第十三章 目覚めの国
「ツルミ・レン殿。陛下が目を覚まされました」
俺は王城の客室で、三日ぶりに起き上がった。
目が覚めると、リリアが椅子で居眠りをしていた。包帯の右手が、毛布の上に乗っていた。彼女の頬には、涙の跡がまだ薄く残っていた。たぶん、俺が眠っている間、ずっとここにいたのだろう。
窓の外は青い空だった。雲がゆっくり流れていた。風に、乾いた麦の香りが乗っていた。久しぶりに新鮮な空気だった。ここ数ヶ月、王都の空気はどこか淀んでいた。今、その淀みが晴れていた。
窓辺に立つと、塔の頂で純白の光が規則正しく脈打っていた。虹色ではなかった。白だった。チョコレートの最高のテンパリングの艶と、同じ白だった。俺は長く息を吐いた。息が白く見えなかった。季節が進んでいた。あるいは、王国の気候がすでに戻り始めていた。
「先生」とリリアが目を覚ました。目が合った瞬間、彼女の顔がぐしゃっと崩れた。左手で口元を覆い、こらえる仕草をしたが、こらえきれなかった。
「先生、起きたんですね」
「ああ」
「私、先生を待ってました」
「待たせたな」
俺は彼女の頭をぽんと叩いた。桜井にした仕草と、同じだった。しかし、感情は違った。桜井の頭を叩く時、俺は自分も誰かに慰めてほしかった。リリアの頭を叩く時、俺は自分が、誰かを慰める側に回っていた。その違いに、初めて気がついた。
扉が叩かれ、エルディオス侯爵が入ってきた。彼の表情は明るく、しかしどこかに陰があった。
「レン殿、起きたか」
「侯爵」
「陛下が目を覚まされた。毒は結晶の波長に分解された。お前の推測通りだ」
「よかった」
「王国は救われた」
彼は俺の前に椅子を引いて座った。しばらく黙って、俺の顔を見ていた。それから口を開いた。
「だが、レン殿。賢者たちが、ある報告を寄越してきた」
「俺の、帰還の方法ですか」
「そうだ」と彼は目を伏せた。
「結晶の再結晶化は、お前の魂を結晶に強く繋いでしまった。お前の魂は、もう半分、結晶の側にある。賢者の言葉では、お前は『二つの世界に同時に存在している』状態になった。元の世界に帰るには、お前の魂のうち、結晶側の半分をここに残す必要がある」
「残す、というのは」
「お前の人格を、半分」と彼は苦しげに息を吐いた。
「もし帰るなら、お前はここでの記憶のある部分を失う。ここで誰と過ごし、何をしたか、輪郭は残るが、温度のない記憶になる」
「温度のない、記憶」
「ああ。お前はこちらでの友をなつかしむことはできるが、思い出して泣くことは、できなくなる」
俺はしばらく何も言えなかった。窓の外、麦の海が風に揺れていた。遠くの空に、雲の影がゆっくり移動していた。
帰る方法はある。しかし、リリアと過ごした日々の温度は、置いていかなければならない。桜井のような、もうひとつの場所で待っている人間を、思い出して泣くことは、できなくなる。
「侯爵。どうしても、半分置いていかないと、いけないんですか」
「そうだ。賢者たちはこれを『代償』と呼んでいる。両方の世界で生きる権利は、誰にもない」
「分かりました。考えさせてください。一日だけ」
「分かった」
侯爵は立ち上がった。部屋を出る前に、振り返って言った。
「レン殿。私は、お前にここに残ってほしい。アステリアはお前を必要としている。だが、それを強要する権利は、私にはない」
彼は深く頭を下げた。貴族が、外国人の前でまた、頭を下げた。俺は何も言えなかった。ただ、自分も同じくらい深く、頭を下げ返した。
彼が出ていった後、リリアが俺の隣に座った。彼女はしばらく何も言わなかった。窓の外を見ていた。
「リリア」
「はい」
「君は、どう思う」
「先生が、決めることです」
「君に、聞いてる」
「私の意見は」と彼女は長く息を吐いた。
「先生は、帰る人だ、と、私、最初から、思っていました」
「最初から」
「先生の目は、ずっと、遠くを、見ていました。アステリアではない、もっと遠くを」
「そうか」
「だから、先生が帰ると言っても、私は引き止めません。ただ」
「ただ?」
「私と過ごした日々を、温度のない記憶にするのは、嫌です。それは、私が、もったいないです」
彼女は初めて、自分のために何かを要求した。俺は思わず笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱くなった。
「分かった。君に、温度を、半分、預ける」
「えっ」
「君の中に、俺がリリアと過ごした日々の温度を、預けておく。俺は向こうの世界で、たまに、温度のない輪郭だけ思い出す。でも、君がここでその温度を覚えておいてくれたら、それで十分だ」
「先生」
「アステリアの新しいシェフパティシエに、温度を託す。それでいい」
彼女は俯いた。俯いたまま、肩が震えていた。しかし、俺の方を見て強く頷いた。
「分かりました。私、預かります。先生の、温度。全部、預かります」
「頼んだ」
俺は彼女の頭をもう一度叩いた。今度は長く叩いた。彼女はその間、ずっと泣いていた。窓の外、風が麦を揺らしていた。穂と穂が擦れる音が、規則正しく繰り返されていた。それは、世界が呼吸を取り戻した音、のように、聞こえた。




