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窯番パティシエの俺、地味なテンパリング技術で異世界の砕けた魔晶結晶を救って帰還します  作者: もしものべりすと


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第二章 崩落と暗転

崩落音を、俺は最後まで「自分のミス」だと思っていた。


 深夜二時。三段ケーキの二段目を組み上げている最中だった。バタークリームと生クリームの二層仕立て、薔薇のチョコレートを三十六輪。倉橋が編集者に「私の最高傑作になりますよ」と言ったやつ。仕込みは、いつものように俺。


 業務用冷蔵庫の上には、誰かが乱雑に積み上げた金属什器の山があった。誰か、というのは検討の余地のない言い方だ。倉橋は片付けない。それだけは何年経っても変わらない。


 最初の異変は、軋む音だった。錆びた接合部が、夜の空気の中で一拍だけ伸びをするような、低い音。次に、影が動いた。俺は反射的に身を捻ったが、ステンレスの天板は、肩から背中にかけて、しっかりと俺の輪郭をなぞって落ちてきた。


 肩が痺れ、視界が一瞬暗転する。バランスを失い、テンパリング用のチョコレート鍋のほうへ倒れ込んだ。三十二度の海が、視界一杯に広がる。湯煎の熱気と、カカオの脂の濃い匂い。顔の半分が、ぬるい液体に浸る。それから後頭部に、もう一度、別の鈍い衝撃。二段目の什器が、追って落ちてきた。


 遠ざかる意識の中で、俺はノートと温度計を握りしめていた。なぜ、と問う時間はもうなかった。ただ、それだけは離してはいけないと、十年分の指の記憶が、最後の理由として教えてくれた。


 甘い匂い、鉄の味、誰かを呼ぶ自分の声。それらがぐにゃりと混ざって、ひとつの小さな塊になった。最後に頭の中ではっきり聞こえたのは、美雪の声だった。「あなたは自分のために怒れない人なの」――俺はその通りだと、認めた。認めながら、意識が落ちた。


 目を覚まして、お兄さん。


 声がした。女の子の声だ。日本語ではないはずなのに、なぜか意味が分かった。


 まぶたを開ける。白い天井ではなく、木の梁が見えた。藁の匂い、麻布のざらつき、頬骨にあたる枕の凹み。視線を横に滑らせると、十二、三歳くらいの少女が、心配そうに俺を覗き込んでいた。亜麻色の髪が、布で覆った額の下からはみ出ていた。緑の目。色味は、桜井の困った時の目元と少しだけ似ていて、しかし彼女ではない。


「ここ、どこ……?」


「フォンセル村の宿屋です。お兄さん、麦畑で倒れてました」


 跳ね起きようとして、肩の痛みに呻く。胸ポケットの温度計が、まだそこにあった。エプロンの内側に、仕込みノートも残っていた。あの厨房から、ここへ、その二つだけが俺と一緒に運ばれてきた。


 窓の外。藁葺きの屋根、石造りの井戸、遠くに尖塔のシルエット。空が、日本のどの空よりもずっと青かった。


 日本ではない。いや、現代ではない。


「お兄さん、名前は?」


「鶴見蓮。……蓮、でいい」


「レン。私はリリア・フォンセル」


 彼女は微笑んだ。桜井の笑顔と似ていた。が、より明るかった。桜井の笑顔には、いつも怯えが薄く敷かれていた。リリアのそれには、それがなかった。


 その夜、宿の主人と暖炉の前で話して、俺はようやく状況を理解した。中世ヨーロッパに似た世界、魔法と魔物。言葉が通じる理由は、王都中央の塔に納められた「魔晶結晶」が、すべての言語を翻訳しているから。


「でも、そろそろ翻訳も怪しいけどな」


 主人は四十代の、丸い体型の男だった。髭を撫でる仕草に、職業的な疲労がにじんでいた。


「結晶が、砕けかけてるんだ。あんたみたいな旅人がここに迷い込むのも、そのせいさ」


「迷い込んだ人は、戻れたんですか」


「戻れた者は、誰一人、いない」


 彼は俺の目をまっすぐ見て、そう言った。腹の底が冷えるのを感じた。金もない、武器もない、帰り方もない。言葉が通じる、という一つの救いは、結晶が完全に砕ければ消える救いだった。


 ただ、エプロンの中には仕込みノートと温度計があった。それと、十年ぶんの手の記憶。


 翌朝、俺はリリアに頼んだ。


「君のお店、見せてもらえる?」


「ええ、いいですよ。でも、何もないですよ。粉と砂糖と、牛乳と卵くらい」


「それで十分だ」


 パティシエに必要なものは、最初から、それだけだった。

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