第28話 私のお金より、大事な約束
第百三十日。初秋の澄んだ空気が王都を包む朝、アデライドは手元に届いた短い報告書に目を通していた。
書面には、数行で『回廊の木材に腐食なし。車輪の走行テスト良好。異常なし』という既存施設係からの点検記録が記されている。
アデライドはそれを読み終え、先日すれ違ったオルタの小さな顔を思い出した。約束していた返事を、今日なら伝えられる。
その日の昼前、約束していた面会に合わせて施療区を訪れると、オルタは母親の隣で待っていた。アデライドは身を屈め、その顔を覗き込んだ。
「この前は、床の点検に来ていたのですって。次の雨の日も、使う前に確かめてくれる人がいるのよ。もし危ないところがあれば、直るまでは別の道を教えてもらいましょう」
「じゃあ、またお父さんとご飯を食べられる?」
「ええ。今日も、待っていらっしゃるわ」
オルタが母親の手を引いた。その足音を聞きながら、アデライドは回廊を見渡した。
木製の回廊は永遠のものではなく、いずれ次の交換が必要になるだろう。復職準備班で作る織布も、運送組合の厳しい品質確認がこれからも続く。そして何より、ベルンの脚の痛みが魔法のように完全に消え去ることはない。
ベルンは、許可を得て第一隊の新人教育を手伝い始めたと、先日の面会で自分から話してくれた。短い時間からだという。その先を急がせる必要はないと、アデライドは思っている。
第百九十六日から始まる家族券の市と商人への移行も、契約上は準備されているとはいえ、翌年度以降の公費が確実に更新される保証はない。それでもアデライドは、それらの不足や不安を、無期限の私費負担で引き受けて穴埋めすることはしないと決めていた。
彼女はもう、見栄や義務のために己をすり減らすのではなく、祖母から受け継いだ工房と、自分自身の暮らしを大事にすることを選んだのだ。
その日の夕刻。アデライドは、王都の借家にあるこぢんまりとした台所に立っていた。
豪奢な伯爵邸の広大なダイニングとは比べ物にならないほど狭いが、そこには彼女が自分のために選んだ、温かみのある生活の匂いが満ちていた。
アデライドは実務服の上にエプロンを締め、自らの手で野菜を刻み、鍋を火にかけていた。
かつての彼女の指先は、見栄を張るための会合費を記した請求書に、ためらいながら署名していた。愛人の歓迎会の紙を裏返した日の感触は、今も覚えている。役に立たなければ捨てられるという恐怖に縛られ、お金を払うことでしか自分の居場所を確保できなかった。
だが、今は違う。彼女の手は、自分のために、そしてこれから帰ってくる愛する人のために、温かい夕食を整えている。
コトコトと鍋が音を立て始めた頃、木製の扉が控えめにノックされた。
急いで手を拭き、扉を開けると、そこには仕事帰りのダリオが立っていた。外の冷たい空気を纏い、少し疲労の色を滲ませていた彼だが、エプロン姿のアデライドを見ると、ふっと表情を和らげた。
「……ただいま、と言ってもいいですか」
口にしてから、ダリオは少し照れたように笑った。
「ええ。お帰りなさい、ダリオ。ちょうど煮込みができたところよ」
アデライドは彼を笑顔で迎え入れた。
小さな木のテーブルに向かい合って座る二人。
そこには、オスカーからの不当な請求書も、寄託の重い決裁書類もない。ただ、アデライドが作った温かい煮込み料理と、素朴なパン、そして二人分のお茶が並んでいるだけだ。
「皿は、俺が洗います」
ダリオが水差しを取り、彼女の空いた杯に注いだ。アデライドは頷き、まだ盛りつけようとしていた鍋を置いた。何もかも自分で整え続けなくてよい食卓だった。
ダリオは上着を脱ぎ、公的な「私」ではなく、飾らない「俺」という私的な口調で、今日騎士団であった他愛のない出来事を話し始めた。アデライドもまた、工房での職人たちとのやり取りを笑いながら語る。
美味しい食事と、穏やかな会話。後援者と副隊長という肩書きを完全に下ろした二人の時間は、どこまでも穏やかに流れていく。
食事の最中、アデライドはふとスプーンを置き、目の前の青年を見つめた。
彼は、お金を出さない自分を選び、自立して生きることを誰よりも強く支えてくれた。今度は自分が、見栄の金や打算ではなく、確かな心で彼との未来を選ぶ番だ。
「……ダリオ」
アデライドは、静かに、しかしはっきりと彼を呼んだ。
「次の冬も、二人で食卓を囲みたいわ」
それは、七歳年上の彼女から申し出た、金銭の保証が一切ない、ただ時間と日常を共にするという純粋な約束だった。
アデライドの言葉に、ダリオは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
返事を待つ数秒の間、アデライドはテーブルの下で指を組んだ。見合う何かを差し出すのでなく、ただ一緒にいたいと伝える。その心細さも、今は逃げずに抱えていた。
ダリオの顔に、不器用だが力強い、心からの微笑みが広がった。
「次の冬の後も」
彼は短く応え、テーブルの上に置かれていたアデライドの手に、自分の手をそっと重ねた。
剣ダコのある厚く確かな温もりを持つその手が、彼女の指先を優しく、だがしっかりと包み込む。
二人の間に交わされたのは、大理石の記念碑よりも、巨額の寄託金よりも価値のある、互いの人生を対等に歩んでいくという約束だった。
窓の外には初秋の夜の闇が広がっているが、この小さな借家の台所は、二人だけの確かな光と匂いに満ちていた。
温かなスープから立ち昇る湯気の向こうで、アデライドはこれまでの人生で最も美しく、晴れやかな笑顔を浮かべていた。




