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第4章白紙の器、月光の果て  作者: 都桜ゆう


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1. インクに塗れた右手

 その夜、詩織の意識は完全に2つの世界へと引き裂かれていた。


 目が覚めているのか、それとも眠っているのかの区別すらつかない。ただ、視界のすべてが異常なほどの鮮明さを持って彼女の脳を揺さぶっていた。


 詩織――あるいは彼女のなかに深く沈み込んだ遥の視界――は、果てしない白銀の世界を歩いていた。


 足の下にあるのは、砂だった。けれどそれは地球のどこかにある海辺の砂ではなく、まるで極小の硝子の結晶を敷き詰めたかのように、踏みしめるたびに「サク……サク……」と冷たく硬い音を立てる白い砂の海だ。


 見上げれば、漆黒の宇宙が広がっている。

 そこには星の瞬きすらなく、ただ見たこともないほど巨大で、青黒く煤けた地球が、世界の天井にへばりつくようにして静止していた。


「……小夜……」


 詩織の唇から、その名前がこぼれ落ちる。

 胸を締め付けるのは、凍りつくような孤独と、狂おしいほどの情熱だ。


 風もないのに、足元からは銀色の草がサワサワと音を立てて波打っている。その草の葉の1枚1枚が、月の光を反射する極小のレンズのように機能し、地上のあらゆる時代、あらゆる場所の記憶を立体映像のように空間に映し出していた。


 ある葉には、泣きながら誰かに手紙を書く中世の兵士の姿。

 ある葉には、母に抱かれて眠る名前も知らない赤ん坊の笑顔。

 そしてある葉には――つい数日前まで、古書店で埃まみれの本を整理していた、詩織という少女の、ひどく退屈で、けれど愛おしい日常の断片。


「あぁ……私の、私の記憶が……」


 詩織は手を伸ばし、自分の記憶を映し出す銀色の草を掴もうとした。

 しかし、指先が触れた瞬間、その草はチリチリと青い炎を上げて燃え尽き、一握りの灰となって消えてしまった。


 代わりに、ドクドクと津波のように押し寄せてくるのは、遥という男の最後の執念だった。


(私は諦めない。すべてが月へと還り、忘却の彼方へ消え去るとしても、あの人との記憶だけは、この世界に繋ぎ止めてみせる)


 その強烈な思念が脳髄を直撃した瞬間、詩織は激しい目眩とともに、強制的に現実の世界へと引き戻された。


「はっ……! はぁ、はぁ、はぁ……!」


 ベッドの上に跳ね起きたとき、詩織の全身は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。


 時計を見る。午前3時。


 だが、目覚めてもなお、あの月の海の白い砂の感触が足の裏に生々しく残っている。

 夢の境界線が完全に融解し、現実の部屋の壁が、まるで透き通ったレースのように向こう側の闇を透かして見せているようだった。


 詩織はふらつく足取りで床に立ち、机の上に目をやった。

 そこには、あの濃紺の布張りノート『月の記憶『』が開かれたまま置かれていた。


 驚くべきことに、読書灯もつけていない暗闇のなかで、ノートのページが生き物のようにペラリ……ペラリ……と自然にめくれていく。


 窓から差し込む、満月の暴力的なまでの青白い光。その光の粒子が、ノートの紙面に吸い込まれていくのが肉眼で見えた。


 詩織が引き寄せられるようにノートを覗き込むと、その文字は、彼女の目の前でリアルタイムで書き換えられていた。


 インクの虫たちが、ページの上で狂ったようにのたうち回りながら文字を紡いでいく――そのおぞましい光景を凝視していた彼女は、次の瞬間、心臓が停止するほどの恐怖に襲われた。


 うごめく黒いインクの群れ。その中心で、がちがちと音を立てて万年筆を握りしめ、人間業とは思えない速さでペン先を躍らせている手がある。


 ――他ならぬ、詩織自身の右手だった。


 自分の意思ではない。けれど、自分の手が動いている。

 詩織は恐怖に駆られ、万年筆を床に投げ捨てた。カランと高い音が響き、静寂が戻る。だが、彼女の脳内に響く遥の思考を止めることはできなかった。


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