第三章 カスタードクリームの奇跡
始まりは、宿の隣の家で寝込んでいた子供だった。
高熱が三日続き、固いパンしか食べられない村では、衰弱が早い。母親がリリアに泣きついていたのを、俺は店の奥で聞いていた。柔らかいもの、と彼女はうわごとのように繰り返していた。柔らかいもの、と。
「卵と牛乳と砂糖、貸してくれませんか」
俺がリリアに頼んだとき、彼女は怪訝そうな顔をした。
「それ、お菓子の材料じゃないですか」
「ああ。でも、病人にも効く」
鍋に牛乳を温め、卵黄を泡立て、砂糖と合わせる。火にかけ、絶え間なく木べらで底をなぞる。焦がさないこと。固まらないこと。とろみがついた一瞬で火から下ろすこと。パティシエの基本中の基本。十年やった工程は、目を瞑っていても香りで分かる。鍋肌が乾く前の湿った湯気の匂い、卵の生臭さがバニラの奥に隠れる瞬間、牛乳の脂の角が取れて丸くなる呼吸。
出来上がったクリームを温めたパンに塗り、子供の口元へ運ぶ。最初、舌先がちょんと触れた。次に目が見開かれた。次に無言で、全部食べた。手の甲で口を拭い、もうひとつ、と小さく言った。
母親が俺の手を握って泣いた。麦の粉で乾いて荒れた、農婦の手だった。
「三日ぶりに……三日ぶりに食べたんです」
「あ、いえ、これくらい」
「あんた、何者なんだい」
その時、背後に気配を感じた。振り向くと、村人が十数人、店の奥に集まっていた。子供を抱いた母親、髭の老人、農夫、井戸番の少年。全員が、無言で俺を見ていた。信じられないものを見るときの、あの目だった。
「魔法だ」と誰かが呟いた。
「ちがう、これは魔法じゃない。技術だ」
「技術であんなふうに、固いパンが甘い食事になるのか?」
「なります。日本では、子供のおやつです」
大袈裟に聞こえると、まずいと思った。だが、彼らの反応は俺の想像のずっと先まで行っていた。村長らしき老人が、よろよろと前に出てきた。杖を支えに、震える手で俺の腕を取った。白い髭が震えていた。
「あんた、王都に行きな」
「は」
「あんたの腕は、こんな村に置いておくもんじゃない」
「いや、俺は」
「アステリアの食卓は、灰色なんだ。塩漬けと固焼き菓子しかない。あんたのは、色がついてる」
「色」
「うん。卵の黄色と、牛乳の白と、砂糖の艶。あんたの皿には、全部、色が、ある」
老人の目が潤んでいた。俺は思わず後ずさった。褒められることに、慣れていなかった。十年で唯一、桜井が「鶴見さんが作ったやつなのに」と漏らしたあの小さな声以外、誰にも褒められた記憶がなかった。倉橋に「いい感じだ」と言われたのは、あれは褒め言葉ではなく、合図だった。これから手柄を奪うぞ、という合図。
その時、リリアが俺の袖をそっと引いた。
「先生」
彼女は静かに言った。
「私、先生の弟子になります」
「え」
「ずっと、あんなふうに人を笑わせる仕事がしたかった。でも、自分にはできないと思ってた」
「リリアちゃん」
「先生のは、技術なんですよね。だったら、教えてください。お願いします」
彼女の頭を下げる角度は、深かった。日本の若者がそう簡単には下げない深さで、彼女の額が、店の床近くまで降りていった。
俺は長く息を吐いた。帰り方は、まだ分からない。だが、ここにいる間、俺にできることは決まったらしい。
「分かった。テンパリングから、教える」
「テンパリング?」
「チョコレートの、温度を、揃える技術だ。ここの世界に、チョコレートはあるか?」
「カカオというやつなら、王都の市場にあると、聞いたことがあります」
「じゃあ、まずそれを手に入れよう。最初の授業は、温度計の見方からだ」
彼女は嬉しそうに頷いた。頷きながら、目に涙を浮かべた。
その日の午後、村のパン屋の主人が宿に訪ねてきた。四十代の背の低い、丸い男。太い腕に、麦粉が白くまぶしついていた。彼は一斤の硬いパンを、ためらいながら差し出した。
「あんた、子供に食べさせるパンを、柔らかくしたって、聞いた」
「ええ」
「うちのパン、もう二十年、同じ硬さで焼いてる」
「ええ」
「最近、客が、減って」
「はい」
「あんた、一回、見てくれないか」
俺は頷いて、彼の店に向かった。広場の脇、煤で黒くなった石窯、しかし店内に客はいない。彼が今朝焼いたパンをひとつ割った。香りはいい。問題はその先だった。表面が乾燥しすぎ、中の生地は目が詰まってぼそついていた。
「水の量と、捏ねる時間ですね」
「えっ」
「水分が少なすぎます。あと、二十年同じ捏ね方をしてきた、というのは、生地をいじめすぎている」
「いじめすぎ」
「うん。生地は優しく、休ませる時間が要るんです」
彼の前で、生地を捏ね直した。日本のパン屋で見たことのある、長時間発酵の手順。一次発酵、ベンチタイム、ガス抜き、二次発酵。彼は無言で見ていた。太い腕が、わずかに震えていた。
「あんた、何者だ」
「旅の、菓子職人です」
「俺、二十年、ずっと、自分のやり方が、正解だと、思ってた」
「正解です。ただ、今の村人の口には、合わなくなった、というだけです」
「合わなくなる、ものなのか」
「人の口は変わります。世代が変われば、変わります。あなたが悪いんじゃない。世界が、変わったんです」
彼は麦粉の白い手を、しばらく見つめていた。それから深く頭を下げ、今夜、新しい配合で焼いてみる、と言った。
翌朝、彼の店の前に行列ができていた。外がパリッと、中はもちもち、しっとりとした、彼のパン屋にとっての二十年ぶりの新作。村人たちが口々に、二十年ぶりだ、いや五十年ぶりかもしれない、と笑っていた。俺は行列の最後尾でひとつ買った。彼が駆け寄ってきて、お代はいらない、と頭を下げた。
その夜、村長がもう一度、宿を訪ねてきた。
「あんた、本当に、王都に行きな」
「はい」
「あんたが村にもう少しいてくれたら、嬉しい。だが、それはわしらの、わがままだ」
「ありがとうございます」
「リリアを、頼む。あの子は、わしらの、村の宝だ」
「分かりました」
彼は深く頭を下げて、出ていった。俺は温度計を握り直した。針は室温の十八度を指していた。しかし、俺の中は、たぶんもう少し、温かかった。
窓の外、星が異様に近い。日本では見たことのない密度の星空だった。
翌朝、村に黒い馬車が三台、到着した。紋章を背負った貴族の馬車。降りてきた若い男が、村長に何かを尋ねた。村長は無言で、俺を指さした。




