4章
3件目の事件を受けて、県警は千種中央署に大規模な特別捜査本部を設置した。
『千種市南部連続通り魔事件特別捜査本部』
縦長の紙に、達筆とは呼べないが、1文字1文字がはっきりと墨書されていた。これはさぞニュース映えするだろうと思うとともに、県警がつけた事件名称に僅かな不安を覚えた。
会議室に入ると、その場の空気は文字通り張り詰めていた。中央には県警本部の刑事部長、その隣に署長が居心地悪そうに座る。
壁際には、県警本部の参事官や係長クラスの幹部がずらりと並び、普段この署では絶対見られない高位の階級章が光っている。
「同一犯による3件の殺人事件が発生し、容疑者の特定にも至らない現状を鑑み、一連の事件を特別捜査本部へと格上げする。捜査員諸君は、地域住民の安寧のため、ひいては警察の信頼確保と威信保持のため――引き続き努力を惜しまず捜査に当たって欲しい。まずは署長より事件概要を……」
俺は事件の詳細に耳を傾けたが、記憶している内容との差異はなかった。結局のところ、本部長が熱弁した「警察の威信保持」の一言こそが、全ての本音に凝縮されていた。
(まあ、それもそうだよな)
県警本部主導の特捜本部が設置されること自体が、10年に1度あるかないかという事態だ。なんで自分の時に、というのが県警本部の本音だろう。
朝には鑑識結果と方針が通達され、夕方には各班が報告する。この流れは変わらない。本部長の見立てでは、事件は愉快犯的側面も捨てきれないとして、広域で不審人物の割り出しを徹底するよう指示が出た。
さらに「念のため、周辺で小動物虐待などの前兆事案が起きていないか洗い直せ」というお達しだ。
「真田さん、やるんですか? あれ……本当に」
「やるさ。命令だからな」
「じゃあ、野良猫や野良犬の被害がないか、ですかね」
「おいおい、今どきそんなことが起きたらそれこそ大騒ぎでトップニュースになるだろう」
過去の他県の少年事件以来「小動物虐待=重大事件の前兆」という図式は、社会の常識になってしまった。特にマスコミは、犬や猫が殺されたと聞けば、決まり文句のように社会不安を煽り立てる。だから上層部も「形だけでも調べた」という実績を欲しがるのだ。
俺は今川に目で合図を送り、会議室を抜け出した。上層部の耳にこんな愚痴が入れば、余計な説教をされるだけだ。
今川と連れ立って刑事課へと向かう。本部の見立ては当初我々が想定し、現在も犯人に繋がらない捜査そのものだ。つまり我々は何かを間違えている。
そう考えながらドアを開けようとしたら、室内から、直通電話の着信音が響いた。
「失礼します」
そう言って今川が先に室内に走り込む。課内の人員はみな本部に駆り出されていた。
警察署や派出所、果ては他の官公庁へ出向している個人にも、警察電話という専用線を介した番号が振られている。
都道府県、所属、個別番号それぞれ3桁、9桁で構成されている。通常の電話番号と同様に同じ地域内なら上位の番号は省略可能で、例えば所轄内の派出所に電話する場合は個別番号の3桁だけで電話がかけられる。
内部では警電と呼ばれ、よく使う番号は暗記している。国民に解放されているのは110のみで、つまりは警察関係者からの着信だった。
「真田さん、山崎警部補です」
渡された受話器を耳に当てた。
「何だ?」
「ニュースを見た。3人目らしいな」
「こっちは忙しいんだ。実は犯人を知っているとかじゃなければ、次に会った時にしてくれ」
「……わかった。今度話す」
「ああ、じゃあ切るぞ」
ガランとした部屋に受話器を置いた音が響いた。
「山崎警部補、どんな用事でした?」
「わからん。それより、事件の話だ」
「はい」
「この事件の犯人は、愉快犯なんかじゃない」
「ですよね」
池田の事件で感じた違和感は、小西で補強され、加藤の件で確信に変わっていた。
自分の席に辿り着くと、椅子を半回転して座った。
「ああ。まず被害者は全員成人男性だ。もし“殺す”こと自体が目的なら、もっと抵抗が少ない対象を狙うはずだ」
