第十七章 Patisserie Lila
半年後、俺は自分の店を開いた。
店は小さな商店街の角の、十坪ほどの物件だった。元はクリーニング屋で、何ヶ月も空いていた場所。家賃は安かった。外装も内装も、自分で塗った。壁の色は、リリアの目の色と同じ淡い緑にした。誰も、その意味を知らない。俺だけが知っていれば、十分だった。
看板を、最後まで迷った。「Patisserie Tsurumi」にしようかと、何度も思った。しかし最後に、別の名前にした。「Patisserie Lila」――ガラスのドアの上に、小さな金文字で刻んだ。文字を彫る業者にこれは何の意味かと聞かれた。俺は答えた。「世界の別のところにいる、最高の弟子の名前です」と。業者は不思議な顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
桜井が開店初日、店の前で首を傾げた。
「鶴見さん、リラって、誰ですか」
「俺の昔の弟子の名前」
「弟子? 鶴見さん、弟子なんていました?」
「いた。一人だけ。世界で一番、覚えの早い弟子だった」
「それって、彼女ですか」
「違う」
俺は笑った。
「世界の、別のところに、いる」
桜井は首をもう一段、深く傾げた。しかしそれ以上は聞かなかった。彼女には、人の物事に踏み込みすぎない、いい距離感があった。たぶん、俺の十年を隣で見てきた彼女なりの優しさだった。
開店初日のショーケースには、テンパランス・タルトが並んでいた。星見草の砂糖はないので、上白糖を丁寧にカラメルにした。ガラム果実はないので、紅玉のリンゴを六時間コンポートにした。一番上にテンパリングしたチョコレートを薄く張った。そのほか、ガナッシュ、シュー、季節のフルーツのタルト、地味なフィナンシェ。すべて、俺が一晩かけて仕込んだもの。
ぱり、と、フォークで割れる音がする。あの晩餐の間で国王陛下が割った、あの音と同じ音がするはずだった。
最初のお客様は、近所の老婦人だった。杖をついた、八十歳くらいの女性。彼女は一切れを買って帰った。翌日、彼女はもう一度来た。目が潤んでいた。
「これ、なんていうお菓子ですか」
「テンパランス・タルト、と言います」
「テンパランス、というのは」
「節制、という意味です」
「節制、ね」
彼女はしばらく考えた。
「私、ね、孫を亡くしてね、ずっと、何も、食べられなかったんですよ」
「そうですか」
「でも、これを食べたら、なんでだか、ご飯も、食べられそうな気がしてきて」
彼女は少しだけ泣いた。俺は何も言わなかった。言葉はたぶん、必要なかった。代わりに、新しい一切れを箱に詰めて、お代を取らずに彼女に渡した。
「これ、お代は」
「サービスです」
「いえ、それは」
「明日、また来てくださったら、それでいいです」
彼女は目を何度もしばたたいた。それから深く頭を下げて、出ていった。
翌日、彼女は来た。翌々日も来た。来週も来た。彼女はお菓子を一切れ買って帰り、翌朝、空の箱を返しに来た。その繰り返しが、俺の店の最初のリズムになった。
俺はショーケースの前でしばらく立っていた。桜井が隣に来た。
「鶴見さん」
「ん」
「鶴見さん、何で、お菓子作ってるんですか」
「うん」
俺は考えた。
「世界を、ちょっとだけ、温めるためかな」
「世界」
「うん」
「鶴見さんの作るお菓子、確かに、世界、ちょっとだけ、温まる気がします」
「そう?」
「うん。私、知ってます」
彼女は笑った。窓の外の初夏の光が、ガラスを白く染めていた。
その日の夜、俺は店の電気を消した後、奥の小さな机でノートを開いた。日本側で新しく書き始めた、二冊目のノートだった。一ページ目に、こう書いていた。
「令和七年五月。Patisserie Lila、開店。看板を磨くのは、今日からの仕事だ」
俺は左手の薬指の付け根を、無意識に撫でていた。火傷の痕は、まだ薄く残っていた。
窓の外、夜空に星が一つ、ぽつんと見えた。日本の星なので近くなかった。しかし、俺はその星をリリア、と呼ぶことにした。誰にも言わなかった。言葉に出すと約束に反する気がした。彼女に温度を預けた以上、こちらでは輪郭だけで思い出すのが、ルールだった。ルールの中で、俺なりに彼女と繋がっていた。星に名前をこっそりつけることくらいは、許されているはずだった。




