第26話 財布を閉じる、私の番
第百二十日。王都の裏通りにある小さな食堂の扉を開けると、香ばしく肉を焼く匂いと温かな湯気が、ふわりとアデライドの顔を包み込んだ。
そこは、先日元夫と完全に決別してきたアデライドを労うため、ダリオが自ら選んで案内してくれた店だった。
店内はこぢんまりとしているが、隅々まで磨き上げられており清潔感がある。客層は近所の職人や下級の文官たちが中心で、貴族が好むような豪華な調度品も、見栄を張るための過剰な装飾も一切ない。
ダリオは、月九十銀貨という副隊長の給金の中で、無理に背伸びをして高級店を予約するような真似はしなかった。彼が自分の足で探し、自分の稼ぎで美味しく食べられる店に、恋人となった彼女を招いたのだ。
「ここは、煮込み料理が美味いんです」
向かいの席に座るダリオが、少し照れたように勧めてくれた料理は、確かに絶品だった。
アデライドは温かい料理を味わいながら、肩の力がすっかり抜けていくのを感じていた。高価なドレスを着飾って愛想笑いを浮かべる必要もなく、会合の費用を計算する必要もない。ただ目の前の青年と、美味しい食事の時間を共有する。それがどれほど贅沢なことか、彼女は深く噛み締めていた。
やがて食事が終わりに近づき、空になった皿を下げた店員が、小さな勘定書をテーブルの端に裏返して置いた。
その瞬間だった。アデライドの手が、長年染み付いた反射的な「癖」で、無意識に手元の鞄――自分の財布へと伸びかけた。
彼女は九年間の結婚生活で、常に「お金を払う」ことで波風を立てまいとしてきた。自分がお金を出せば、物事は円滑に進む。役に立つ人間であれば、自分の居場所は守られる。
ダリオの給金は九十銀貨。アデライドが持つ工房の月純益七百二十銀貨や、一万銀貨を超える別財預金に比べれば、決して多くはない。「私が払った方が彼に負担をかけない」という合理的な思考が頭をよぎる。
だが、その合理性の裏に隠れていたのは、七歳年上の女としての、根深い恐怖だった。
お金を出さない私に、価値はあるのだろうか。役に立たなければ、いつか見捨てられるのではないか。元夫から向けられ続けた、自分を単なる資金源として値踏みする冷たい視線が、フラッシュバックのように蘇る。
「……私の財産が、もしなくなったら」
鞄に手をかけたまま、アデライドは思わずそんな言葉を口走っていた。少しだけ顔が強張り、不安げな視線がダリオへ向かう。
ダリオは、アデライドの鞄へ伸びかけた手の上に、そっと自分の手を重ねて押し留めた。
そして、テーブルの端にあった勘定書を、静かに自分の手元へと引き寄せた。
「もし、あなたの財産がなくなったら」
彼は、彼女の不安な問いを真っ直ぐに受け止めた。「あなたの工房が傾くはずがない」といった無責任な慰めや、「俺の給金であなたの元の生活をすべて保証する」といった現実離れした見栄は口にしない。
「その時は、俺の給金で二人が腹いっぱい食べられる店を、今から一軒ずつ覚えます。まず、ここがその一軒目です」
ダリオは落ち着いた声でそう言うと、自らの財布から銀貨を取り出し、二人分の食事代として店員に渡した。
彼女の将来の富や仕事の成功を無根拠に保証するのではなく、もし財産がなくなった時には、自分の稼ぎの範囲で一緒に工夫して生きていく。それが、彼の示した具体的な生活の意志だった。
ダリオが自分の給金から銀貨を支払い、店員から受け取った釣り銭を財布に仕舞う。そのごく当たり前の動作が、アデライドにとってはどんな愛の言葉よりも力強い証明だった。
お金を払わなくても、自分はここにいていいのだと。
アデライドは、鞄にかけていた手をそっと下ろし、自分の財布を閉じた。
彼に奢られること。相手の申し出を素直に受け取ること。それは「払う役割」に依存してきた彼女にとって、少しだけ勇気の要る行動だったが、今は不思議と心が軽かった。
「……ありがとう、ダリオ」
アデライドは、ここで初めて、彼への敬称を外して名前を呼んだ。
第七十六日の夜、告白を受けたあの時から、ダリオは私的な場では彼女を「アデライド」と呼ぶようになっていた。彼女がそれにようやく応え、七歳の年齢差に対する見えない壁を、自らの言葉で取り払った瞬間だった。
ダリオは自分の名前を呼ばれたことに少しだけ目を見張り、それから嬉しそうに口元を綻ばせた。
店を出て、星が瞬き始めた夜道を歩きながら、アデライドは隣を歩く彼に微笑みかけた。
「次は私も、あなたの選んだ一日を知りたいわ。お金をかけなくても楽しめる場所を、教えてくれる?」
「ええ、もちろん」
お金を払わないことが、二人の関係における何よりの信頼の証になっていた。また不安になる日はあるかもしれない。それでも、そのたびに一人で財布を開く前に、彼と話してみようと思えた。
財布を閉じた時の心細さと、その後の温かさを、アデライドはまだ覚えていた。公的な場でも、自分の支払いを終える日が近づいている。
第百二十六日、市の新会計年度開始に伴う、寄託基金の運用引き継ぎの日は、もう目前に迫っていた。




