第二十二章 三十二度の朝
その朝、俺はいつものように午前四時に、店の鍵を開けた。
冬の底冷えのする朝だった。息が白く流れた。商店街はまだ、誰も歩いていない。遠くで配送トラックの音がわずかに聞こえる。それ以外は無音。日本の商店街の、夜明け前の静けさ。鍵を回す音が、自分の耳の奥に、いつもより鮮明に届いた。たぶん、空気が冷えると、音の輪郭は鋭くなる。
厨房の電気を、ひとつだけ点けた。冷蔵庫を開けた。昨日仕込んだガナッシュが、艶やかに待っていた。温度計を差した。針がぴたりと十六度を指した。保管温度として完璧だった。
俺は湯煎を準備した。チョコレートを刻み入れた。包丁の刃が木のまな板に当たる音、刻まれたチョコレートの粒が銀のボウルに落ちる小さな音、湯煎の底でゆっくり立ち上がる気泡の音。それらが厨房に、薄い層になって積み重なっていく。俺はその層の中で呼吸を整えた。
ゆっくりと溶かしていく。何も特別なことのない、いつも通りの工程。しかしそれは毎朝、俺の確認だった。今日も世界がちゃんと動いている、という確認。
四十二、四十五、四十八、五十。ここで火から外す。
大理石板に半分流す。ゴムベラで広げ、集める。冷たい大理石が、チョコレートの底から熱を吸い取っていく。指の腹に、その温度の落ちていく速度が伝わる。二十七度まで下げる。
残りを合わせて、もう一度温める。二十九、三十、三十一、三十二。ここで止める。
俺は長く息を吐いた。窓の外、まだ空は暗い。しかし東の雲の縁が、わずかに白く染まり始めていた。今日も、夜が明ける。
俺は温度計の針をもう一度見た。三十二、ちょうど。
六時半。桜井が来た。彼女は冬用の白いダウンジャケットを着ていた。マフラーを外しながら、息を白く吐いた。頬がわずかに赤かった。
「鶴見さん、おはようございます」
「おはよう」
「ユキちゃん、今日、半休、だそうです」
「了解」
「あ、それから、店の前に女子高生が、もう、並んでます」
「えっ」
「ショーケースのテンパランス・タルトが、SNSで、ちょっと、バズってるみたいで」
「あー」
俺は頭を掻いた。
「桜井ちゃん」
「はい」
「俺、SNS、苦手だ」
「知ってます」
彼女が笑った。
「私が、対応します」
「頼む」
俺はしばらく彼女の後ろ姿を見ていた。四年前、店長から「素人」と怒鳴られていた彼女が、今では店の窓口をひとりで担っている。ユキにテンパリングを教えるのも、最近では彼女が最初の段階をやってくれている。彼女が伸びていく速さに、俺はたまに追いつけない。追いつけないことが、俺には嬉しかった。弟子は師を超えていく。それが世界の正しい順序だった。
七時。ショーケースに、ガナッシュ、テンパランス・タルト、シュークリーム、季節のフルーツのタルトが並んだ。ガラスの中に、小さな世界ができあがった。リンゴの赤、レモンのクリームの黄、チョコレートの黒、ガナッシュの艶のある黒。色が、揃っていた。
アステリア村長の言葉が、ふとよみがえった。「あんたの皿には、全部、色が、ある」――今、俺の店のショーケースにも、全部、色があった。日本の食卓も、灰色ではなくなっていた。
俺はエプロンの紐を結び直した。壁の写真を見た。亜麻色の髪の若い女性。胸元の銀のバッジ。左手の温度計。俺は写真に向かって、小さく頷いた。
「リリア、今日も、三十二度だ」
声に出すと、桜井が奥から首を出した。
「鶴見さん、誰と、話してますか」
「世界の、別のところに、いる、弟子と」
「鶴見さんって、たまに、不思議なこと、言いますよね」
「ああ」
「でも、嫌いじゃ、ないです」
「ありがとう」
