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窯番パティシエの俺、地味なテンパリング技術で異世界の砕けた魔晶結晶を救って帰還します  作者: もしものべりすと


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第一章 真夜中の三十二度

三時の厨房は、誰にも見られていない場所だ。


 俺は湯煎のボウルに温度計を差し込み、針が三十二度ちょうどを指すのを確かめる。確かめるという動作はもうほとんど反射に近くて、視線をそこに置いた瞬間、目より先に指先が答えを知っている。ガナッシュの表面が、生き物のように艶を帯びる。光を吸い、光を返す。


 厨房の換気扇が低く唸っていた。冷蔵庫のモーター音、湯煎のうちがわで小さく弾ける泡、焼成炉の余熱に温められた小麦粉の香り。それらが薄い層になって積み重なり、空気そのものに重さを加えていく。


 誰もいない厨房は、不思議と寒くない。十年通えば、誰もいない時間にも体温があることが分かる。先に来て鍵を回した人間の輪郭が、まだ空気に残っている。今夜の輪郭は俺だけだ。


 仕込みノートを膝の上で開く。今日のページの右下に、くせのある細い字で「31.8 → 32.0、湯煎、三周撹拌」と書き加える。書きながら、これが業務記録なのか日記なのか自分でもよく分からなくなる。誰に見せるためでもない。明日の自分が、明後日の自分の手を信じるための、小さな確認の積み重ね。


 壁の鏡に、白いコック服の俺が映っていた。目の下の黒い隈は、自分で見てもいい色とは言えない。婚約者の美雪が最近よく訊くようになった。寝てる、と俺は答える。嘘ではない。寝ている時間が、ただ短いというだけだ。


 四時。冷蔵庫の扉を引くと、陽炎のように冷気が脛にまとわりつく。ガナッシュをラップで包み、いちばん下の段に戻す。十六度。保管温度として完璧。誰も褒めない正解を、俺は十年間積み上げてきた。


 六時半。裏口の鍵が、外側から開いた。


「鶴見さん、今日も早いんすね」


 桜井だった。目をこすりながら、ボブカットの髪を結び直している。専門学校を出たばかりで、まだ二十一歳。うちの店で、俺のことを名字に「さん」をつけて呼ぶ唯一の人間だ。他の連中は俺を呼び捨てるか、用件だけ言って名前を省略する。


「桜井ちゃんは普通に出勤、普通に上がりな。残業しても誰も褒めないから」


「鶴見さんは残業してますよね」


「俺の趣味だ」


 彼女が小さく笑う。倉橋に怒鳴られた翌朝の彼女は、いつも目の奥が深くなっている。今朝の目の奥はそこまで深くない。たぶん昨日の倉橋は、誰か別の標的を見つけていた。


「桜井ちゃん、今日のシュー生地、誰が仕込んだ?」


「あ、鶴見さんが昨日の夜に……」


「俺だ。じゃあ仕上げのクリーム詰め、やってみな。倉橋先輩が来たらどうせ皿洗いに飛ばされる。今のうちにやっておけ」


 桜井の表情が、子犬みたいに揺れた。やる、と短く言うのが、彼女の精一杯のはしゃぎ方らしかった。


 その瞬間、ドアが開いた。前置きの軋みもなく、いつもの音量で。


「おう、鶴見」


 倉橋雅彦。三十四歳。シェフ・ド・パルティ。返事を待たない呼び方、というのは、十年同じ職場にいると音だけで分かるようになる。彼は冷蔵庫の扉を引き、俺のガナッシュを取り出した。指を一本だけ突っ込んで、舐める。十年見てきた仕草だ。


「うん、いい感じだ。仕上げは俺がやっとくよ」


「あ、はい」


「今日のウェディング、雑誌の取材入るからな。お前は裏で皿洗いしててくれ」


「はい」


 俺は頷いた。頷くというよりは、首を一度、軽く落としただけかもしれない。倉橋は次に桜井のシュー生地に目を留めて、舌打ちした。


「桜井、お前、何やってる」


「あ、すみません、鶴見さんが」


「お前みたいな素人が商品に触るな。皿洗いに行け」


「はい……」


 彼女が作りかけたクリームを、倉橋は流しに捨てた。ぼちゃ、と音がした。卵黄と砂糖と牛乳の、まだ熱の残るその液体は、ステンレスの底で短くひと回転して、排水溝へ消えた。桜井は俯き、流しの蛇口を強く捻った。水音で、自分の呼吸を隠していた。


 俺は何も言わなかった。喉の奥に、十年分の言わなかった言葉が、よく研いだ砂のように溜まっている。それを今朝もまた、一粒、押し戻した。


 倉橋が出ていったあと、桜井が濡れた手のままこちらに近づいてきた。


「鶴見さん」


「ん?」


「あれ、鶴見さんが作ったやつなのに」


「いいんだよ。先輩が良くしてくれるからな」


「鶴見さんは、怒らないんですか」


「怒って、何が変わる?」


 俺は笑った。頬の筋肉だけで、目は笑えなかった。桜井は何か言いかけて、結局口を開かなかった。彼女には、人の傷口に踏み込みすぎないという、若いのに不思議な分別があった。


 その日の夜、駅前のチェーンの喫茶店で、俺は美雪に呼び出された。婚約者だった、と過去形にすべきだったことを、その時の俺はまだ知らない。


 彼女はテーブルの上に、銀色のリングをそっと置いた。指輪の周りで、コーヒーの輪染みが、皿の縁に小さな弧を描いていた。


「これ、返します」


「……え」


「蓮さん。あなたの作るお菓子は、たぶん日本で一番だと思う」


「美雪、あの」


「でも、あなたは自分のために怒れない人なの。私のためにも、たぶん怒れない」


 彼女は静かに笑った。諦めた人間の笑い方は、どこの誰でも同じ顔をする。桜井が流しの前で見せたのと、ほとんど見分けがつかなかった。


「私、寒いの。あなたといても」


 彼女は立ち上がり、伝票を俺の前に置いて出ていった。会計はレジで彼女が払っていた。最後まで、俺は何も言えなかった。冷えた指輪をポケットに移すと、その温度は、ガナッシュの三十二度とは似ても似つかなかった。


 夜、俺はまた厨房に戻った。明日は四百人分の婚礼ケーキ。倉橋の名前で雑誌に載る予定のやつだ。仕込みは、すべて俺の手。


 温度計を握り直す。三十二度。ここにだけ、俺の正解がある。


 そう信じていた、その夜の終わりに、世界が崩れ落ちてきた。

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