「女性とか、高齢者とか、子供とか……」
「そうだな。そのうえ、この犯人は殺人を楽しんでいない。背後から一撃で仕留め、無駄な傷を作らない。苦しむ顔さえ見ていない可能性が高い」
被害者がめった刺しにされるケースは、怒りではなく恐怖――被害者の反撃を恐れて手数が増えるだけ、ということは多い。だが今回は真逆だ。必要最低限の殺傷。迷いのなさ。ブレのなさ。
「目的は殺しそのものじゃない。3人は、犯人にしか見えない糸で繋がっている」
「黄色い看板……事故現場ですね」
「そうだ。人間関係に接点が見えない以上、あの看板の意味と、被害者たちがそこを渡った事実を無視するわけにはいかないだろう」
「じゃあ今日の聞き込みは、その現場ですか?」
「いや、まずは交通課だ」
今川の返事を待たずに歩き始める。きっとそこに知るべき何かがある。
事故情報は警察のホームページでも調べられる。だが、あの使い勝手の悪い地図を前に、律儀に過去の事故を洗い出す市民は――皆無に近い。本来、生かせるはずの情報は誰の目にも触れることなく、眠り続けている。
そして、警察の交通課は一定期間の資料を保管しており、ホームページよりはるかに多くの情報をストックしている。
「あら、真田警部補。山崎警部補なら非番ですよ」
対応してくれた女性警察官が明るく答える。
「そうか……。ちょっと資料室使わせてもらえるかな」
「はい、許可があればいつでもどうぞ」
「今川がハンコをもらいに行ってるから、それを確認してから頼む」
「では確認できたらご案内します」
警察官だからといって、どこでも自由に立ち入れるわけではない。特に証拠や資料といったものは、USBメモリーへのコピーはできない。
また、作成、編集、閲覧の全てで、個人に割り振られたIDとパスワードが必要になる。
交通課で勤務した日々を思い出す。くる日もくる日も、事故の現場対応と、調書の作成ばかりだった。刑事課に配属されてからの方が、死者と向き合う回数は少なくなった。
「交通事故か……」
年間1000人に満たない殺人事件と比べれば、交通事故が生む不幸は桁違いだ。しかも、交通事故の加害者に科される刑罰は殺人よりも軽い。
故意か過失か——その区別は法の上では大きくとも、遺された家族にとっては何の慰めにもならない。ただニュースが流れるたび、失われた命の重さだけがこちらに突きつけられる。
俺がこうしている間にも、交通課員が現場に飛び出していき、事情聴取を終えたのだろうか、母親と子供が俯きながら署を出ていく。
交通事故の死者を限りなくゼロにする方法は1つしかない。車を一切走らせないことだ。しかしそれは社会を止めることを意味し、そこで生じる犠牲は交通事故をはるかに超える。
だから社会は、年間数千人の死を「避けられない痛み」として受け入れている。利便性と引き換えに。だがそれも「知らない誰か」の痛みであるから、許容されているに過ぎない。
交通課の若い巡査が、赤い誘導棒を携えて通り過ぎる。交通量の多い交差点に警察官が立っているだけで、人は無茶することをやめる。
死亡者数が最も多かった時代と比べれば、信号機は今や5倍だ。出会い頭の重大事故は確実に減り、数字としては成果が出ている。
だが結局のところ、信号を守るかどうかは、人間1人ひとりの判断の問題のままだ。信号が物理的に交通を遮断するものでない以上、止まるかどうかは車や自転車、歩行者の意志による。
腕時計を確かめた。もうじき10分といったところだった。県警のお歴々の相手は署長がしているはずなので、課長はすぐに捕まえられるはずだった。きっと今回も「やれ」とも「やるな」とも言われないはずだった。
本部方針に従わないわけではない。言われたことはやった上で、ついでに色々と調べて回るだけだ。今川を探しに行ったりはしない。何かあれば連絡してくるはずだと思った。また、考えをまとめることに集中した。
