第24話 私の名前が消えても、続くように
第百四日。王都の市庁舎に設けられた円形の議場では、第百二十六日から始まる市の新会計年度に向けた、公開評議会が開かれていた。
重厚な木の机が並ぶ中、寄託監督書記のルカと、福祉費予算委員のサビーヌ・ヘルトが、十二会期(第四百八十五日まで)に関する公費移管案を議場へ提出していた。
「……以上のように、回廊の保守に八銀貨、衛生釜の保守に十二銀貨。家族券の補助に四十銀貨、復職準備班の技能移行費に六十銀貨。毎会期の上限を百二十銀貨とし、施設保全枠および既存福祉移行枠からの付替えによって対応いたします」
ルカが事業別検収と支出上限を淡々と読み上げる。
アデライドは寄託者として、議場の一角に用意された席に座っていた。騎士団の説明席にはシモンと文官がいる。ダリオは休日を使って傍聴席へ来ていたが、事業の説明や答弁には加わらなかった。
ルカの説明が終わり、質疑応答の時間が始まると、一部の議員から待ってましたとばかりに反発の声が上がった。
「異議がある! 市の税を継続的に投じる以上、その支援の真価は実名で証明されるべきだ」
年配の議員が立ち上がり、声を張り上げた。
「どの家族が恩恵を受けているのか。復職班で働く負傷者本人の名簿を公開し、この場に登壇させて感謝を述べさせるべきだ。市民の税を使うのだから、相応の成果を見せてもらわねば納得できない」
架空の支給ではないと確かめたいのかもしれない。だが、名簿の公開と感謝の言葉まで求める必要がどこにあるのか。アデライドは膝の上で手を握った。
さらに別の議員が同調するように立ち上がった。
「そもそもこの事業は、そちらに座っておられる裕福な寄付者の自己資金から始まったことではないか。市の財源を圧迫してまで引き継ぐ必要はない。彼女がそのまま、永久に自己資金で負担し続ければよいのだ」
予算の事前協議を終えた夜、アデライド自身がダリオに洩らした「私が払い続ければ」という甘い誘惑。それが今、無責任な他者の口から、もっともらしい正論の皮を被って突きつけられたのだ。
議長から見解を求められたアデライドは、静かに立ち上がった。
感情的になって議員を非難することはしない。彼女は手元の資料を置き、議場全体を見渡して、はっきりと告げた。
「個人資料を私からお出しすることはできません。会計は原簿の管理者と監査担当が照合しています。公表できる検収と運用の記録で、ご判断いただけないでしょうか」
アデライドの声は凛として響いた。
「また、私はあくまで期限と上限を定めて資金を提供した寄託者であり、無期限の資金の穴埋めを負う立場にはありません。必要なのは、誰か一人の金に依存する仕組みではなく、公的な責任のもとに回る制度のはずです」
個人の悲劇を消費させず、自らも「金を出し続ける役割」を断固として降りる。彼女の毅然とした態度に続き、サビーヌが予算委員としての見解を述べた。
「ヴェルナー様の仰る通りです。これは美談への対価ではなく、市と騎士団の協定に基づく必要な保守と技能移行の負担に過ぎません。会計の上限は毎会期百二十銀貨と明確であり、特定の寄付者の私財に依存し続けることは、行政の怠慢でしかありません」
サビーヌは、施設の利用状況と医務長の運用報告を示した。支払額だけではなく、設備が使われ続けているか、作業の負荷をどう調整したかも、個人を特定しない形で説明されている。
「年度内の上限を定め、途中でも点検する案です。来年度以降を保証するものではありません」
なお反対する議員はいた。それでも、期限と検証条件を確認して賛成に回る声が、議場のあちこちから上がった。
議会は多数決に持ち込まれた。
結果として、毎会期上限百二十銀貨の市費枠は、正式に可決された。
ただし、運用には厳密な条件が付与された。第百二十六日から第百九十五日の間は、すでに契約済みの寄託金から家族券の費用が支払われるため、その期間における市費四十銀貨の枠は執行しない。第百九十六日からの残余期間についてのみ、必要額を按分して負担するというものである。
満額の予算をただ垂れ流すのではなく、実需に合わせた誠実な採決だった。
実名を晒さずとも、そして一人の裕福な後援者に依存せずとも、市と商人、運送組合が責任を分担する仕組みが、ついに公的な議場において認められたのである。
議会が終わり、夕暮れの空に染まる王都の帰り道。
議場では傍聴席から見守っていたダリオが、今はアデライドの隣を歩いていた。
人目の少ない並木道に差し掛かった時、ダリオは言葉少なに、彼女の手を自身の大きな手でそっと包み込んだ。
「……あなたの名前が表から消えても、続く仕組みができましたね。もちろん、今日で永遠に安心とはいきませんが」
少しだけ低い、落ち着いた声。彼の手の確かな温もりが、緊張で冷えていた指先にゆっくりと染み込んでいく。アデライドは小さく頷き、彼の手を握り返した。
「ええ。あの時、一緒に考えてくれたおかげで、私も待つことを選べました」
自分の金に頼らなくても誰かの日常が続くという事実が、どれほど彼女の心を軽くしたか。二人の間には、長く苦しい戦いを一つ乗り越えた、確かな安堵と信頼が漂っていた。
だが、その平穏な夜、借家に戻ったアデライドのもとに、一人の使いが訪れた。
受け取った封書には、見慣れた、しかし今はひどく遠く感じる男の筆跡があった。元夫、オスカー・ライネルからの手紙だった。
『家具の残余精算について、最後に顔を合わせて話したい。君がよければ、以前使っていた喫茶店で』
裁判で復讐の浪費という主張が退けられ、自らが仕掛けた基金統合の企みも潰えた彼からの、執念のような接触。
アデライドは微かに眉をひそめた。精算そのものは代理人の仕事だと返事をし、人目のある店で一度だけ話を聞くことにした。直接の呼び出しはこれで最後にしてほしい。その意思も、自分の言葉で伝えておきたかった。




