第十五章 白い天井
白い天井だった。
ガナッシュの最高の艶の白とは違う、もっと無機質な、消毒液の匂いがする白だった。蛍光灯の冷たい光が、天井の継ぎ目に薄い影を落としていた。継ぎ目の数を数えそうになって、自分が病院のベッドにいることを、ようやく認識した。
「鶴見さん、起きた」
誰かが慌てたように呼んだ。看護師の声だった。遠くでナースコールの電子音が鳴っていた。点滴のスタンドが軽く揺れていた。心電図のモニターが、規則正しい音を立てていた。
俺は目を開けた。日本の、病院の白いカーテン。窓の外にはビル群と、薄曇りの空。窓の桟に、季節外れの桜の花びらが一枚、落ちていた。たぶん風で運ばれてきたのだろう、と思いかけて、いや、ここは病室の二階以上のはずだ、と途中で気がついた。あの花びらは、誰かが持ち込んだのかもしれない。
ベッドの脇には点滴のスタンド。俺の左手の甲には、針が刺さっている。体が重かった。手足の感覚が戻ってくるのに、しばらく時間がかかった。記憶が、奇妙な感覚でねじれていた。
俺は何年か、別の世界で生きた。はずだ。しかし、その記憶の輪郭ははっきりしているのに、温度がなかった。
リリアの顔は思い出せた。亜麻色の髪、緑の目、左手の温度計。しかし、彼女と過ごした夜のガナッシュの匂いは、もう思い出せなかった。悲しかったのか、嬉しかったのか、その判断さえつかなかった。
ああ、と俺は思った。これが、置いてきた半分の魂、というやつか。約束通り、温度はリリアの中に預けてきた。俺の側には、輪郭だけが残っている。それは約束だった。彼女との、最後の約束。
不思議と、悲しさはなかった。むしろ安心していた。あの世界の温度が、ちゃんと向こうの誰かに預けられている。俺はその安心を抱えて、こちらの世界でもう一度立つ。それがこれからの仕事だった。
「鶴見さん」と看護師が近づいてきた。四十代の丸顔の女性。マスクの上から見える目元に、優しさがにじんでいた。
「気がつきましたね。よかった。婚約者さん、昨日まで、ずっとついてらしたんですよ」
「婚約者」
「美雪さん、ですよね。緊急連絡先になっていて」
「ああ」
俺はぼんやり頷いた。
「今日は、お仕事で、外されてますが、すぐ呼びますね」
「いえ」
俺は手を上げた。
「呼ばないでください。指輪は、もう、お返ししたので」
「え」
看護師が戸惑った顔をした。俺は微笑んだ。たぶん、申し訳ない笑い方だった。
「でも、本当に大事な人、なんですよ。三日間、一度もお休みにならず、いらっしゃいました」
「そうですか」
「お元気な間に、もう一度、お話しされたら、いかがですか」
俺はしばらく考えた。考えながら、左手の薬指の付け根を、何気なく撫でた。そこに、小さな火傷の痕が残っていた。古い火傷ではない、ここ数日のものに見えた。看護師は何も言わなかった。たぶん、点滴の針で擦れたと思っているのだろう。
しかし、俺は知っていた。この火傷は、リリアが最後の夜、俺の手にチョコレートを溶かしすぎてこぼしてしまったものだ。「先生、ごめんなさい」「いいよ、それくらい」「先生の手に、痕が」「これが、君の卒業証書だ」――二人で笑った夜。その温度だけは、なぜか俺の指の付け根に残っていた。約束で向こうに預けたはずなのに。たぶん、それだけはリリアがこっそり、こちらに忍ばせてくれたのだろう。彼女らしい、と俺は思った。
俺はゆっくり笑った。看護師には見えない笑い方で笑った。
「看護師さん」
「はい」
「美雪さんに、伝言を、お願いできますか」
「もちろん」
「『ありがとう。でも、もう、自分の足で立てる気がするから、心配しないで』と、お伝えください」
「分かりました」
彼女はメモを取った。マスクの上の目が、少しだけ潤んでいた。
「あの、もう一つ、いいですか」
「はい」
「お店の店長を、呼んでください」
「店長、というと」
「俺の勤め先の」
「ああ、はい」
看護師が出て行った後、俺は左手をシーツの上で広げてみた。薬指の付け根に、小さな火傷の痕。他にもう一つ、別の痕に気がついた。手のひらの真ん中に、薄い白い線。結晶の根元に置いた手の、跡。誰にも見えない場所に、二つの世界の証拠が刻まれていた。俺はそれを手のひらを返してシーツに伏せた。誰にも見せる必要はない。俺だけが知っていれば、十分だった。
翌朝、医師の許可が下り、俺は退院手続きを取った。ベッドで眠っていたのは、たった三日。しかし、俺の中の感覚では、たぶん半年以上、過ごしていた。
退院前、店長が見舞いに来てくれた。四十代後半の痩せた男だった。俺の顔を見て、彼は深くため息をついた。
「鶴見、お前、生きてて、よかった」
「店長、ご心配をおかけしました」
「あの夜、お前を残して帰ったのは、俺だ。倉橋に任せて、お前を一人にした。すまん」
「店長、それは」
「いや、聞いてくれ」と彼は椅子に座った。彼の手には、白い封筒があった。
「お前が倒れた夜、店の防犯カメラの映像を確認した」
「映像」
「冷蔵庫の上の什器を、何時間も前に無造作に積み上げたのは、倉橋だった」
「店長」
「俺は見て見ぬ振りをしてきた。倉橋の問題を。お前の手柄を奪うのも、桜井ちゃんを怒鳴るのも。経営として楽だったから」
彼は封筒をベッドのテーブルに置いた。
「これ、見舞金だ。店からの。それと、もう一つ。お前が望むなら、倉橋を解雇する。証拠の映像と、過去三年のお前の手柄横領の記録を、本部に提出する」
俺はしばらく考えた。考えながら、左手の薬指の付け根を撫でていた。火傷の痕がわずかに温かかった。
「店長」
「ん」
「俺、辞めます」
「は」
「自分の店を、やります」
「鶴見」
「資金は十年分、貯めてあります。婚約のために貯めていた金が、丸々残りました」
彼は長く俺を見つめた。それから頷いた。
「分かった。応援する。退院後、桜井ちゃんと相談しろ。あの子も、お前を待ってる」
「ありがとうございます」
「倉橋は、こちらで処分する」
「お任せします」
彼は立ち上がり、深く頭を下げて出ていった。
病院の出口で、俺はスマホの電源を入れた。着信はひとつもなかった。倉橋からも、店長からも。誰も、俺の不在を気にかけていなかった。いや、ひとつだけメッセージがあった。桜井からだった。
「鶴見さん、大丈夫ですか。来週、お店、待ってます」
俺は短く返信した。
「来週、行きます。話があります」
返信はすぐに来た。
「はい! 絶対、会いに行きます!」
俺は笑った。病院の自動ドアの前で笑った。たぶん、通行人が振り返るくらい、声を出して笑った。退院した患者が笑っていることは、不思議な光景だっただろう。しかし、俺は笑い続けた。何年ぶりか、思い出せないくらい、久しぶりの、声を出した笑いだった。




