第二十一章 弟子志願
ある朝、開店前に、ガラスのドアの前で、見覚えのない少女が立っていた。
高校生くらい。亜麻色の髪を後ろでひとつに結んでいた。灰色のセーラー服。手には小さな紙袋を抱えていた。空はまだ薄暗く、商店街の街灯が彼女の足元に長い影を落としていた。少女はガラスの向こうから、店の奥のショーケースをじっと見つめていた。その視線はただの客のものではなく、何か、自分の未来を確認しているような視線だった。
俺はドアの鍵を開け、少女を招き入れた。
「いらっしゃい。まだ、開店前だけど」
「あの」
「うん」
「私、弟子に、してください」
俺はしばらく黙った。少女が深く頭を下げた。頭の下げ方が、リリアの最初の日とよく似ていた。日本人の高校生にしては深すぎる頭の下げ方だった。
「私、お菓子作るのが好きで、でも、専門学校に行ってて、つまらなくて、毎週、ここに来てる、女の子に、ここのこと、教えてもらって」
「ああ、星野さんね」
「はい」
「彼女、君を、紹介してくれたんだ」
「はい。あの子の、専門学校の、後輩で」
俺は頷いた。少女の顔を改めて見た。亜麻色の髪。緑の目。いや、目は緑ではなかった。ただの日本の黒い目だった。しかし光の加減で、わずかに緑がかって見えた。俺の見たがっている色が、そこに勝手に見えただけかもしれない。しかし不思議と、リリアに似ていた。たぶん表情の緊張の張り方が似ていたのだ。肩に入った力の抜き方が似ていたのだ。覚悟の置き場所が似ていたのだ。
「名前は」
「秋月、結希です」
「ユキ、さん」
「はい」
俺は彼女をレジ前のカウンターの椅子に座らせた。桜井が出勤してきた。俺は彼女に軽く目配せした。桜井は奥に消えた。彼女はこういう場面の引き際を、もう完璧に心得ていた。
「ユキさん」
「はい」
「君、温度計、使ったこと、ある?」
「えっと、計量カップなら」
「温度計だ」
「使ったこと、ないです」
俺は頷いた。厨房から湯煎のセットを出してきた。チョコレートを刻み入れ、湯煎にかけた。厨房に甘い香りがゆっくり満ちていった。その香りが彼女の鼻先に届いた瞬間、彼女は目をわずかに見開いた。
「ユキさん、ここ来て」
「はい」
彼女がおずおずと近づいた。動きがぎこちなかった。しかし、ぎこちなさの中にちゃんとやる気があった。
「これから、テンパリングを、やる」
「テンパリング?」
「チョコレートを、正しく結晶化させる、技術だ。一番、地味な、仕事だ」
「地味」
「うん。誰にも見られない。三十二度に保つだけだ。それを、八時間、続けることもある」
「八時間」
「日によっては」
彼女は目を丸くした。
「先生、それ、面白いですか」
「先生」と俺は思わず笑った。
「君、まだ、俺の弟子じゃ、ないよ」
「あ、ごめんなさい」
「いいんだ」
俺は温度計を、彼女の左手に握らせた。ひんやりとした金属の感触に、彼女がわずかに肩を震わせた。
「面白いか、面白くないかは、自分で決めて」
「はい」
「ただ、一つだけ言える。三十二度を見続けると、いつか、世界がちょっとだけ変わる」
「世界」
「うん。半径、二メートルくらいの世界が、ね」
俺は笑った。
「君の、半径二メートルが、ちゃんと温まるなら、君はそれで、いい職人だ」
彼女はしばらく温度計を握っていた。針がゆっくり上がっていく。二十八、三十、三十一、三十二。
「先生」
「うん」
「三十二で、止めるんですよね」
「そうだ。正解だ」
彼女がはにかんだ。その笑い方は、リリアと、桜井と、星野さんと、全部違っていた。ユキさんの、ユキさん自身の笑い方だった。いいな、と俺は思った。俺の半径二メートルに、また新しい温度が増えた。
俺は彼女にエプロンを貸した。白いエプロン。彼女のセーラー服の上からそれを巻くと、彼女は急に職人の気配をまとった。まだ何もできないはずなのに、立ち姿だけはもう職人だった。
「ユキさん、まずは見て、覚えて」
「はい」
「俺は、何も教えない」
