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透明な刃  作者: 椎名悟
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8章

県警本部通信指令室。


乾いた無線の音と、キーボードを叩く打鍵音が重なり合う。


「本部から千種中央各局。110番入電。17時35分。矢吹3の1の6、旧パチンコ店アクシス裏手にて、血だらけで倒れている男性がいる模様。至急現場へ向かえるPCは応答せよ」


「千種中央2、現着まで3分」


「了解。緊急走行を許可する。通報者は中学生、西川。現場到着後、接触せよ。合わせて現場保存に努めよ。整理番号62。以上」


「現場到着後、通報者と接触。現場保存了解。千種中央2」


そのパチンコ店は半年前に閉店し、廃墟同然となっていた。通報してきた中学生たちによると、昨日の夕方までは、ここでたむろしていたという。


足元に散らばる大量の吸い殻や空き缶を眺めながら、鑑識は骨が折れるだろうなと同情した。


待ち伏せか、連れ込みか。一面に散らばるゴミの中に犯人の遺留品が混ざっている可能性は捨てきれない。我々はその全てを回収し、ゴミと証拠を1つずつ選別するしかないのだ。


「真田さん、上着の内ポケットに財布と名刺入れが残っています」


 俺は部下が差し出した免許証を確認する。


「池田雄一、32歳。自宅はここから10分かからないな」


捜査員を2人選んで、自宅に向かわせる。


「千種信用金庫、本店勤務か。この年で課長とは、相当のやり手だな」


「今川、2人選んで本店だ。裏を取ってこさせろ」


「わかりました」


池田の生年月日、免許証番号を頼りに照会センターに問い合わせる。


前科はなし。


ただし、行方不明者届が出ていた。昨夜、妻の名前で出されている。だが、よほどの事件性がない限り、大人の家出で警察が即座に本格的な捜索をすることはない。ましてや、こんなエアポケットのような死角では、発見までに丸1日かかったのも頷ける。


犯人の目撃情報はおろか、叫び声や争う音も聞こえていなかった可能性が高い。


家庭と職場、両方の情報を合わせれば、被害者の足取りを追える。だが、それ以上に欲しい情報は職場での人間関係、特に恨みの線を確認する必要がある。関係者は、容疑が晴れるまで全員が重要参考人だ。家族も例外ではない。


今のところ、明確な犯人像は結べていない。予断を持って捜査に当たるのは危険だ。もっともらしい筋書きに飛びつくと、そこから外れる重要な証拠を見落とすことになる。


現場のコンクリートの上には、有効な足跡は残されていなかった。そこにはただ、被害者の乾いた血溜まりと雑多なゴミが散らかっているだけだ。


今川を呼んで、次の指示を出す。


「では僕が左側、真田さんが右側を歩いて、監視カメラが道路に向いていたら任意での提供依頼ということですね」


「そうだ。快く協力してくれるに越したことはないが、無理強いはするなよ」


今川はなぜ二手にわかれるのか、いちいち聞いたりしない。


歩道が設置されていれば、歩行者は右を歩いても左を歩いてもいい。歩道のない道路では右側通行が原則だ。だが現実には、歩行者は好き勝手に左側も歩くし、白線を越えて車道を歩くことすらある。


我々警察官でもいちいち咎めたりしないが、事故に遭ったときは話が別だ。保険会社は歩行者の違法行為があれば、きっちりと過失相殺をかけてくる。法律を知らなかったは通用しない。


だから、被害者がどちら側を歩いていたかがわからない以上、我々は通りの両側で監視カメラを探し、あらゆる角度からの「歩き方」を検証する必要がある。


もし被害者が映っていなかったら、別の通りで同じ手順をすることになる。



取り調べ室の空気は常に冷たい。人が隠したいものを暴くのは、気分のいい仕事ではない。だが、どんなに可能性が薄く見えても、確かめて潰していかなければ真実には届かない。


「落ち着いて話してもらえますか?」


「はい……」


事件発生翌日には、田中美穂――池田の直属の部下にして、事件前日の夜にホテルで過ごした女性――を特定した。今、目を赤く腫らして俺の前に座っている。


「千種中央署刑事課の真田です。こちらは今川。まずはお名前の確認からさせてもらえますか?」


田中は明らかに怯えていて、会話が成立するまでに時間を要した。


「あの、これは取り調べですか? 私は容疑者なんですか?」


「いいえ、これは任意の事情聴取です。今すぐここを出て帰るとおっしゃるなら、我々には止める権利はありません」


彼女は視線を細かく動かして俺と今川を見た。本当に帰れるのか、帰った場合どうなるのかを計算しているのだろう。


「しかしその場合、この後おいでになる奥様に、あなたを知っているかと聞くことになります」


彼女は小さく息を呑み、赤い目で窓の外を睨むように見た。


「もう、ばれているのですね」


「何が、ですかな」


「私と課長が……その、そういう関係だということが」


「昨日の夜どこにいたか、裏を取るのも我々の仕事です。しかし、あなたが本件に無関係ならば、あえてあなたや故人の秘密を公にしたいとは考えていません」


彼女の信頼を勝ち取る必要はない。ただ、彼女が協力してくれれば手間が省けるというだけの話だ。


考えはまとまったようだ。彼女は真っ直ぐこちらを見据えた。


「何をお話しすればいいのですか?」


「まずは指紋と掌紋、DNAの採取、携帯電話の通信記録の任意開示に同意して欲しい。もちろん断ることも可能ですが」


「……わかりました。協力します。私も、早く犯人が捕まって欲しいから」


「では、こちらの書類にサインを」


彼女は震える手でペンを握った。白くなった指先を、無機質な照明が照らす。


不倫といっても2人の関係がどうだったか、他人にはわからない。


俺は、これまでに扱ってきた事件の経験から「体だけ」の関係というものは存在しないと考えている。世の中は、ゼロか100かではできていない。


ただ、その間に無数の濃淡があるだけだ。どこからが本気で、どこまでが遊びか、その境界線は当事者にも引けないことが多い。


田中美穂の事件前後のアリバイは立証できた。DNAも被害者の爪の間から採取した皮膚片とは不一致。さらにスマホの通信記録、サイトのアクセス履歴双方とも疑わしきものは出なかった。


