思った。俺の弟子は、強くなっていた。