だから、信号を無視した歩行者が無事なのは、運転手が土壇場で避けているからにすぎない。そして運転手もまた、見落としもするし、無視もする。高齢になれば反応は鈍り、酒に酔えば判断も揺らぐ。その結果がどこに行き着くかは、想像に難くない。
社会は「守るべきルール」を整備しながら、その遵守を個人に丸投げしている。守られなかった結果として生じる死は、構造の影に吸い込まれてしまう。
「真田さん、お待たせしました。これです。それと、課長から伝言です。あまり目立ちすぎるな、とのことでした」
今川から書類を受け取り、ざっと目を通し、刑事課長のサインを確認する。それをさっきの女性警察官に渡し、資料室に向かう。
刑事事件の実況見分調書などは、捜査中は警察署内で保管し、検察に送致された後も、刑事確定訴訟記録法に則り、確定した刑の重さにより段階的に保存期間が決められている。
「今川、お前は『5年』の保存期間の中から探せ。俺は念の為に『10年』のものを探す」
今回は被害者が死亡しているので、過失運転致死罪が適用される。書類の保存期間は5年未満の懲役刑なら5年、それ以上なら10年だ。警察と検察が同じものを保存していて、検察のものは一審を担当した裁判所に対応する地方検察庁で保管される。裁判に係る資料は公開情報なので、手数料さえ払えば誰でも閲覧できる。
「真田さん、ありましたよ」
「よし、どんな感じだ?」
「えぇと、うわっ」
俺は今川の目線に合わせて覗き込む。
「被害者は小学5年生。佐伯優也。4トントラックによる轢過事故か」
「これは相当酷い事故でしょうね」
今川が顔をしかめる。
「だろうな。被疑者は石橋裕介38歳。懲役3年、執行猶予5年か」
「少し重めですね。たいていは1年か2年です」
「過失を重めにみたのか。執行猶予でバランスをとっているのかもしれない」
過失運転致死罪の法定刑は「7年以下の懲役・禁錮または100万円以下の罰金」と定められているが、飲酒などの悪質性がない場合、2年までが7割、3年以上は3割が相場だ。
「家族の聴取記録があるはずだ」
「ありますね。佐伯辰雄。人定によると須賀2丁目、事故現場からほど近い場所ですね」
「そりゃそうだ。この時間帯なら通学途中の事故だろう」
「何かを見つけたって顔ですね」
この事件の最も奇妙な点が浮かび上がった。
「ああ、だがわからないな。どうして加害者を狙わないんだ?」
交通事故被害者の遺族が最も恨むのは加害者だ。その次は、裁判制度そのものだ。なぜなら、より量刑の重い危険運転で起訴されることは稀だ。起訴状を書くのは検察だが、我々警察も巻き込まれて、批判の対象にされることもある。
3年以上の空白を経て、佐伯が突然動き出した理由があるはずだ。彼は何を見た。何を知った。そして、何故この3人だけが選ばれたのか。
「考えててもわからないものは本人に聞くしかない。住所は覚えたな」
「はい、バッチリです」
一連の事件の中心にある須賀駅は、3本の線が交わる郊外型のターミナル駅で、署からは1駅、約6キロの距離だ。
3本のホームに5本の線路が敷かれ、ホームから橋上駅へは、階段かエスカレーター、エレベーターのどれかを使うしかない。駅舎はホームの下り方向の端にあり、1号車部分に階段が、3号車部分にエスカレーターが設置されている。
エスカレーターは右側を空けて左側だけ長い列ができる。そこに並び、順番を待つ間に今川に話しかける。
「おい、ゲームをしないか?」
少し振り向いて今川が聞く。
「いいですね、どんなやつですか」
「お前がステップに乗った瞬間に隣のステップに来たやつが上に着いたら、時間を頭の中で測れ。お前が上に着いたらストップだ。俺は時計で測るからな」
「わかりました。景品は何ですか?」
「誤差プラスマイナス1秒ならお前の勝ち。缶コーヒー1本だ」
「乗りました」
階段は建築基準法の規定により一段の最大値が定められている。だが、エスカレーターにはそれがない。
歩くことを想定していないからだ。
