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窯番パティシエの俺、地味なテンパリング技術で異世界の砕けた魔晶結晶を救って帰還します  作者: もしものべりすと


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第十九章 倉橋、再び

ある日、ガラスのドアが開いて、倉橋が入ってきた。


 十二月。クリスマスの仕込みで忙しい時期だった。俺はショーケースの中身を補充している最中だった。午前十時。外は雪の予報の出ている、薄曇りの平日。


 彼を見た瞬間、俺の手は止まらなかった。昔の俺なら止まっていた。今の俺は止まらない。俺はガナッシュのトレーをショーケースに収め、扉を閉めて、振り向いた。


「いらっしゃいませ、先輩」


 倉橋は痩せていた。頬がこけていた。着ているコートはよく見ると襟元がすり減っていた。髪の毛が根元から白くなり、染めるのをやめたらしかった。白髪交じりの彼は、クルガともまた、別の人間に見えた。倉橋もクルガも、あの「同じ顔」を共有していたのではなく、彼らがそれぞれ別の腐り方を選んだ末に、たまたま同じ顔つきになっていただけかもしれない、と、俺は今ようやく気づいた。


「鶴見、お前」


「先輩、ご注文は」


「いや、その、客じゃ、ない」


「分かりました。じゃ、お話だけ、伺います」


 俺はレジ前のカウンターに、そっとふたつ椅子を出した。彼がゆっくり座った。動作が以前よりゆっくりだった。


 桜井が奥の厨房から、こちらを心配そうに覗いていた。俺は彼女に軽く頷いた。彼女は頷き返して奥に戻った。しかし扉の隙間から、まだこちらを見ていた。


「鶴見、店、潰れたんだ」


「店、というと」


「お前が辞めた、あの店」


「そうですか」


「お前が抜けてから、雑誌の評価がガクッと落ちて、客も減って、半年で立ち行かなくなった」


「店長は」


「他の店に移った」


「先輩は」


「行く店が、見つからない」


 俺は頷いた。不思議と、何の感情も湧かなかった。怒りも、同情も、優越感も湧かなかった。ただ、ああ、そうですか、という薄い認知だけがあった。


「それで、今日は、何の用ですか」


「鶴見、雇ってくれ」


 彼は頭を下げた。深く、深く下げた。倉橋が頭を下げているのを、俺は見たことがなかった。十年、見たことがなかった。彼はいつも、相手に頭を下げさせる側の人間だった。


「俺、お前のところで、見習いから、やり直す」


「先輩」


「なんでも、する。皿洗いでも、なんでも」


 俺はしばらく考えた。窓の外、雪がちらつき始めていた。一片、また一片。商店街の街路樹の細い枝に、白い粉のようにとどまる。日本の冬の、本格化する前触れの雪。


「先輩」と俺は口を開いた。


「うちの店は、人が、足りています」


「鶴見」


「それに、先輩、申し訳ないですが、俺は、先輩を、雇いません」


 俺の声は静かだった。怒っていなかった。ただ、決めていた。


「先輩は、人の手柄を奪わないと、生きていけない人です。ここで雇うと、桜井ちゃんから、たぶん、奪う」


「いや、もう、そんなことは、しない」


「先輩」と俺は首を振った。


「先輩のは、性分です。三十年磨いてきた、別の腕です。俺の三十二度と、同じくらい、年季が、入っています」


 倉橋が俯いた。しばらく何も言わなかった。深く息を吐いた。その息は白く見えなかった。店内の暖房の温度が、外との差をちょうど消していた。


「鶴見、お前、変わったな」


「ええ」


「冷たく、なった」


「冷たく、ではなく、温度を、見るようになっただけです」


 俺はショーケースから、テンパランス・タルトを一つ取り出した。箱に入れて、紙の手提げに入れた。包装紙には、店のロゴが淡い金で押してあった。


「これ、お持たせです」


「いや、俺は、金が」


「お代は、いりません」


「鶴見」


「先輩、これを、家で、ひとりで、食べてください。それで、明日、もう一度、自分の腕で、どこに行くか、考えてください」


「鶴見」


「俺は、先輩のことを、ずっと、嫌いでした」


 俺ははっきり言った。


「でも、嫌いだから、潰したいわけじゃ、ないです。だから、これは、俺からの、最後の、餞別です」


 倉橋はしばらく手提げを見つめていた。それから深く頭を下げた。頭が、随分、低い位置まで下がった。


「ありがとう、鶴見」


「いえ」


「お前、立派な、シェフに、なったな」


「ええ」


「本当に、お前のお菓子は、温度が、高い」


「いえ、先輩」


 俺は笑った。


「俺のは、たぶん、温度は、ふつうです。三十二度です。世界で、いちばん、ふつうの温度です」


 倉橋は何か言いかけて、結局口を閉じた。彼はもう一度深く頭を下げて、店を出ていった。ガラスのドアが閉まり、ベルが軽く鳴った。外を歩く彼の背中が、ガラスの向こうで小さくなっていった。彼の手提げの中で、テンパランス・タルトが揺れていた。彼がそれを、家でひとりで食べたかどうか、俺は永遠に知ることはない。しかし俺の役目はたぶん、そこまでで終わりだった。


 倉橋が店を出て行った後、桜井が奥から出てきた。


「鶴見さん、よかったんですか」


「うん」


「雇って、面倒、見てあげれば、いいのに、って、私、思っちゃいました」


「桜井ちゃん」


「はい」


「いいんだ。あの人は、自分の腕で、どこかに行く。俺は、見送るだけ」


「鶴見さん、優しい、というより」


「うん」


「強い、ですね」


「強くは、ない」


 俺は首を振った。


「ただ、俺、もう、自分のために、温度を、見続けると、決めたんだ」


「自分のために」


「うん。それと、桜井ちゃんと、お客さんと、世界のいろんな人のために。でも、最初は、自分のためだ」


「鶴見さん」


「ん」


「私、最初、鶴見さんのこと、ちょっと、気の毒な人だと、思ってました」


「うん」


「でも、今は、ちゃんと、尊敬してます」


「ありがとう」


 彼女はにっこり笑って奥に戻った。俺はレジの椅子を二つとも片付けた。倉橋が座っていた椅子の上に、わずかに彼の重みの痕跡が残っていた。それも、ふきんでぬぐった。ガラスのドアの向こう、雪がちらつき始めていた。


 その夜、店を閉めた後、俺はノートを開いた。倉橋のことを書こうかと思った。しかし書かなかった。書く価値がないわけではない。書かなくても、もう十分だった。代わりに、こう書いた。


「今日、過去の冬が、終わった。明日からは、ただの、冬だ」

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