第四章 カラント侯爵の舌
「これは……国の歴史を、書き換える」
その若い貴族は、フォークを置いた手を震わせていた。二十二歳。エルディオス・カラント侯爵。国王の遠縁にあたり、王都で美食家として知られる若者。彼は名乗ってからしばらく、何も食べずに俺を見ていた。茶色の瞳、整った輪郭。しかしその眼差しは、贅沢に慣れた貴族の値踏みではなく、何か、餓えた獣のような光があった。
俺はリンゴを薄く重ねただけのタルトを差し出した。キャラメルで艶を出し、わずかに香りのよいリキュールを滴らせた。日本のパティスリーならショーケースの隅に並ぶ、地味な一品。
「あなた、どこの工房の出だ」
「えっと、それは答えにくいんですが」
「どこの国の出身でも構わない。私はあなたを王都に連れて帰る。返事は」
「いや、待って下さい」
俺は思わず手を挙げた。慣れていなかった。こうも一直線に求められることに。倉橋が他人の作品を品定めする目とは、対極にある目だった。彼は美しいものを愛する目をしていた。
「シェフ・ド・パティシエ・ツルミ」
「いや、その肩書きは大袈裟です。俺は、その」
「では、ただのレン殿でいい。王都に来てくれ」
「弟子も、連れて行っていいですか」
俺はリリアの背を押した。彼女は目を丸くしていた。
「弟子?」
「俺の弟子です」
「ふむ。素質はあるか」
「あります」
即答した。リリアの肩が、わずかに揺れた。たぶん彼女は、自分の素質を、初めて他人に保証された。
馬車に揺られて三日。王都ヴェルデアに到着した。城壁の高さは、日本の十階建てビルくらいあった。中央広場の噴水は、近づくと水が虹色に光る。商店の看板は鉄細工で精緻に作られ、夜になると魔法のランプが灯る。中央には巨大な塔があり、その頂で、虹色の光がぼんやりと脈打っていた。
「あれが、魔晶結晶ですか」
「ああ。最近、輝きが弱くなっていてな。光の脈動が乱れている」
「乱れている、というのは」
「専門家にも分からんのだ。神官が祈っても、魔導士が解析しても」
「その光、季節によって色は変わるんですか」
「いや、本来は安定した白光だ。十年前までは」
「白光」
俺は黙って塔を見上げた。光の揺れ方に、見覚えがあった。チョコレートをテンパリングし損ねた時の、艶のムラに似ていた。白光のはずが、虹色に滲んでいるのは、ファットブルームの兆候そのものだった。まさか、と思った。まさか、こんなことが。
その夜、侯爵の屋敷で、俺は王都の菓子組合に登録するための手続きを案内された。組合の建物は、日本の大手ホテルの厨房構造そっくりだった。シェフパティシエ、スーシェフ、シェフ・ド・パルティ、コミ。階級制度が完全に同じ。フランス語に近い名称で、それぞれの権限と給与が、書類で明確に定義されている。日本以上に、形式が重んじられている世界だった。
窓口の女性が、俺の試験用ガナッシュを一口食べた瞬間、フォークを取り落とした。
「あ、あの、これは」
「テンパリングしたガナッシュです。一般的なものですが」
「一般的な、もの……?」
女性は奥へ駆け込んでいった。奥から、組合長らしき初老の男が走り出てきた。白い髭、眉間の皺。彼は俺のガナッシュを口に運び、目を閉じた。長く、目を閉じていた。それから、震える指で書類に何かを書き込んだ。
「シェフパティシエ資格、発行する」
「え。今日、初日ですけど」
「いいから受け取れ」
組合長が銀のバッジを押し付けた。手のひらの上で、それはずっしり重かった。隣でエルディオス侯爵が、小さく口角を上げていた。
「ね。歴史を書き換えると言っただろう」
俺はなんと答えていいか分からなかった。日本でなら、シェフパティシエの資格は最低でも十年の実績と、組合への何百万円もの登録料が要る。ここでは、ガナッシュ一口で、それが決まった。
その夜、屋敷の客間で、俺は仕込みノートを開いた。新しいページに、こう書いた。
「五月七日、王都ヴェルデア着。組合バッジ受領。エルディオス侯爵、信頼に値する。塔の光、ファットブルーム類似の不安定挙動、要観察」
ペン先が、紙の上を、いつもより少し強く滑った。
翌朝、王城から呼び出しが来た。主任菓子司・クルガ・ヴァン・ハーゼル。その名を聞いた瞬間、俺はまだ顔を知らない男に、奇妙な既視感を覚えた。




