第十一章 結晶炉の八時間(前半)
夜、地下聖堂の扉が開いた。俺はノートと温度計、それから魔導士団が用意した魔力測定器具を持って、結晶の前に立った。聖堂の壁には無数の魔法のランプが灯され、ゆっくりと、息をするように、明滅していた。
結晶は亀裂の中で不規則に脈打っていた。チョコレートの大鍋を前にした時と、同じだった。ただし、温度の単位が違う。ここでは「魔力波長」を、温度のように扱う。単位は『フォン』というらしい。日本語の「フォン」と同じ綴りだ、と俺は思った。製菓のフォンも、ベース、土台、という意味を持つ。言葉の偶然か、世界の必然か、俺には判断がつかなかった。
魔導士団のひとりが、俺に魔力波長計を手渡した。銀の針が、ガラスのドームの中で不規則に揺れていた。
「ツルミ殿、これは結晶の核に直接触れる必要があります」
「触れたら、どうなりますか」
「術者の魔力を吸い込みます。耐えられるかどうか、私には保証できません」
「分かりました」
俺は深く息を吸い、結晶の根元に手を置いた。冷たい、と思った瞬間、体の芯から何かが吸い出された。冷たさが痛みに変わった。膝が震えた。額に汗が噴き出た。だが、俺は立ち続けた。石窯の前で十時間立ち続けた夜なら、何度もある。婚礼ケーキを徹夜で組み上げた夜なら、何百回もある。立ち続けることは、俺の十年でただひとつ得意になったことだった。
計器が波長を示した。今、結晶の核は、不安定なα波長で揺れている。これを安定したβ波長に組み直す必要がある。手順は、チョコレートのテンパリングと同じ。
第一段階。一度、構造を完全に溶かす。俺は結晶に、自分の魔力を流し込んだ。心臓が悲鳴を上げた。結晶の中の構造が、ぐにゃりと歪んだ。光が一瞬消えた。聖堂全体が暗黒に沈んだ。魔導士たちの息を呑む音が、闇の中で響いた。
第二段階。冷却。俺は魔力の流入を止めた。結晶の中の波長がゆっくりと下がった。二十七、二十八、二十九。ここで止める。
第三段階。再加熱。もう一度、わずかに魔力を流す。二十九、三十、三十一、三十二。三十二。俺は止めた。
ここから、八時間。ただ、三十二を維持する。
結晶の中で、新しい光の芯が生まれ始めた。ぼんやりとした、生まれたばかりの星のような光。それを、俺は揺らさず、消さず、ただ三十二度に保つ。
時間が流れ始めた。一時間。俺の脚が震えてきた。膝の関節が軋み始めた。二時間。額に汗が伝った。冬の聖堂なのに、汗が出ていた。手のひらの皮膚が、結晶に触れた部分から白く変色し始めた。三時間。視界がわずかに揺らいだ。壁の魔法のランプが二重に見えた。息が浅くなった。
「先生、お水です」
声が聞こえた。リリアだった。松葉杖をついて、聖堂に入ってきていた。彼女は入り口の魔導士たちに何かを言って、通してもらっていた。たぶん、俺の弟子としての権利を主張したのだろう。
「リリア、来るなと」
「私、決めたんです。先生のそばに、いるって」
彼女は俺の口元に椀を当てた。冷たい水が、舌の根に沁みた。ありがたかった。水の冷たさが、視界の二重を、すこし戻してくれた。
「先生、昔、言ってくれましたよね」
「何を」
「テンパリングは、温度を見続けることだって。誰にも見てもらえなくても、自分は鍋を見ていろ、って」
「言ったな」
「今日は、私が、先生を見ています」
俺の胸の奥で、何かがぐっと膨らんだ。ありがとう、と俺は心の中で言った。声には出さなかった。声に出したら、温度が揺れる気がしたから。
四時間が経過した。結晶の中の新しい光は、徐々に明るくなっていた。虹色ではなかった。白い、純粋な光だった。
その時、聖堂の扉が勢いよく蹴破られた。冷たい風が流れ込んだ。ランプの炎が、すべて横に流れた。
「ツルミ」
声が鋭かった。俺は振り向かなかった。振り向いたら、温度が揺れる。
「クルガ様」
「逃げた。看守を二人、殺してきた」
「そうですか」
「お前を、ここで殺す」
俺は答えなかった。答える時間が惜しかった。代わりに、リリアが彼に向かって松葉杖を構えた。子供みたいに細い体で、銀髪の男に立ち向かっていた。
「来ないで」
「弟子か。下がっていろ」
「私が、先生の道具を、預かっているんです」
リリアの背後の床に、温度計とノートが置かれていた。俺の十年。俺のすべて。
クルガが嗤った。「お前のような小娘が、結晶を守れると思うのか」
「守ります」
「ふん」
クルガが踏み込んだ瞬間、聖堂の扉から、もう一度、別の足音が駆け込んできた。