彼女はふふ、と笑って奥に戻った。その笑い方が、ずっと前の桜井の怯えた笑いとは、まったく違っていた。それを確かめられたことだけで、今朝、俺は生きていてよかったと思えた。
七時半。ガラスのドアが開いた。ベルが軽やかに鳴った。冷たい風が店内にわずかに流れ込んだ。
最初のお客様だった。いつも来てくれる、五十代の元銀行員さん。今は転職して別の仕事に就いている。顔色が、最初に来た日より、ずっといい。
「おはようございます」
「おはようございます、鶴見さん」
「テンパランス、ですか」
「いつも通り。家族に、四つ」
「了解です」
俺は箱に四切れ、丁寧に詰めた。最後に店の名刺を添えた。「Patisserie Lila 鶴見 蓮」
お客様が箱を両手で受け取った。帰り際、振り返って彼は言った。
「鶴見さん」
「はい」
「ここ、なんか、いつも、世界が、ちょっとだけ、明るく、見える店ですね」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
お客様が出ていった後、俺はしばらく店の奥に立っていた。窓の外、東の空が白から、薄い桃色に変わり始めていた。日本の朝は、虹色ではない。しかし、これはこれで、十分美しかった。
九時。八十歳の老婦人が、孫娘らしき五歳くらいの女の子の手を握って入ってきた。最初の頃から、ずっと来てくれているお客様。彼女はもう杖をついていなかった。
「店主さん、おはようございます」
「おはようございます。お孫さん、ですか」
「ええ。最近、長女のところに生まれた孫娘で、今日、初めて預かったんです」
「そうですか」
「この子に、ここのお菓子を、食べさせたくて」
女の子はショーケースの前で、目を輝かせていた。小さな両手をガラスに押し付けて、中の世界を見ていた。彼女の鼻息が、ガラスを白く曇らせた。
「お嬢ちゃん、どれが、いい?」
「あの、ピカピカの」
彼女はテンパランス・タルトを指さした。
「お目が、高い」
俺は笑った。
彼女はお婆ちゃんの隣で、テンパランス・タルトをぱり、とフォークで割った。その音を聞いた瞬間、彼女は驚いてお婆ちゃんを見上げた。お婆ちゃんはにっこり頷いた。女の子はそれを口に運んだ。咀嚼した。飲み込んだ後、彼女は深く息を吐いた。
「お婆ちゃん」
「うん」
「これ、おうちで、つくれる?」
「店主さんに、お願いしないと、無理ねえ」
「私、つくりたい」
「あらまあ」
俺は思わず女の子を見た。彼女の目に、強い光が宿っていた。覚悟の最初の光が、宿っていた。まだ五歳なのに、その光は確かにそこにあった。
「お嬢ちゃん」
「はい」
「大きくなったら、おじちゃんが、教えてあげるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「やくそく」
「約束」
俺は彼女と小指を結んだ。彼女の小指はものすごく小さかった。しかし確かに、俺の小指と繋がった。お婆ちゃんが目をしばたたいた。
「店主さん、ありがとうございます」
「いえ」
「この子、最近、何にも、興味を、示さなくて、心配だったんです。両親が忙しくて、保育園のお迎えも、私が行ってて。でも、この子、私の手をあんまり、握ってくれなかったんですよ」
「お婆ちゃん」
「でも、今日、初めて、ぎゅっと、握って、くれて」
彼女はしばらく何も言えなかった。代わりに俺に向かって何度も頭を下げた。俺も何度も頭を下げ返した。
彼女たちが店を出た後、桜井が奥から出てきた。
「鶴見さん」
「ん」
「鶴見さん、また、弟子、増えました」
「ふふ」
「あの子、何年か後に、本当に、ここに来ますよ」
「来てくれたら、嬉しいな」
「私、絶対、来ると、思います」
