第27話 後援者の席を、空ける日
第百二十六日。初秋の冷ややかな風が吹き始めた王都の市庁舎で、アデライドは市書記のルカと共に帳簿に向かっていた。
本日から市の新会計年度が始まり、寄託事業の公費への切り替えに伴う監査が行われているのだ。
「復職準備班は、昨日を有給作業のない日とし、職員が点検と移管の事務を行いました。本日から正式に新体制で再開されました」
ルカが淡々と報告する。運送組合による品質適合発注(毎会期八十銀貨)と、市の技能移行費(六十銀貨)を合わせた財源への移行である。また、回廊と衛生釜の保守費も、予定通り市の年度枠へと移管が完了した。
ただし、家族券については第百四日の議決通り、第百九十五日までは既存の寄託金から支払われ続ける。
ルカは続けて、家族券の切替後は市の四十銀貨に商人側の二十銀貨を合わせること、今回決まった公費は年度末までの上限であり、次年度は再審議が必要だと確認した。
アデライドは、自分が新しい寄託金――すなわち追加の自己資金――を出さなくても、四つの事業がそれぞれの規程と分担によって確かに動いていることを確認し、深く安堵の息を吐いた。
監査が一段落した時、ルカが少しだけ顔を曇らせて別の報告書を差し出した。
「ヴェルナー様。実は、暁星会の旧賛助会員の一人から、騎士団へ新たな寄付の申し出がありました」
アデライドはその名に聞き覚えがあった。以前、元夫オスカーが画策した「記念碑と名誉称号を対価とする基金統合案」に署名していた有力者の一人だ。オスカーの企みが潰えた後、今度は単独で直接寄付を申し出てきたらしい。
「ただし、その申し出には条件が付けられていました。『寄付と引き換えに、自分が支援する特定の家庭への優先的な給付を確約せよ』というものです」
露骨な利益誘導だった。寄付を盾に、自分のお気に入りの者にだけ恩恵を与えさせ、影響力を誇示しようという浅ましい企みだ。
「市の寄託審査担当とレイモン団長は、すでにこの申し出を正式に辞退いたしました」
ルカの言葉に、アデライドは目を見張った。
「……辞退したのですね」
「当然です。特定の家庭への優先給付は、現在の『市の家族相談員が必要度を審査し、医務長が療養の事実を確認する分業規程』に真っ向から違反します。いくら大金であっても、規程を曲げて受諾することはできません」
アデライドには、他人の寄付の受諾や辞退を決める権限などない。彼女が口を出さなくても、そして彼女の財布に頼らなくても、制度が自ら原則を守り、悪意ある寄付を弾き返したのである。
その確かな事実を受け、アデライドはルカに一つの決断を伝えた。
「ルカ書記。私は、本年度の不足補填を目的とした新規の追加寄託契約を、これ以上は結びません。新たな事業への使途指定の申し出も行いません」
ルカは羽ペンを止め、静かにアデライドを見た。
「それは、後援者としての席を空ける、ということですか」
「ええ。すでに指定した家族券などの未執行枠は契約通りに維持しますし、会計監査の閲覧権も残します。ですが、私が新たに資金を出し続けることはしません」
口にしてみると、少しだけ胸が頼りなくなった。それでもアデライドは、申し出を取り消さなかった。
「役に立たなければ愛されない」という恐れを手放し、後援者の席を空けることで、彼女はこの事業を本当の意味で社会のものとして手渡したのである。
市庁舎を出ると、帰り道にはダリオが迎えに来ていた。
二人は初秋の並木道を並んで歩いた。今日は予算の書類を開く用事もない。今日の寄付辞退の件も、アデライドから彼にわざわざ共有することはなかった。ただ、涼しくなった天気のことや、夕食の献立といった、穏やかな日常の会話だけが交わされた。
ふと、道の向こうから歩いてくる二人連れとすれ違った。療養隊員ベルンの妻リナと、七歳になる娘のオルタだった。
オルタはダリオとアデライドを見つけると、母親の手を引いて少しだけ立ち止まり、不安そうにアデライドを見上げて尋ねた。
「あのね……次の雨の日も、みんなで歩ける? 今日、直す人が来てたの。お母さんが、今度から町のお金で直すって」
オルタの目が、アデライドの返事を待っていた。
その小さな問いに、以前のアデライドなら「私が永遠にお金を出し続けるから、ずっと安全よ」と、無責任な全能の約束をしてしまっていたかもしれない。
だが、今の彼女は少しだけ身を屈め、オルタの目を見て優しく、けれど正直に答えた。
「直す人がいなくなるわけではないのよ。今日はどこを直していたのか、今度会う時までに聞いておくわね」
アデライドは、お金ではなく、現場で働く人々の存在を直接伝える約束をして微笑んだ。オルタは不思議そうな顔をしながらも、「うん」と頷いて母親と歩み去っていった。
自分の金より大切な、続くための約束。それを見届けたダリオが、アデライドの隣でそっと微笑んでいた。




