第十四章 別れの章
十日が、あっという間に過ぎた。俺はリリアに、ガナッシュ、カスタード、シュー生地、パイ生地、そしてテンパリングを徹底的に教え込んだ。彼女の右手は、まだ完全には動かない。しかし、左手が信じられないほど器用になっていた。彼女は覚えが早かった。それは、十年前の俺とちょうど同じだった。いや、俺よりずっと早かった。俺が一週間かかった工程を、彼女は二日で覚えた。
その十日の間、エルディオス侯爵は毎日、宮廷から人を派遣してくれた。料理長、製粉所の責任者、養蜂家、酪農家。俺は彼らに、日本の製菓技術の基本をできるだけ多く教えた。ノートのレシピを書き写してもらった。俺がいなくなっても、アステリアの食卓に色が戻り続けるように。
最後の夜、俺たちは王城の小さな厨房に二人だけでいた。他に誰もいなかった。王妃陛下が気を遣って、厨房を貸し切りにしてくれた。
俺は鍋に上等なチョコレートを刻み入れた。湯煎にかけ、ゆっくり溶かしていった。厨房に甘い香りがゆっくり満ちていった。その香りは、十年間の俺の人生の香りでもあった。
「リリア、温度計を」
「はい」
彼女が俺の温度計を渡してくれた。俺の十年をずっと支えてくれた、デジタルの温度計。その針が四十二、四十五、四十八と上がっていく。
「五十度で、火から外す」
「五十度」
「次に、半分を、大理石板に流す」
「はい」
「板の上で、ゴムベラで広げ、集める。それを繰り返す」
「冷ますんですね」
「そうだ。二十七度まで、下げる」
彼女は左手でゴムベラを動かした。不器用だった。最初の俺と同じだった。
「もう一度」
「はい」
俺は彼女の左手の上に、自分の手を軽く重ねた。
「焦らない。慌てない。ただ、温度だけを見る」
「先生」
「ん」
「先生、これからも、温度だけ、見続けますか」
「ああ」
「日本でも、見続けますか」
「見続ける。リリア、君も、見続けろ」
「はい」
チョコレートが二十七度まで下がった。次にもう一度温める。二十九、三十、三十一、三十二。
「ここで止める。これが、結晶化の温度だ」
「先生、これ、結晶のときと、同じですね」
「同じだ」
「先生、結晶を直したのは、これだったんですね」
「これだった」
俺は彼女に温度計を渡した。
「リリア。この温度計は、君のだ」
「先生」
「俺の十年の相棒だ。君に預ける」
彼女は両手で温度計を受け取った。左手が震えていた。包帯の右手も震えていた。
「先生」
「ん」
「私、これ、宝物にします」
「宝物にしないでくれ。仕事の道具にしてくれ」
「分かりました」
彼女は笑った。涙が頬を伝った。しかし、笑った。
俺は最後に、ノートの最後のページを破り、彼女に渡した。
「これ、君に」
「何ですか」
「俺の十年分のレシピ集だ。お前の指で、もう一回、書き直してくれ」
彼女は頷いた。頷きながら泣いた。泣きながら頷いた。包帯の右手の指の付け根が、ノートの紙の上で、ぽつ、と湿った。
「先生」
「ん」
「先生は、私の最初の先生で、最後の先生です」
「それは嬉しい言葉だが、間違いだ」
「えっ」
「君はこれから、たくさんの先生に出会う。市場の野菜売りも、養蜂家も、客の老婆も、みんな君の先生だ。俺はその最初の一人にすぎない」
「先生」
「俺の役目は、君を自分の足で歩かせることだ。それで終わりだ」
彼女はしばらく口を開かなかった。それから、深く頷いた。
「分かりました。私、自分の足で歩きます。たくさん転びます。でも、立ち上がります」
「うん」
「先生も、自分の足で歩いてください」
「うん」
俺たちはしばらく黙って、チョコレートを見ていた。三十二度を保ったままの、艶やかな黒い液面。その表面に二人分の影が映っていた。影だけは、二人とも同じ高さに立っていた。
彼女が最後にもう一度、温度計を確かめようとして、湯煎の鍋に左手を伸ばした。包帯の右手が動かないせいで、彼女の左手はまだ慣れていない角度で動いた。手首がわずかに揺れた。鍋の縁に立てかけてあった木べらが滑り、湯煎のぬるいチョコレートが、ほんの少しだけ、跳ねた。
ぱしゃ、と低い音がした。
熱を持ったしずくが、俺の左手の薬指の付け根に落ちた。薄く、けれど確かに、皮膚を焼いた。
「先生、ごめんなさい」
彼女の声が、上ずっていた。
「いいよ、それくらい」
「先生の手に、痕が」
彼女が両手で俺の手を取った。包帯越しに、右手も添えていた。彼女の体温が、火傷の熱に重なった。痛みはすぐに鈍くなり、代わりに、もう一段深い場所に、別の温度が残った。
「これが、君の卒業証書だ」と俺は言った。
「そんな、卒業証書、ないです」
「ある。これからは、ちょっと熱いものをこぼせるくらいの大胆さで、自分の店を回せ」
彼女は泣きながら笑った。笑いながら泣いた。指の付け根の皮膚が、わずかに白く膨らんでいくのを、俺は他人事のように眺めていた。一晩経てば、これは小さな痕になる。半年経っても、消えない種類の痕に。それでよかった。
夜が明けた。儀式の朝、俺は王城の聖堂で、白い装束を着せられた。国王陛下、王妃陛下、エルディオス侯爵、近衛隊長、組合長、十二人の宮廷議員。皆が静かに見守っていた。国王陛下はまだ顔色が悪かったが、自分の足で立っていた。彼は玉座から降りて、俺の前に来た。そして、頭を下げた。
「ツルミ・レン殿。我が王国を救ってくれて、ありがとう」
「陛下、頭をお上げください」
「いや、これは私個人として、頭を下げている。王としてではない」
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げ返した。頭を下げる、という行為が、こんなに温かいものだとは知らなかった。倉橋に頭を下げてきた十年は、ただ寒かった。
リリアは最前列に立っていた。左手で温度計を握りしめていた。胸元には新しい銀のバッジが光っていた。昨夜のうちに、組合長が彼女にシェフパティシエの資格を授けていた。史上最年少のシェフパティシエ。その肩書きは王国中の話題になっていた。
俺は彼女に向かって頭を下げた。彼女も頭を下げた。お互い、何も言わなかった。言葉はもう、十日のあいだに全部、交わしてあった。
魔導士団が結晶の前で、長い詠唱を始めた。古い言葉だった。翻訳の魔法が効かなかった。俺にはその意味が分からなかった。しかし、その響きはどこか、子守唄に似ていた。
俺の体がゆっくりと軽くなった。足が地面から離れた。体の輪郭が、白く淡くなっていった。
「先生」と遠くリリアの声が聞こえた。「先生、ありがとうございました」
俺は答えようとした。しかし、口は動かなかった。代わりに、心が答えた。俺の方こそ、ありがとう、リリア。俺は、君に、初めて、本気で、生きた。
結晶の白い光が、俺を包んだ。まぶたの裏まで白かった。甘い、チョコレートの香りがした。その向こう側で、誰かが俺の名前を、優しく呼んでいた気がした。




