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窯番パティシエの俺、地味なテンパリング技術で異世界の砕けた魔晶結晶を救って帰還します  作者: もしものべりすと


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第十二章 結晶炉の八時間(後半)

扉から、エルディオス侯爵と近衛隊長が、剣を抜いて駆け込んできた。俺は振り向かなかった。振り向いたら、結晶の温度が揺れる。俺の役割はここで、ただ三十二度を保つこと。守る役は、別の人間にしてもらう。それが今の俺の、唯一の正解だった。


「クルガ・ヴァン・ハーゼル」とエルディオス侯爵が剣の切っ先をクルガに向けた。「お前の、その地味な腕が、王国を蝕んだ」


「黙れ、若造」


「今度は、私たちが、お前を地味に始末する」


 近衛隊長が、もう一方の側から踏み込んだ。彼は四十代の寡黙な男だった。動きに無駄がなかった。クルガは自分の懐から短剣を抜いた。白く濁った刃。たぶん、毒が塗られていた。彼は剣士ではない。だが、追い詰められた人間は剣士でなくとも危険だった。


「先生」とリリアが俺の背後で囁いた。


「気にしないで、続けて、ください」


「ああ」


「私が、後ろに、います」


 俺は頷いた。頷く動作だけで、結晶の波長がわずかに揺れた。俺はすぐに修正した。三十二、ちょうど。


 背後で、剣の音、靴の音、罵声、呻き。肉が何かに当たる音。誰かが倒れる音。長くは続かなかった。不正によって地位を保ってきた男は、剣の腕でも二流だった。ぐしゃ、という音がして、それきりクルガの声は止まった。


「無力化、完了」と近衛隊長の声が低く言った。息がわずかに上がっていた。しかし、彼の声に勝者の傲慢さはなかった。ただの、業務報告だった。


「ありがとうございます」と俺は振り向かずに答えた。「皆さん、退避してください。これから、最後の段階に入ります。聖堂内の魔力濃度が、跳ね上がります。耐性のない人間は、危険です」


「分かった」とエルディオス侯爵が頷いた。近衛隊長が、クルガの体を抱えて聖堂の外に運び出した。血の匂いは、結晶の魔力の中にすぐに溶けていった。


 六時間が経過した。俺の足はもう、自分のものではなかった。膝が震え、視界が二重になった。心臓が不規則に跳ねていた。それでも、俺は立っていた。倒れたら、結晶がまた砕ける。今度こそ、王国は終わる。


「先生」とリリアが俺の背中を左手で支えた。彼女の左手は、思ったより強かった。松葉杖を支えていた腕は、いつのまにか俺を支えるための腕になっていた。


「もう、ちょっと、です」


「ああ」


「私が、ここに、います」


「ありがとう」


 俺は初めて声に出した。不思議なことに、温度は揺れなかった。たぶん、リリアが俺を支えていることは、温度の一部だった。俺は一人で温度を保っていたのではなかった。俺はリリアと一緒に、温度を保っていた。その違いに、俺は六時間気づかなかった。


 七時間。結晶の核の光が、ゆっくりと外側に広がり始めた。亀裂が、内側から白く埋まっていく。β型の、安定した、純粋な構造。聖堂の天井から、雪が降るように、白い光の粒が落ち始めた。それは、空気そのものが白く結晶化していく、神秘的な光景だった。魔導士たちが扉の隙間から息を呑んでいるのが、分かった。


 八時間。最後の、針の一撃のように、俺は魔力を結晶に放った。残っていた力の最後の一滴まで、結晶に流し込んだ。胸の奥で、何かがぴき、と軋んだ。しかし、構わなかった。ここで止まったら、すべて無駄になる。


 結晶の表面が、つるりと艶を帯びた。ガナッシュの、あの三十二度の艶と同じだった。一拍、置いた。結晶が、内側から、白く眩しく爆ぜた。


 光が聖堂を満たした。俺は目を閉じた。まぶたの裏まで白かった。白の向こう側に、青空のような何か。それから、桜の花のような何か。懐かしい、何か。遠く、王城の塔の上で、虹色の光が純白に変わったのが、見えた気がした。


 俺は膝から崩れた。冷たい石の床が、額に当たった。心地よかった。起きていなくて、よかった。もう、誰かが世界を回してくれる。俺は十年ぶんの、休みを取る権利があった。


 最後に聞こえたのは、リリアの声だった。


「先生、終わりました。先生、世界を、救いました」


 俺は笑った気がした。返事はできなかった。


 遠くで、王都の鐘がいっせいに鳴り始めるのが聞こえた。大鐘、中鐘、小鐘。それらが不思議な和音を作り、夜明けの空を震わせていた。俺はその音の中で、意識を手放した。


 夢の中で、俺はもう一度、あの三時の厨房にいた。湯煎の鍋を前に、温度計を握っている。針は三十二を指している。後ろで誰かが俺を見ている気配がする。振り向くと、亜麻色の髪の少女が立っている。彼女は何も言わず、ただ俺の隣に立って、針を見ている。それから、桜井が来る。彼女は怯えた目をしていない。倉橋が来ても、彼は俺の鍋に指を入れない。彼は遠くから俺を見て、それから、頭を下げる。誰もが頭を下げ、誰もが温度を見ている。三十二度の世界。俺はその夢を、長く長く見ていた。

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