「えっ」
「俺は、何度も繰り返すだけだ。君はそれを、隣で見ている。それだけでいい」
「先生、それ、本当に、教え方ですか」
「そう。日本では、これを『見て盗む』と言うんだ」
「ああ」
「君、これ、覚悟、できる?」
「覚悟、します」
彼女はまっすぐ俺を見た。黒い目に強い光が宿っていた。
俺は彼女の前で、テンパリングの最初の工程を見せた。刻む、湯煎、温度を上げる、火を止める、半分を大理石板に流す、広げて集める、二十七度まで下げる、合わせる、三十二度まで戻す。すべて無言でやった。彼女は無言で見ていた。厨房の換気扇の音と、ゴムベラと板の擦れる音だけが響いていた。
桜井が奥からこっそりその光景を見ていた。彼女の表情は、不思議そうで、嬉しそうで、少しだけ誇らしそうだった。たぶん彼女は、自分が「先輩」になった瞬間を、目撃していた。
「これが、テンパリングだ」
「はい」
「君は来週から、毎週土曜の朝、俺と一緒にこの工程を見る」
「はい」
「半年したら、左手で温度計を握れるようになる。一年したら、ゴムベラを動かせるようになる。二年したら、自分で刻むところからできるようになる」
「二年」
「うん。地味だろう」
「地味です」
彼女は笑った。
「でも、私、地味、好きです。先生のお店、地味だから、好きです」
「いいね」
「先生」
「うん」
「先生、その温度計、ずっと、左手で、握ってますよね」
「ああ」
「右手じゃなくて、左手なんですか」
「うん」
「どうして」
俺はしばらく、答えなかった。窓の外、商店街にゆっくりと光が広がり始めていた。シャッターを開ける音、鳥の声、配送トラックの遠い音。日本の朝の、慎ましい立ち上がりが、ガラスの向こうに、確かにあった。
「世界の別のところに、左手で温度計を握る、俺の弟子がいる。彼女に合わせて、俺も左手にしている」
「左手で握る、お弟子さん」
「うん」
「先生、それ、どういう意味ですか」
「いつか、君も、左手で温度計を握りたくなる日が、来るかもしれない。その時は、何も言わずに、左手にしてくれ。それで、たぶん、世界の温度が、ひとつ、揃う」
彼女はしばらく俺の言葉を、噛むように聞いていた。それから、まっすぐ頷いた。意味は分からないなりに、約束として受け取る、という頷きだった。それで、十分だった。
俺は彼女に、その日の最初のテンパランス・タルトを一切れ、サービスで出した。彼女はフォークでそれを割った。ぱり、と薄い音がした。彼女は目をまた丸くした。そしてゆっくり口に運んだ。咀嚼して、飲み込んだ後、彼女は深く息を吐いた。
「先生」
「うん」
「これ、たぶん、私、一生忘れません」
「忘れていいんだよ」
「えっ」
「忘れてもいい。ただ、自分の手で、もう一度、作れるようになれば、それでいい」
「先生」
「うん」
「先生、変な人ですね」
「よく、言われる」
彼女は店を出る前にもう一度、深く頭を下げた。その頭の下げ方も、リリアに似ていた。いや、誰にでも似ていた。たぶん、人が何かに本気になった時の頭の下げ方は、世界中どこも同じなのだろう。
その夜、俺はノートを開いた。四冊目のノートになっていた。俺は書いた。
「ユキ、初出勤。秋月結希。三十二度を、左手で、見られる。たぶん、リリアの半分くらいの速さで、伸びる。十分すぎる速さだ」
その下に、もう一行書き加えた。
「リリア、君が向こうの世界で誰かに同じことを教えているなら。俺たちは、二つの世界で同じ三十二度を、教え続けていることになる。それはたぶん、世界で一番、地味で、一番、贅沢な、共同作業だ」
窓の外、夜空に星がいつも通り、ぽつぽつと輝いていた。俺はそれぞれに勝手に名前をつけた。リリア、桜井、星野、ユキ。そして、もう一つ新しく名前をつけた。蓮、と。俺自身に、初めて星をひとつ与えた。その星は特別、明るくはなかった。しかし確かに、夜空の中で自分の場所を持っていた。それで、十分だった。




