2. 月光の浸食
翌朝、詩織は一縷の望みをかけて、アルバイト先である『三日月堂』へと向かった。
もはや彼女のなかで、大学へ行くという選択肢は消えていた。
自分の名前、受講している講義の内容、友人の顔――それらの詩織としての記憶が、信じられないほどのスピードで消滅していたからだ。
今や彼女の頭のなかにあるのは、古書店の店主であるあの老人の存在と、この怪異の根源である『月の記憶』のことだけだった。
「店長……助けて、店長……」
祈るような思いで、細い路地の突き当たりにある店の扉を押し開ける。
しかし、店内に1歩足を踏み入れた瞬間、詩織は冷水を浴びせられたように立ち尽くした。
いつもなら、カウンターの奥で古いラジオを聴いているか、本の毛叩きをしているはずの老人の姿がなかった。
代わりに、店の床に、誰かが倒れ込んでいるのが見えた。
「店長!?」
詩織は駆け寄り、床に膝をついた。
倒れていたのは、やはり店主の老人だった。
彼の顔は恐ろしいほどに青白く、呼吸は浅く速い。
その瞳は濁り、天井の、ちょうど月光が差し込むであろう天窓の方向をじっと見つめたまま、焦点が合っていなかった。
「店長、しっかりしてください! 今、救急車を――」
詩織がスマートフォンを取り出そうとしたとき、老人の、骨と皮ばかりになった細い手が、蜘蛛の脚のような素早さで詩織の手首を掴んだ。
その力は、瀕死の老人とは思えないほどに強靭だった。
「……逃げ……ろ……」
老人の乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
「店長?」
「器が……完成する……。月が……満ちる夜に……すべてが……還る……」
老人のうわごとのような言葉。その瞬間、詩織の脳内に、雷が落ちたような衝撃とともに1つの真実が流れ込んできた。
老人の掴む手を通じて、彼の記憶の断片が、詩織のなかへ直接なだれ込んできたのだ。
――それは、この老人の父親の記憶。
老人の父親は、かつてあの洋館の主――遥の実験に巻き込まれ、大切な記憶を奪われた1人だったのだ。
(――ああ、そうだったんだ)
脳内に溢れる光景のなかで、詩織はすとんと腑に落ちるように、その仕組みを理解していた。
かつてこの街で起きた月隠しの成れの果て、店長の父親をはじめ、あの光を浴びて心を白紙にされてしまった人たちは全員、世界から溢れ出す記憶の濁流に耐えきれなかったのだ。
人間の脳では受け止めきれない膨大な記憶の圧力によって、自分自身の思い出をすべて押し流されてしまった――それが、適合できなかった人たちの姿だった。
けれど、詩織に起きている異変は違った。
あの倉庫でノートを見つけ、深夜の部屋で溢れるような月光を浴びたあの日から、彼女は確実に狂い始めていた。
記憶を失って終わるのではなく、逆に自分のものではない、あの遥の記憶のすべてが体内に流れ込み、身体まで乗っ取られ始めている――本物の器として。
(――店長が、30年間ずっと恐れていたのは、この街に満ちる月の力だったんだ)
その事実と同時に、店長がこの古書店を立ち上げた本当の理由が、詩織の胸に深く突き刺さる。
だからこそ老人は、父親から聞かされたあの月光変質の恐怖を胸に抱き、二度と誰の目にも触れぬよう、隔離するための檻としてこの『三日月堂』を立ち上げたのだ。
30年前、あの洋館の遺族から一括処分されかけていた遥の遺品――かつて怪異に魅せられ、狂っていった者たちの雑多な記録をすべて引き取り、古地図や百科事典と一緒に、木箱の底に厳重に仕舞い込んだ。
――けれど、30年という歳月は、あまりにも残酷だった。
何より恐ろしいのは、あのノートの性質だった。
遥が書き残したあの日記は、本物の器である詩織の目にしか映らない。
店長をはじめとする一般人の目には、それがただの、何も書かれていない古い白紙の雑記帳にしか見えなかったのだ。
父親から聞かされた月光変質の恐怖が、決して忘れられない呪いのように老人の脳裏に焼き付いていたとしても、ただの白紙にしか見えないノートが、まさかその怪異の引き金になろうとは思いも寄らなかったのだろう。
何ひとつ脅威を感じさせないそのノートは、古地図や百科事典とともに、木箱の底へと無造作に仕舞い込まれた。
――けれど、だからこそ、それは最も残酷な綻びとなった。
店長にとっては、ただの取るに足らない古い白紙のノート。
だからこそ、老いとともに衰えゆく脳裏へ、この街に満ちる月光変質の力がじわじわと忍び寄ってきたとき、そんなどうでもいい日常の記憶から真っ先に、容赦なく白紙へと塗り替えられていってしまったのだ。
人間の脳では受け止めきれない膨大な記憶の濁流に、ただの古い処分品を仕舞ったという些細な記録だけが、最初に押し流され、完全に消し去られてしまった。
あの中に恐るべき因縁が眠っているとは夢にも思わず、怪異と老いの狭間で中身の記憶を白紙にされた箱に変えられてしまったからこそ、店長はあの夜、詩織に中身のリストアップを頼んでしまったのだ。
店長が詩織を呼んだのではない。彼女が本物の器だからこそ、満ちていく月が彼女をじっと見つめ返し、あの倉庫の、あの木箱の底へと手招きしたのだ。
あのランプの炎が揺れた夜から、日常の糸はすべて解れ始めていた。
「店長、あなたもずっと月の影に、人生を縛られていたんですね……」
自分と同じように、あの100年前の怪異に人生を囚われ、必死に守り続けた果てに、老いという綻びから因縁を開いてしまった老人の切なさに、詩織は震える声を絞り出した。
老人はただ、彼女の顔をじっと見つめ返した。
それが、彼が人間として保てた、最後の瞬間だった。
「……」
次の瞬間、老人の瞳から急速に光が失われていった。
さっきまでの怯えも、苦しみも、すべてが嘘のように消えていく。最後には、あまりにも平穏で、あまりにも空虚な白紙の表情へと変わっていった。
「……だれ……あんた……は……」
老人の口から漏れたのは、詩織への拒絶ではなく、完全な忘却の言葉だった。
彼は、目の前にいる詩織のことも、自分がなぜここで倒れているのかも、そして自分自身の名前さえも、今この瞬間にすべて失ってしまったのだ。
「あ、あぁ……」
詩織は老人の手を振り払い、後ずさりした。
老人は倒れたまま、ただ満足そうに微かに微笑み、そのまま深い眠り――あるいは昏睡状態へと落ちていった。
月の力は、すでにこの店をも完全に侵食していた。
老人の記憶をすべて吸い上げ、抜け殻にしてしまったのだ。そして、次にその爪牙が向く先が誰であるかは、言うまでもなかった。




