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窯番パティシエの俺、地味なテンパリング技術で異世界の砕けた魔晶結晶を救って帰還します  作者: もしものべりすと


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第十八章 訪ねてくる人々

店を開けて三ヶ月、奇妙なお客さんたちが続いた。


 最初は、五十代の男性だった。元銀行員らしい、きちんとした身なり。仕立てのよいスーツ、磨かれた革靴。しかし、表情だけがどこか抜け殻のようだった。彼はショーケースの前にしばらく立ち、テンパランス・タルトを一切れ、買って帰った。


 翌日、彼はもう一度来た。今度は全種類をひとつずつ、買った。


「店主さん」と彼はレジで低い声で言った。


「私、五十二歳で、リストラされましてね」


「そうですか」


「家族に、まだ、言えていない」


「はい」


「でも、ここのお菓子を家に持って帰ると、なんだか、まだ、自分は家族のためにできることがある気がしてくるんですよ」


「そうですか」


 俺は頭を下げた。


「じゃあ、その、できることのために、明日も、お持たせします」


「ありがとうございます」


 彼は深く頭を下げた。帰り際、振り返って彼はこう言った。


「店主さん、ここのお菓子は、説教を、しないですね」


「説教」


「うん。最近のお菓子、なんていうか、頑張れ、とか、人生は素晴らしい、とか、説教してくる気がするんですよ。でも、ここのは、ただ温度だけ、ある」


「ありがとうございます」


「いえ。それが、いちばん、ありがたいです」


 彼はそれから毎週来た。二ヶ月後、彼は再就職したと報告に来た。四ヶ月後、彼は家族と一緒に来た。奥さんと、高校生の娘さん。娘さんはテンパランス・タルトを一口食べて、目をまん丸にした。


「お父さん、これ、家で食べてた、あれ?」


「そうだよ」


「お父さん、すごい店、知ってたんだね」


「うん。お父さん、ここに、半年、通ったんだよ」


 俺は彼らの会話を、レジの裏で聞いていた。桜井が隣で、ふふ、と笑っていた。その笑い方は、リリアが客を嬉しそうに見送る時の笑い方に似ていた。いや、似ていたのは、こちらが勝手にそう思っているだけかもしれない。しかしその重なりが、俺には十分だった。


 ある六月の夕方、その「介護で疲れ切った人」が、店に来た。四十代の痩せた男性だった。髭を剃り忘れていた。目の下に深い隈があった。彼はショーケースの前でしばらく何も言わなかった。ただ、ガナッシュとテンパランス・タルトを見比べていた。桜井がそっと声をかけた。


「お決まりですか」


「あ。失礼しました」


「いえ、その」と彼は俯いた。


「私、今、母の介護を、しているんですけど」


「はい」


「母が、最近、何も、食べてくれなくて」


「そうですか」


「もう、半年、固形物を、口にしていないんです」


「はい」


「医師は、口の機能には問題はない、と言うんですが、本人が食べる気力をなくしていて」


「そうですか」


 俺はレジから出てきた。


「お母様の好きな味は」


「分かりません」


「ご家族で、聞いた覚えはありませんか」


「父が亡くなる前、母がよく缶のミルクキャラメルを舐めていた、と聞いたくらいで」


「ミルクキャラメル」


「はい」


 俺は頷いた。日本の昭和の、子供時代の、あの黄色い箱のミルクキャラメル。それは今でも薬局で売っている、半世紀以上変わらない味のお菓子。


「少し、お待ちください」


 俺は奥の厨房に戻った。桜井がついてきた。


「鶴見さん、何作るんですか」


「ミルクキャラメルだ」


「えっ、メニューに、ないですよ」


「今から作る。十分くれ」


 俺は生クリームと、バター、上白糖、ハチミツを鍋に入れた。じっくり煮詰めた。砂糖が結晶を解き、バターの黄色が深い飴色に変わっていく。煮詰める音が変わる瞬間――最初の沸騰の暴れた泡が、おとなしい気泡に切り替わる――を耳で聞き分け、その後の温度の上昇を、針で追う。百十八度。俺は温度計の針を見つめた。ぴたりと止めた。冷却用の平らなトレーに流した。空気に触れた瞬間、表面に薄い膜が生まれる。脂と糖の、最初の結晶化のサインだ。ゆっくり冷ました。十分後、ナイフで小さく刻んだ。


 完成した、手作りのミルクキャラメル。それをワックスペーパーで一つずつ包んだ。箱に二十個詰めた。箱に、一筆書いた。「お母様へ。少しだけ、舌の上で、温めてみてください」