殺害も殺害依頼もないと考えて間違いないだろう。不倫については、池田はうまく立ち回っていたということだ。約束通り、池田の妻には不倫の事実は伝えていない。


「真田さん、別の班から聞いたのですが被害者は家を新築したばかりで、ローンもだいぶ残っているそうです」


廊下に出たところで、今川が小声で言った。


「確か奥さんは専業主婦だったな」


「はい。これから子供と2人、どうして行くんでしょうね」


今川のこの優しさは嫌いじゃなかった。この優しさが救う人々もいるはずだ。だが、刑事には邪魔になることもある。


「それは我々の仕事ではない」


池田があんな場所にいた理由も、殺された理由も全く見当がつかなかった。被害者家族にしてやれることは、同情することではない。怒りや焦りを抑え、事実をひとつずつ積み上げて犯人を挙げることだけだ。


 

会議室に戻ると室内はざわついていた。任意で提出してもらった防犯カメラの映像データから、池田が映ったものを入手したらしい。


駅前の交差点を渡って少し行ったところのハンバーガーショップ、そこから50メートルほど進んだ銀行の玄関、その先の交差点を左に曲がった直後の民家の玄関。


しかし、問題はそこではない。池田の後ろ5メートルほど、一定の間隔を開けて歩く人物が映り込んでいた。


帽子を目深にかぶり、ナップサックを背負った男。


直接犯行に繋がる情報ではないが、現場周辺で目撃情報が得られていない以上、この男を追ってみる価値は大いにあった。カメラの設置角度と画質の問題から人相までは判別できないが、拡大した画像を持って明日からの聞き込みに役立てるしかない。


目撃情報は大概があやふやで、見間違いや記憶違いであることがほとんどだ。事件や事故が起きるまで、周囲にいる人々は単なる風景でしかなく、それを詳細に記憶している人はいない。「そういえば」で始まる目撃証言を盲信するのは危険だ。


まだ、捜査は始まったばかりだった。犯人逮捕まで、この重い空気が振り払われることはないだろう。


俺は今川を連れて、休憩コーナーに向かった。今すぐにやれることはない。缶コーヒーでも飲んで脳を切り替えるのも、大事な仕事だ。


「真田、どうした。休憩か」


「ああ、例のパチンコ店の事件、少し進展があった」


「そうか、それはよかったな。俺は刑事課長からの呼び出しでこれから行くところだ。今回はどんな無理難題を押し付けられるか」


「すまんな。俺もすぐに戻る」


山崎を見送り、ふと見やった窓の外では、すっかり葉桜となった枝が風に揺れていた。



刑事課の会議室に入ると、ホワイトボードには重要参考人の顔写真とその情報が何枚も貼られている。真田の事件だ。当日は交通課にも応援要請があり、現場周辺の道路規制を行ったからだ。


その参考人の中にあった、監視カメラの荒い画像の男。――それを見た瞬間、胸の奥でなにかが弾けたような衝撃が走った。


「これは……」


何かの間違いではないか。あの日応接室で私の前に座っていた、佐伯さんのように見える。


課長の用事は、そのプリントを交通課員に配ることだった。


「安全指導で交差点に立つ際に、似たような男を見かけたら教えてほしい。山崎警部補から交通課に指示を頼む」


「……了解しました」


震えそうになる声を呑み込み、私は早々に自分のデスクに戻った。


自分のIDとパスワードを入力し、業務日報のフォルダを開く。


もし……。もしも、本当に佐伯さんなのだとしたら。どうして今になってあの動画を見つけてしまったのか、しかもあれは元データではないのに……。


3年前のあの日、石橋を検察送致したあとの午後に、対向車から撮影したという動画は警察に持ち込まれた。


交通課内でざっと見たのち、検察も交えて証拠採用について協議が持たれた。結果は不採用。現場の状況と、第1通報者の女性を含めた数人の目撃情報で、公判維持は可能だった。当然、石橋の供述も過失運転致死罪を構成するに足ると判断されたからだ。


翌日、事故を記録したチップは撮影者に返却され、手続きは滞りなく終わっていた。証拠として採用されなかった以上、それ以上警察が関与できる根拠はなかった。


そのはずだった。


記憶を頼りに目的の日付を探し出し、佐伯辰雄の訪問記録と、その理由が書かれた部分を見つけ出した。


あの日のやり取りが、鮮明に蘇る。


『我々が守るのは正義ではありません。法なのです』私はそう言って彼を追い返した。もし彼が犯人なら、そのきっかけを作ったのは私だ。


そしてその記録は、必ず掘り起こされる。その時、問題になるのは佐伯ではない。警察の対応だ。組織も、そして自分も、無傷では済まない。この記録が残っていれば、いずれ必ず関連性が疑われる。


そうしないといけないような気がした。意を決して、私は削除キーを押した。

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