3. 100年の残響
詩織は狂ったように店を飛び出そうと、入り口の扉へと駆け寄った。
しかし、彼女が真鍮のドアノブに手をかけたその瞬間、世界がガラガラと音を立てて変質を始めた。
昼間のはずだった。店の外は、5月の明るい太陽が照らしているはずだった。
なのに――掴んだドアノブから視線を上げた詩織は、息を呑んで立ち尽くした。
扉の硝子の向こうに見える景色は、どこまでも昏い夜の闇だった。
それも、現代の街並みではない。舗装されていない泥の道路、点々と灯るガス灯の頼りない光、そして――丘の上に建つ、あの巨大な天体望遠鏡を備えた洋館のシルエット。
「いや……戻して、私の世界を戻して!」
詩織は狂ったように何度も扉を押し、硝子を激しく叩いたが、鍵はかかっていないはずなのに、扉は壁のようにびくとも動かなかった。
背後を振り返ると、古書店『三日月堂』の棚が、じわじわと形を変えていくのが見えた。
現代の文庫本や漫画、実用書が並んでいた棚は、またたく間に煤けたナラ材の重厚な本棚へと変貌し、そこには大正期の、あるいはそれ以前の分厚い医学書や天文学の書物がギッシリと詰め込まれていく。
ランプの温かみのある琥珀色の光は、一瞬にして、冷酷なまでに青白い、純度の高い月光へと置き換わった。
天井の天窓から、まるで実体を持った滝のように、大量の月光が店の中央へと降り注いでいる。
そして、何よりも詩織を絶望させたのは、嗅覚の反乱だった。
彼女自身の記憶にある、アパートの洗剤の匂いや、お気に入りのカフェの珈琲の香りは、完全に消滅していた。
代わりに、嗅いだこともない――けれど、狂おしいほどになじみ深い感覚が、津波のように鼻腔へと逆流してくる。
「私は……私は原島詩織。19歳。大学は、文学部で……」
詩織は必死に、自分をつなぎとめるための呪文を唱えた。
だが、その言葉を発するたびに、彼女の頭のなかで、対応する映像がパチパチと消去されていく。
自分が通っていた大学の校門の形が思い出せない。
自分が好きだった音楽のメロディが、どうしても脳内で再生できない。
代わりに、ショパンの『ノクターン』の、あの物憂げな旋律が、どこからともなく大音量で鳴り響き始める。
「違う。これは私の頭じゃない。遥、出ていって! 私のなかから出ていって!」
詩織は自分の頭を両手で激しく叩いた。
だが、その拒絶の叫びすらも、彼女の内側にある遥の意識にとっては、ただの些細な抵抗に過ぎなかった。
(すまない、詩織。だが、もうすぐ終わる。すべてが満ち、すべてが1つになる。そうすれば、もう誰も忘れることはない。誰も、失う苦しみに泣くことはないのだ)
頭のなかで、遥の声が信じられないほど穏やかに、そして深く響く。
それは悪意に満ちた侵略者の声ではなかった。
ただひたすらに、純粋で、孤独で、哀しい1人の男の、100年の祈りの声だった。
その純粋さゆえに、詩織の心は激しく揺さぶられ、拒絶の壁が内側から自壊していくのを感じていた。




