第二十章 手紙
春が来て、俺の店は二年目を迎えた。
その朝、店のポストに、奇妙な白い封筒が入っていた。差出人は書かれていなかった。切手も貼っていなかった。誰かが深夜に直接投げ込んだ封筒だった。しかし、深夜に店の前を歩いた人間がいるはずがなかった。商店街の防犯カメラを桜井に確認してもらったが、そこには誰も映っていなかった。ただ、深夜三時頃、店の前で白い光が一瞬強く灯った映像だけが残っていた。その光は、店の照明ではなかった。商店街の街灯でもなかった。桜井は首を傾げて「鶴見さん、これ、何ですか」と聞いた。俺は知らないふりをした。しかし内心では、もう答えを知っていた。
俺はレジ前でそれを開けた。封蝋がしてあった。見覚えのある紋章だった。アステリア王家の紋章。
中には、一枚の写真が入っていた。写真の質感は現代のものではなかった。古い、銀板写真のような、不思議な質感だった。しかし不思議と、色がちゃんとついていた。日本の写真技術ではたぶん再現できない、不思議な銀板。
写真には、ひとりの若い女性が写っていた。二十代前半。亜麻色の髪。緑の目。白いコック服を着ていた。胸元に、見覚えのある銀のバッジが光っていた。組合長の銀のバッジを最年少で授けられた、あの少女。
しかし写真の中の彼女は、もう少女ではなかった。大人の顔をしていた。大人の佇まいをしていた。背筋の伸び方、頬の引き締まり、目の奥の落ち着き。それらが彼女を二十代の女性として、確かに完成させていた。彼女の手元には、小さなデジタルの温度計が握られていた。俺の十年の相棒だった、その温度計。それを彼女はしっかりと握っていた。彼女の足元には子供が二人いた。二人ともにこにこ笑っていた。たぶん弟子だった。彼女はまだ結婚はしていない、気がした。その目に、誰かを愛している光は、まだなかった。
写真の裏に、小さな字でこう書かれていた。
「先生。私、シェフパティシエに、なりました。三十二度を、毎日、見ています。先生も、お元気で。リリア」
その字を見た瞬間、俺は息が止まった。長く、息が止まった。
桜井が奥から出てきた。
「鶴見さん」
「うん」
「鶴見さん、それ、なんですか」
「手紙だ」
「誰から」
「世界の、別のところに、いる、弟子から」
桜井は不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。俺の表情を見たからだろう。彼女はそっとレジの裏に戻った。戻る背中が、いつもより丸かった。彼女なりに、そっとしておいてくれているサインだった。
俺は写真を店の奥の壁に画鋲で留めた。最初、温度計のスケッチを貼った場所の隣だった。桜井が隣に立った。
「綺麗な人ですね」
「だな」
「子供も、可愛い」
「だな」
「鶴見さん」
「ん」
「何で、泣いてるんですか」
「泣いてないよ」
「泣いてます」
俺は頬に手をやった。頬が確かに濡れていた。涙が伝っていた。しかし不思議と、悲しさはなかった。ただ、温度が戻ってきていた。預けたはずの半分の温度が、ゆっくりとこちら側に戻ってきていた。いや、たぶん、リリアがこっそり返してくれたのだ。彼女はそういう、ちょっとずるい子だった。いい意味で、ずるい子だった。
昼前の客足がひとしきり過ぎた、十一時頃。ガラスのドアがもう一度開いた。今度は配達員だった。白い、不思議な封筒を抱えていた。切手も差出人も書いてなかった。しかし俺にはすぐに分かった。あの紋章の、封蝋が施されていた。二度目の手紙だった。
俺は震える指でそれを開いた。今度の中身は小さな紙の包みだった。包みを開けると、中にはひとかけのチョコレートが入っていた。艶やかなβ型結晶。完璧なテンパリング。誰かがこれを最高の三十二度で作った、という証拠だった。その下に、小さな手紙が添えられていた。
「先生。私の最初のテンパランス・タルトです。先生のレシピを、私の手で、もう一度、書き直しました。最初の一切れは、先生に、食べてほしくて。アステリアより、リリア」