桜井はショーケースをゆっくり磨きながら、そう言った。彼女の手の動きには、もう迷いがなかった。十六度を保つガラスの内側を、慈しむような速度で、ゆっくり、円を描いていた。それは、俺がガナッシュをテンパリングする時の、ゴムベラの動きの速度と、同じだった。彼女はもう、温度の見方を、知っていた。
昼前、俺は厨房に戻り、明日の仕込みを始めた。星見草の砂糖は手に入らない。代わりに、上白糖を、いつもより一度低い温度で、丁寧にカラメルにする。ガラム果実は手に入らない。代わりに、紅玉のリンゴを、皮ごと、六時間、煮詰める。チョコレートは、いつも通り、テンパリングする。三十二度。
俺はその工程の中で、ふと、別の厨房を思い出した。アステリア王城の小さな厨房。最後の夜、リリアと二人だけでいた、あの厨房。彼女の左手の上に、自分の手を軽く重ねた、あの瞬間。そこから時間がどれくらい流れたのか、俺にはもう、よく分からない。日本では二年。アステリアでは、たぶん、もっと。彼女が二十代の女性に育つのに、十年は流れたのだろう。それでも、俺の中では、あの夜の温度が、まだ昨日のことのように、指の腹に残っていた。
夕方、店を閉めた。最後の客を見送り、桜井に「お疲れさま」と言って帰した。彼女が出ていった後、俺はひとりで、ショーケースの前に立った。明日の朝のために、空のショーケースが、ガラスを冷えた光で満たしていた。十六度。完璧。
壁の写真を、もう一度見た。亜麻色の髪の若い女性。緑の目。胸元の銀のバッジ。左手の温度計。彼女はもう、二十代の半ばに差し掛かろうとしていた。たぶん、向こうの世界では、彼女の店もできているはずだった。俺はそれを、写真の中の彼女の佇まいから、勝手に確信していた。
俺は店を出た。鍵を回した。ガラスのドアの内側で、ショーケースの保管灯がぼんやり光っていた。その灯りは、俺の店の心臓だった。心臓は今夜もちゃんと動いていた。明日もたぶん、動く。それで、十分だった。
空を見上げた。冬の澄んだ夜空に、星が出始めていた。俺はもう、それぞれの星に名前をつけ終わっていた。リリア、桜井、星野、ユキ、最初の元銀行員のお客様、八十歳のお婆ちゃん、その孫娘、エルディオス侯爵、王妃陛下、近衛隊長、フォンセル村の村長、子守の母親、パン屋の主人、看護の老婦人。俺の半径二メートルに関わってくれた、すべての人の名前を、夜空の星につけた。
名前のつかない星も、まだたくさん残っていた。これから出会う人々のために、空けてある空席だった。
俺は空に向かって、小さく呟いた。
「リリア、今日も、お疲れさま」
その声は、夜空のどこにも届かなかった。しかし、俺の中にちゃんと響いた。響いた音が、左手の薬指の付け根の火傷の痕の上で、温かく止まった。俺は笑った。誰にも見えない笑い方で、笑った。
ガラスのドアの向こう、商店街の街灯がゆっくり灯り始めた。俺の影が、雪の上に長く伸びた。その影の上に、もう一つ、影が重なった気がした。亜麻色の髪の若い女性の影。しかし振り返ると、誰もいなかった。ただ、夜空に一番明るい星が、かすかに瞬いていた。俺は頷いた。確かに聞いた、と頷いた。
空の星と俺の温度計が、同じ三十二度で共鳴していた。日本とアステリアと、二つの世界の夜と朝が、ちょうど繋がる、その瞬間。
三時の厨房は、もう、誰にも見られていない場所ではなかった。俺自身が、そこをちゃんと見ていた。弟子たちがいずれ、そこをちゃんと見るだろう。お客様たちが、その温度の上に、明日の半径二メートルを組み立てるだろう。
三十二度の朝が、続いていく。それで、いい。
俺はエプロンの紐を、もう一度、結び直した。今日も、世界をちょっとだけ温めるための、地味な仕事が、始まる。誰にも奪われない、俺自身の仕事だ。
了




