第六章 王城晩餐会
王城に出仕して三日目、いきなり主任菓子司クルガから「明日の晩餐会のデセールを担当しろ」と命じられた。失敗すれば追放、成功しても手柄はクルガのもの、というお決まりの構図だった。倉橋なら、俺をこの配役で十回は使った。クルガもまた、似たことを考えているのは、目を見れば分かった。
その夜、俺が王城の厨房で銅鍋を磨いていると、リリアが脇で皿を磨きながら、小さく言った。
「先生」
「ん」
「私、誰にも言いませんから」
「何を」
「先生が、本気を出すこと」
俺は手を止めた。彼女の言葉は、桜井の「鶴見さんが作ったやつなのに」と、よく似た形をしていた。違うのは、桜井の言葉が哀しみの形をしていたのに対し、リリアのそれは、何かを共謀するような、こちら側に踏み込んだ形をしていたことだった。
「分かった」
俺は答えた。
俺が選んだのは、テンパランス・タルトだった。星見草の砂糖を慎重にカラメルにし、酸味のあるガラム果実をコンポートに重ね、最後にビターチョコレートを薄く張る。チョコレートのテンパリングは、この世界では誰もやっていないらしかった。β型結晶の安定化、三十二度。俺の十年の正解。
仕上げの皿盛りは、王城のしきたり通りクルガの名で出される予定だった。しかし、その日、エルディオス侯爵が同席していた。彼は王の右に座っていた。俺の存在を、王に「面白い職人がいる」と事前に伝えていたらしい。
デセールが運ばれてきた瞬間、エルディオス侯爵が口を開いた。
「陛下。これを作ったのは、誰でしょうか」
「主任菓子司クルガであろう。違うのか」
「私には分かるのです。これは新参の腕です。……レン殿、お入りなさい」
俺は厨房から呼び出された。汗が額を滑り、コック服の襟元で吸われていった。倉橋なら、絶対に許さない場面だ。クルガが俺を見た。その顔色は、すでに白かった。
俺は晩餐の間に、白いコック服のまま入った。長卓には二十人の貴族と高官、シャンデリアの灯火が天井に揺れていた。王の前に、俺の作った皿が置かれていた。星見草の糖衣が、薄氷のように、灯火を照り返していた。
国王陛下が、フォークで薄チョコレートの層を割った。パリ、と乾いた音が、長卓に響いた。何人かの貴族が、無意識に息を止めた。咳払いの音。誰かがフォークを取り落とす音。ナプキンで口を押さえる音。王妃陛下が、無言で、もう一切れを口に運んだ。彼女の目に、何かが光っていた。
「これは、いったい何だ」と国王が呟いた。
「テンパランス・タルト、と名付けました」
「テンパランス、とは」
「節制、です。素材を、温度で律する技術です」
国王はもう一口食べた。それから、目を閉じた。長く沈黙が続いた。彼が目を開けたとき、その表情には、政治家の顔ではなく、ただ一人の食べ手の顔が浮かんでいた。
「素晴らしい。主任菓子司、お前は知っていたのか」
「は……それは、その」
クルガが、俺の真横で初めて言葉を失っていた。倉橋と同じ顔が、こんな表情をするのを俺は初めて見た。倉橋は嫉妬を薄笑いで隠す訓練ができていた。クルガはまだ、その訓練が足りていなかった。
「シェフ・ド・パルティ・ツルミ」
「はい」
「明日、私に同行してもらいたい場所がある」
「陛下、それは」
「魔晶結晶の聖堂だ。お前の目に、何が見えるか確かめたい」
俺は深く頭を下げた。長卓の端で、エルディオス侯爵が小さく頷いた。その隣で、王妃陛下がナプキンの下で、両手を組んで、何かを祈っていた。
俺の隣で、クルガが無言で拳を握っていた。白い指の関節が、骨の色になっていた。倉橋ですら、ここまで剥き出しに敵意を見せたことはなかった。
厨房に戻ると、リリアが小さく拍手をした。
「先生、本気、出ましたね」
「まだ、本気じゃない」
「えっ」
「明日が、本気の日だ」
俺はリリアの頭をぽんと叩いた。窓の外、塔の虹色の光が、また一段、弱まっていた。




