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窯番パティシエの俺、地味なテンパリング技術で異世界の砕けた魔晶結晶を救って帰還します  作者: もしものべりすと


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第十六章 窯番の夜明け

その日、俺は店に出勤した。


 午前四時。いつもの時間。いつものように、誰よりも先に厨房の鍵を開けた。いつものように、湯煎を準備した。いつものように、ガナッシュを仕込み始めた。ただし、今日は温度計を二本、用意していた。もう一本は代わりに、ボイスレコーダーだった。胸ポケットに小さく忍ばせた。これから起きることを、すべて音声で記録する。ノートだけでなく、肉声も証拠にする。倉橋には、そういう人間に対する扱い方が必要だった。


 六時半。桜井が出勤してきた。俺の顔を見て、彼女はしばらくその場で固まった。それから駆け寄ってきた。


「鶴見さん!」


「桜井ちゃん」


「鶴見さん、本当に、大丈夫ですか」


「ああ」


「私、お見舞いに行きたかったんですけど、店長に止められて」


「いいんだ。気にしないで」


「鶴見さん、なんか、雰囲気、変わりました」


「そう?」


「うん。前より、まっすぐ、立ってる気がする」


 彼女はぱっと笑った。その笑顔はリリアのものとよく似ていた。いや、二人とも笑顔が明るくなっていた。桜井の笑顔から、怯えが消えていた。たぶん、俺がいない三日間、店長との間で何か変化があったのだろう。


 俺は笑った。


「今日、店長、何時に来る?」


「八時って言ってました」


「倉橋さんは」


「七時半って」


「分かった」


 俺は仕込み続けた。ガナッシュはいつも通り、三十二度で最高の艶を持って完成した。桜井がその艶を横から覗き込んで、感嘆の息を漏らした。


「鶴見さん、これ、いつもより、艶がすごい」


「気のせいだろ」


「いえ、絶対、違います」


「桜井ちゃん」


「はい」


「君も、これ、できるようになる。今日から、教える」


「えっ」


「俺の教え方は、温度計を握らせて、三十二度を見せる、それだけだ」


 俺は彼女に温度計を渡した。彼女は両手でそれを受け取った。不思議な目で、その針を見つめていた。リリアの最初の日と同じ目だった。俺の十年前と、同じ目だった。


 七時半。扉が開いて、倉橋が入ってきた。いつもの通りの足取りで、いつもの通りの顔で、冷蔵庫を開け、俺のガナッシュに指を一本突っ込もうとした。俺は彼の手首を、軽く掴んだ。


「先輩」


 俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。怒りも、震えもなかった。ただ、決めた、というだけの声だった。


「それ、俺が作ったやつです」


 倉橋の手が止まった。彼は信じられないという顔で、俺を見た。


「は」


「指、入れないでください」


「お前、何、寝言言ってんだ」


「寝言じゃないです。ここ三年、毎日、俺の作ったものに、最後だけ指を入れて、自分の名前で出してましたよね」


「は、はあ」


「証拠、あります」


 俺はポケットから自分のノートを取り出した。日本側の十年分の温度ログ、時刻記録、写真記録。それを彼の前に開いた。ページをめくる手は、もう震えていなかった。


 倉橋の顔がゆっくりと白くなった。


「先輩、これ、見てください。三月十二日、ピスタチオのオペラ。仕込み、午前一時から五時まで、私。仕上げ、午前八時から九時まで、先輩。雑誌掲載、先輩の名前で。同じ構図が、過去三年で二十七回」


「鶴見」


「その他、桜井ちゃんへの業務時間外の罵倒の記録、十二件。録音データもあります。私の知らないところで、お客様への対応で問題発言があった件、目撃者の証言を四件、確保しています」


「お前、いつから、そんなものを」


「十年前からです」


「十年」


「先輩。私、最初の年から、すべての業務記録を取っていました。誰が何をしたか、温度はどうだったか。最初は自分の勉強のためでした。途中から、自分を守るため、になりました」


 倉橋はしばらく何も言えなかった。顔から血の気が引いていた。彼は椅子の背にもたれかかった。


 八時。店長が出勤した瞬間、俺は彼を奥のオフィスに呼んだ。


「店長」


「鶴見、何だ」


「復帰しました。ただ、復帰早々、お話があります」


 俺はノートを机の上に置いた。


「ここ三年分の業務日誌です。すべての温度ログ、時刻、素材ロット、それから、誰が最終仕上げをしたかの記録。倉橋先輩が雑誌に出した作品、十二件、すべて、俺が前夜までに完成させていたものです」


「鶴見、それは」


「店長、ご存知だったと思います」


 俺は店長の目を、まっすぐ見た。彼は目を逸らさなかった。病院でも目を逸らさなかった。それは、彼なりの誠実さだった。


「俺が黙っているうちは、店として楽だった。倉橋先輩は外向きの顔として優秀で、俺は裏方として黙々とやっていた。バランスが取れていた。違いますか」


「鶴見」


「俺、もう、黙りません」


 店長が息を吐いた。長く長く、息を吐いた。


「分かった。倉橋には、こちらから話す」


「いえ、店長」と俺は退職届を机の上に置いた。白い封筒。昨夜、家で書いたものだった。


「俺は、辞めます」


「鶴見、待ってくれ。お前を失うのは、店として、痛い」


「ありがとうございます。でも、俺、自分の店を開きます」


「資金は」


「貯めてあります。十年、ろくに使わなかったので」


 俺は立ち上がった。


「桜井ちゃんも、よかったら、声、かけさせてください」


「分かった」


 店長は両手で顔を覆った。しばらくその姿勢のまま動かなかった。ようやく顔を上げると、目がわずかに赤かった。


「鶴見」


「はい」


「すまなかった。お前を、見て見ぬふりしてきた。お前の十年に、店として報いることが、できなかった」


「店長」


「お前の店、絶対に、成功する。応援させてくれ」


「ありがとうございます」


 厨房を出る時、桜井が出口で待っていた。


「鶴見さん」


「桜井ちゃん」


「お店、開くんですか」


「うん。半年後くらいに」


「私、雇ってください」


「もちろん」


 彼女は笑った。いつもより明るい笑い方だった。その笑い方は、リリアの別れの夜の笑い方によく似ていた。


 外に出ると、冷たい朝の風が吹いていた。俺は空を見上げた。日本の、薄曇りの、無機質な空。しかし、その向こう側に、かつて純白の光を放つ塔があった、別の世界があった、はずだった。俺の薬指の付け根の火傷が、わずかに疼いた。俺は笑った。誰にも見えない笑い方で笑った。

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