俺はそれをレジの裏で口に運んだ。ぱり、と、薄い音がした。咀嚼した。飲み込んだ。
味は、俺の作るテンパランス・タルトとは、少しだけ違った。彼女の味だった。砂糖の煮詰め方の温度が、俺より一度低かった。コンポートの果実の選び方が、ガラム果実ではなかった。チョコレートのカカオの分量が、俺より三パーセント多かった。それらの小さな違いの一つひとつが、彼女の指で書き直された証拠だった。彼女の十年が、そこに入っていた。俺の十年と似ているけれど違う、十年。彼女がこれから積み重ねていく十年の、最初の一口。
その瞬間、俺の中で、預けてきた半分の温度が、一気に戻ってきた。別れの夜の、彼女の左手の震え。最後の温度計の重さ。火傷の優しい痛み。聖堂の結晶の白い光。近衛隊長の無駄のない剣の動き。エルディオス侯爵の若い顔の最後の頷き。国王陛下の頭を下げた白髪交じりの後頭部。王妃陛下の両手の温かさ。フォンセル村のパン屋の太い腕。村長の杖をつく音。子守の母親の荒れた手。看護の老婦人の欠けた歯。すべて、味と匂いと一緒に戻ってきた。たった一かけのチョコレートが、半年分の記憶を運んできた。マドレーヌの瞬間という言葉を、俺は数年前にどこかで読んだことがあったが、それがどういうものかを、生まれて初めて知った。
俺はしばらく、レジの奥で立ち尽くしていた。涙が止まらなかった。しかし、悲しい涙ではなかった。ありがたい涙だった。誰かに覚えていてもらえる、というのは、こんなにありがたいことだったのか、と初めて知った。
「鶴見さん、何、食べてるんですか」と桜井が遠慮がちに聞いた。
「弟子の、初仕事だ」
「弟子、というと」
「世界の、別のところにいる、最高の弟子の」
「鶴見さん、それ、本当に、ある世界なんですか」
「ある」
「鶴見さん」
「うん」
「私も、いつか、その世界、行けますか」
「いや、行けない」
「えっ」
「行く必要が、ない」
俺は笑った。
「桜井ちゃんが、ここで、ちゃんと、温度を、見続けてくれていれば、向こうの世界も、こちらの世界も、同じ三十二度だ。世界は結局、同じ温度で繋がってる。場所が違うだけだ」
彼女はしばらく考えていた。それから深く頷いた。
「鶴見さん、私、一生、ここで、温度、見続けます」
「ありがとう」
その夜、俺は店の奥でノートを開いた。もう三冊目のノートになっていた。最初のページに、こう書いた。
「リリアが、シェフパティシエになった。彼女はたぶん、俺より、いい職人になる。俺の弟子なのだから、当たり前のことだ」
俺はノートを閉じた。それから店のすべての電気を消した。最後にショーケースの奥のチョコレートのストッカーの温度計を確認した。針はしっかり十六度を指していた。俺は扉を閉めた。鍵を回した。冷たい春の夜が頬に当たった。
空を見上げた。星がいつもより近く見えた。俺はその中の一番明るい星を、リリア、と呼ぶことを、もう隠さなかった。声に出して呼んでみた。その音は誰にも届かなかった。しかしたぶん、彼女には届いた。俺の三十二度が世界を超えて、彼女の三十二度に共振したような、不思議な確信があった。
商店街の街路樹が、春の夜風に揺れていた。新芽の匂いが、わずかに混ざっていた。日本の春の、慎ましい匂い。それは、アステリアの麦畑の匂いとも、王城の聖堂の冷たい石の匂いとも違う、けれど、どこか地続きの匂いだった。
帰り道、俺は遠回りして公園を歩いた。ベンチに座り、手のひらを開いた。薬指の付け根の火傷の痕。手のひらの真ん中の白い線。二つの世界の証拠が、暗闇の中で、わずかに白く見えた。俺はそれを長く見つめていた。それから手を握った。火傷の温度と、白い線の温度が、合わさって、ちょうど三十二度になった気がした。
俺は深く息を吐いた。息は白かった。春の夜は、まだ少し冷えていた。