条例によって歩行を禁じている自治体もあるが、罰則のない努力義務に近いので守る者はほぼいない。
「スタート」
今川がステップに乗った時に、隣を歩いて上がった若い女性が、階上に着いた瞬間に合図をした。
我々は立ち止まったまま、2階部分に到達する。
「何秒だ」
「16……いや、17秒でした」
「残念、19秒だ」
ロータリーを抜けて事故現場の交差点で信号を待つ。今川に目で合図をして、少し離れたところでスマホを見ている若い女に注意を向けさせる。
「さっきの女性ですね」
今川が小声で答える。ゲームの起点になった女だった。エスカレーターを歩いて危険を冒して稼いだ19秒は、今、この信号待ちであっけなく消費されてしまった。もちろん、そんな時間の感覚は露ほども持っていないだろうが。
「一体、何のために歩くのですかね」
「対象が金や物ならば、まさに『貧乏性』なんだが、時間の場合は何と言うのか俺も知らん」
彼女は移動全体にかかる時間を考慮していないからなのだろう。エスカレーターを歩いたり、信号を無視するよりも、移動の大部分を占める歩く速度を上げた方が、より安全で、より早く目的地に着けるはずだ。
ただ、なんとなくでしているなら、さらに愚かだった。合理を欠いたその判断が事故を生んでいる。間違いに気づくのは最後の瞬間で、すでに手遅れだ。
信号が青に変わり横断歩道を渡る。死亡事故発生現場の看板を見ながら、3人の自宅の場所と事件現場を頭に描き出す。3人の被害者は、なぜか全員この横断歩道を渡っている。だが、狙われた理由がわからない。
「あちらですね」
今川が北を指差して歩き出す。
「スマホのナビに頼るのも否定はしないが、目的地を確認する時は立ち止まれ」
「はい、心得ています」
佐伯辰雄は不在だった。いやそれは正しくない。彼が住んでいたであろう家はなくなり、更地になっていた。不動産会社の売地の看板が立っているだけだ。
「この不動産会社、メモしておきます。引っ越したんですね」
「そうだといいがな」
両隣は一戸建ての民家だ。右隣の家には政治家のポスターが貼ってある。迷わず、その家のインターフォンを押した。
「はい?」
警戒を含んだ女性の声。
「突然すいません。お隣の佐伯さんのことで、ちょっとお伺いしたいことがありまして。お時間ありますか?」
「ええ、ええ、今そちらに参ります」
「それは助かります。実は以前お世話になった者で……」
佐伯が3ヶ月ほど前にここを引き払って転居したことは、お隣の証言からわかった。特に挨拶もなかったそうだ。ただ、転居先についての情報は得られなかった。
「どうして古い知り合いだなんて言ったんですか」
今川が不思議そうに尋ねる。
「ポスターがあっただろう。あれは特定の宗教団体が支持母体の政治家だ。堂々と貼っているということは、熱心に活動しているということだ。他のコミュニティと比べてより密接な人間関係を築いている可能性が高い」
「そうなんですか?」
「毎日どこかで集まっているか、この家に集まるのかはわからんが、警察が聞き込みに来たという情報はあっという間に広まるだろう。現場も被害者の自宅も発表してるんだから、共通点を見つけてここに来るマスコミがいないとも限らない」
「それはまずいですね」
「ああ、用心するにこしたことはない。第一、手帳を見せたら何でもしゃべると思うな。相手が警察なら、後ろ暗いことがなくても身構えるものだからな」
佐伯に繋がる線は絶たれた。だが、転居先の情報を得るには、本部に報告を上げて照会をかけるしかない。それには佐伯を重要参考人として認めてもらう必要があるが、まだそこまでの確信はなかった。
「駅に戻るぞ。小西の会社に行く」
「小西と言えば2人目の被害者ですね」
「ああ、ちょっと調べたいことがあるんだ」
駅に向かって来た道を戻り出す。
佐伯辰雄という、事故被害者の遺族。確かな手触りはなかった。だが、それはとてもざらついていた。




