第25話 愛人の席は、もう私の勘定ではありません
第百十二日。アデライドは、元夫オスカーと約束した喫茶店へと、王都の通りを歩いていた。
工房の注文更新は、保留期間を経て納品の検品に合格し、無事に済んでいた。マルタたちに余計な手間をかけたことは消えない。それでも、噂を聞くたびに元夫の顔色を窺う必要は、もうなかった。
活気ある市場を通り抜けようとした時、不意に横から控えめな声で呼び止められた。
「……奥様。いえ、ヴェルナー様」
振り返ると、そこには買い物籠を提げた中年の女性が立っていた。彼女は、かつてアデライドが切り盛りしていた旧伯爵邸の、現役の下働きの一人だった。
女性はアデライドの健康そうな顔つきを見てほっとしたように微笑むと、誰に聞かれたわけでもないのに、自発的に語り始めた。
「あの日……旦那様が、私たちの肉の仕入れを減らすと仰ったと聞いて、これからどうなることかと不安でいっぱいでした。でも、あの後も、私たちの食事は減らされませんでした」
彼女は深く頭を下げた。
「ヴェルナー様が、私たちを守るために戦ってくださったのだと、皆で話しております。本当に、ありがとうございました」
アデライドは静かに首を振った。
「食事が変わらずに済んで、よかった。本当に。知らせてくれてありがとう」
アデライドは、彼女から伯爵家の現在の家計状況や、他の使用人たちがどう扱われているかなど、それ以上の内情を尋ねることはしなかった。ただ、彼女本人が経験した「食卓の肉が削られなかった」という事実だけを、確かな証言として受け止めた。
オスカーによるあの削減指示は、第二十八日の調停において、彼自身の手によって撤回され、記録に残された。そして今日、当事者の口から未実施の一端が証明されたのだ。
屋敷の家計全体がどうなったのかは知らない。だが、自分が穴埋めを続けなくても、この人の食卓は削られずに済んだ。その一つのことに、アデライドはようやく息をつけた。
市場を抜け、指定された王都の格式ある喫茶店に着くと、そこには苛立った様子で卓を叩くオスカーの姿があった。
暁星会の公示に、名誉理事候補として彼の名はなかった。会合も縮小していると耳にしていたが、目の前のオスカーは、以前と同じように椅子を引かずに彼女を待っていた。
「顔色は、悪くないようだな」
席に着くと、オスカーは珍しく先に茶を勧めた。
「ミレイユは、もう会には来ない。先のない約束ばかりだと言われたよ。……君を不愉快にしたことは分かっている」
アデライドはカップに手を伸ばさず、続きを待った。
「会合も減らした。以前と同じだけ払えとは言わない。君が屋敷に戻れば、帳簿も社交も立て直せる。あの騎士との噂も、私から収めてやれる」
「戻る、というのは?」
「もう一度、夫婦としてだ。若い騎士に、いつまで金を払う気だ。私と君なら、元の生活に戻れる」
茶を勧めてくれた理由が、少しだけ分かった気がした。彼が戻したい暮らしには、やはり彼女が支払う席がある。
アデライドは、冷め切った目でかつての夫を見据えた。
「彼個人には、一銀貨も払っていません。私が払っているのは、市と騎士団の規程に基づき、厳格に検収された事業費です。そして……あなたの社交費も、もう二度と払いません」
「なんだと……!」
「愛人の歓迎会の席も、あなた自身の見栄も、もう私の勘定ではないのです。共有家具の精算は代理人に任せてありますから、以後、私に直接連絡をしてこないでください」
明確に線を引かれたオスカーは激昂して立ち上がりかけたが、周囲には多くの客がおり、体面を気にする彼は手出しができなかった。アデライドは、彼の反省や後悔の世話まで請け負う義務はないと、冷徹に決別を言い渡し、その場を後にした。
面会を終えたその足で、アデライドは少し離れた広場で待ち合わせていたダリオと合流した。
「……終わりました」
アデライドは、元夫と面会した事実と、復縁を断り完全に決別したことだけを簡潔に報告した。そこまで話すと、張り詰めていた気が抜けた。今日はもう、詳しく振り返りたくなかった。
「そうですか。……終わったのですね」
ダリオもそれ以上深くは詮索しなかった。オスカーが流した噂の件についても何も言わず、ただ彼女の毅然とした決断を尊重し、静かに頷いた。
「次の休みは八日後です。今度は、俺が店を選びました」
彼は少し誇らしげに、しかしどこか緊張した面持ちでそう言った。
約束したのは、彼の給金で賄える、王都の小さな食堂だった。今日は広場を少し歩いて、それぞれの家へ帰る。
過去の呪縛を完全に切り捨て、新しい関係の実証へと向かう二人の足取りは、どこまでも軽く、確かなものだった。