 俺はそれをレジで彼に渡した。


「ミルクキャラメル、手作りで、作りました」


「えっ」


「お母様の、子供時代の味に、近いはずです」


「いつの間に」


「お代はいりません」


「いえ、それは」


「これは、餞別です」


「餞別、というと」


「お母様への、です」


 彼はしばらく箱を見つめていた。それから深く頭を下げた。深く、深く下げた。頭がレジの天板につきそうなくらい、下げた。


「ありがとうございます」


「いえ」


「店主さん、私、最近、母を、憎みそうになっていました。介護で疲れていて、食事を出しても出しても、食べてくれなくて」


「はい」


「でも、今、店主さんが、母のために、十分かけて、お菓子を、作ってくれて」


「はい」


「私、母を、もう一度、愛せそうな気がします」


 彼は泣いた。四十代の男性が、店のレジの前で泣いた。桜井が後ろで目を伏せた。俺は何も言わなかった。言葉はたぶん必要なかった。代わりに、もう一箱、彼に手渡した。


「これは、店主さんの分です。お母様にあげる前に、自分で一つ、舐めてください」


「私の」


「ええ。あなたも、半年、固形物をちゃんと味わって、食べていない、はずです」


 彼はぽかんと口を開けた。それから笑った。涙と笑いが同時に溢れた。


 翌週、彼はまた来た。今度はお母様と、車椅子で一緒に来た。お母様は八十歳くらいの痩せた女性だった。目に薄い白い膜があった。しかし、笑顔だった。


「店主さん」と彼はレジで深く頭を下げた。


「母が、ミルクキャラメルを舐めて、それから少しずつ、お粥を、食べてくれるようになりました。半年ぶりに、母が笑いました。本当に、ありがとうございます」


 彼は何度も頭を下げた。お母様も車椅子から頭を下げた。彼女の手は震えていたが、その手で何度も俺の手を握った。皺だらけの、紙のように軽い手だった。しかしその軽さの底に、八十年ぶんの記憶の重さが、確かに沈んでいた。


 俺は頭を下げ返した。何回下げ返したか覚えていない。ただ、レジの裏で桜井が目を真っ赤にしていたのは、覚えている。


 彼らが帰った後、桜井がぽつりと言った。


「鶴見さん、すごい」


「いや、すごくはない。十分、煮詰めただけだ」


「鶴見さん、それを、すごい、というんです」


 彼女はエプロンの裾で目元をぬぐった。俺は何も言わなかった。ただ、店の奥で温度計をもう一度握った。針は十六度を指していた。保管温度として完璧だった。しかし、俺の手はそれより、ずっと温かかった。


 ある日、俺は気づいた。Patisserie Lilaに来るお客さんは、皆、どこか傷を持っていた。婚約者を失った人、仕事を失った人、夢を家族に否定された人、病気で何も食べられなくなった人、子供を亡くした人、介護で疲れ切った人。彼らはここに来て、テンパランス・タルトを一切れ買って帰る。それで、また明日をちょっとだけ生きる。お菓子で人生は変わらない。しかし、お菓子で明日の朝はちょっとだけ軽くなる。そういうことを、彼らは教えてくれた。


 夏の終わりに、十六歳の女子高生が、制服のままガラスのドアを押した。よれよれのノートを抱えていた。表紙に、ボールペンで「練習帳」と書かれていた。


「あの、私、お菓子の専門学校に、行きたくて」


「はい」


「でも、親に反対されていて」


「そうですか」


「ここの、一番、地味な、シュー生地、見学、させてもらえませんか」


 俺は思わず笑った。


「シュー生地が、地味、って分かる時点で、君、見込みあるよ」


「えっ」


「いいよ。明日から、毎週土曜の午前中だけ、見に来な」


 彼女は目を丸くした。レジ前で、自分の名前を、小さく言った。


「星野、です」


「星野さん。見学だけだから、邪魔しない範囲でな」


「はい」


 翌週、彼女は来た。翌々週も来た。桜井とすぐ仲良くなった。半年後、彼女は専門学校に合格し、合格通知のコピーを店のレジにこっそり差し込んでいった。付箋に「先生、ありがとうございました。星野」と書かれていた。俺が「先生」と呼ばれる立場になっていることに、最初しばらく気がつかなかった。桜井に指摘されて、ようやく気がついた。


「鶴見さん」と桜井がある夜、レジを締めながら言った。


「ここ、お菓子屋さんっていうより、なんか、温度を一度だけ上げる場所、っていう感じがします」


「温度を、一度」


「うん。皆さん、ここに来ると、ちょっとだけ、暖かくなって、帰っていく」


「そうかもね」


「鶴見さん、それ、すごいと思います」


「いや、すごくはない。ただ、三十二度を、ちゃんと測ってる、それだけだ」


「鶴見さんが、それだけ、っていうところ、私、好きです」


「そっか」


 桜井はレジを締め終わって、エプロンを外した。そして、店の奥の壁の――最初の頃に俺が壁に貼った温度計のスケッチを指さした。


「これ、何ですか」


「温度計の絵」


「鶴見さんが、描いたんですか」


「いや、昔の弟子が」


「ああ、世界の別のところにいる、その人」


「そう」


「鶴見さん、その人のこと、よく忘れないですね」


「忘れない、というか、俺の温度の半分は、その人に預けてあるんだ」


「あずける」


「うん。だから、忘れたら、こっちの俺が、寒くなる」


 桜井はしばらくその絵を見ていた。それから、ふっ、と笑った。


「鶴見さん、たまに、すごい詩人みたいですね」


「やめてくれ」


「ふふ。じゃ、お先に失礼します」


「お疲れさま」


 彼女が出ていった後、俺はノートを開いた。二冊目のノートも、もう半分ほど埋まっていた。新しいページに、こう書いた。


「テンパリングとは、温度を、一度だけ、正しく動かすことだ。それで、艶が、戻る。それで、構造が、安定する。そういう、地味な仕事を、俺は、たぶん、これから先も、続ける」


 その下に、もう一行書き加えた。


「俺の店は、お客さんの一日の温度を、一度だけ上げる場所らしい。桜井ちゃんが、そう言った。たぶん、彼女が一番、正しい」


 窓の外、夏の夜の蛙の声が遠く聞こえた。日本の慎ましい夏の夜が、店の小さな窓の外に広がっていた。俺はノートを閉じ、最後にショーケースの中の温度計を確認した。針は十六度。保管温度として完璧。俺は店の電気を消した。

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