3章
昼のトップニュースは市内で起きた連続殺人事件一色だった。マスコミは警察発表を右から左へ流すだけで、独自の情報など欠片も持っていない。
殺されたのは加藤という男らしい、それがシンジの名前なのだろう。記者は近所に評判を聞いて回っていた。
「あんないい人が」
「いつもにこやかに挨拶をしてくれて」
「信じられない」
「恐ろしいわ」
まるで台本があるかのように、決まって同じ反応ばかりだ。
3人目の犠牲者が出たことでコメンテーターは警察の失態をなじり、専門家と称する者たちは、事件と無関係な言葉を並べ立てていた。
あと1人。
あと1人で目的は達成される。そのあとは出頭して裁判を受けるつもりだ。
警察の不作為と、彼ら4人が犯した罪を洗いざらいぶちまけ、社会に晒す。極刑は免れられないだろうが、今はそれよりも計画の失敗の方が恐ろしい。
この計画を実行するにあたって、心理的な障壁はほとんどなかった。殺人が正義であるわけがなく、もちろん善行であるはずがない。だが、やるしかなかった。
あれは、世間が新年度の慌ただしさから抜けきり、5月の大型連休が終わった頃のことだった――。
その日最初のクライアントであるベーカリーとの打ち合わせを終え、コインパーキングに停めた車に乗り込んだ。
エンジンをかける前に、打ち合わせの内容をボイスレコーダーに残す。
「ベーカリーエトワール。既存のホームページはスマホ表示に難あり。来週、地域限定SNSキャンペーンの初期デザインを提出。特にターゲット層の主婦に響くようなプロモーションを希望」
独立して4年目。口コミで新規の顧客を紹介してもらえることも増えてきた。次の訪問先を確認し、キーを回す。
妻を亡くしたことがきっかけで、中堅の広告代理店を辞めた。収入面の不安はあったが、男手一つでの子育てと仕事を両立するには、他に選択肢はなかった。
地域密着で小規模店舗をターゲットに、ウェブ制作からSNS広告、受注システムの構築まで、大手よりも割安かつフットワークよく請け負う。そうして徐々に信頼を勝ち取ってきた。言ってしまえば、IT周りの何でも屋のようなものだ。
運転中の車内で着信音が鳴った。ディスプレイに表示された番号を見て、即座に胸騒ぎがした。下4桁が「0110」。全国の警察署に割り振られた共通の発信番号だ。ハザードを点け、ゆっくりと車を路肩に寄せた。
「もしもし……」
「千種中央署交通課の吉田と申します」
「はい」
「今、お電話平気ですか? 運転中とかでは?」
「車を停車させました。大丈夫です」
「佐伯辰雄さんで間違いありませんか?」
「はい、そうです」
「この番号は、学校に問い合わせて伺いました」
話がなかなか核心に至らない。もどかしさに心臓が早鐘を打つが、ただ待つしかなかった。
「落ち着いて聞いてください。息子さんの優也君が、事故に遭われました。搬送先の病院をお伝えします」
そんな馬鹿な。今朝もいつも通り「行ってきます」と飛び出して行ったじゃないか。今日の給食はハンバーグだから楽しみだと言って。
亡き妻が、優しい人になるようにとつけた名前。産院で初めて見た我が子と、満たされた笑顔の妻の顔が、頭の中でぐるぐると回った。
学校からはメールも届いていた。
『担任の長谷川です。優也くんが登校していません。本日は欠席でしょうか』
『担任の長谷川です。警察から連絡がありました。私も病院に向かいます』
受信時刻はどちらも打ち合わせ中だった。仕事用の連絡は確認したが、プライベート用のフォルダは未確認のままだった。
フィルタリングをすり抜ける迷惑メールに埋もれないよう、時間のある時にまとめて確認する癖がついていたのが仇になった。
病院の駐車場に車を乗り捨て、転がるように玄関へ走り出した。待ち構えていた警察官に呼び止められ、案内される。
無機質な白い廊下を歩きながら、ただ「なんとか助かってくれ」と祈り続けた。鼻をつくアルコール消毒の匂いや、どこからか聞こえる電子音が、病院というシステムの冷徹な息遣いのように感じられる。
手術室のランプがつき、中で懸命に戦っている優也の姿を想像していた。
「こちらです。どうぞ」
通された部屋の扉は、厚く重い音を立ててゆっくりと開いた。
そこは、想像していた手術室とは似ても似つかない場所だった。生命維持装置などの機械類は一切なく、ただストレッチャーの上に横たえられた膨らみが、白いシーツの下に隠されていた。
「こちらに運ばれた時には心肺停止状態で……手を尽くしたのですが。誠にお悔やみ申し上げます」
救急対応してくれた医師だったのだろうが、名前も顔も覚えていない。
その奥で、担任の先生も目を真っ赤に腫らして立っていた。
「佐伯さん……」
名前を呼ばれただけで、言葉は続かなかった。
真新しいシーツをめくると、体中を包帯で覆われた息子がいた。看護師が「上半身の服は処置のために切断しました」と言い、ビニールに入ったものを見せてきた。その服を、警察官が「証拠として預かります」と言って回収していった。その光景だけが、ひどく鮮明に焼き付いている。
下半身の半ズボンは、今朝、彼が元気に家を飛び出した時のままだった。
「これが優也ですか?」
思わず抱き上げると、包帯が巻かれた腕は重力のままに、曲がるはずのない角度で垂れ下がり、薄く開いた瞼の下の瞳は、赤く染まり虚空を捉えていた。
――私の知っていた優也はもうどこにもいなかった。急速に霧散していく微かな温もりだけが、息子が存在していたことを証明していた。
葬儀は滞りなく終わった。荼毘に付された優也は煙となり、抜けるような青空に吸い込まれていった。今頃、妻と一緒に遊んでいるだろうか。
本当に悲しい時には涙も出ないのだと改めて知った。今はただ、妻との「この子を守る」という約束が果たせなかったことが悔やまれてならない。
優也を轢いたトラックの運転手は、私と変わらない年代の男だった。裁判は欠かさず傍聴に通った。証言台の彼は憔悴しきっているように見えたが、息子の痛みを思えば同情などできるはずもない。私は被害者遺族として、彼への厳罰を訴え続けた。
長い裁判が結審したのは、事故から2度目の桜も散ってしまった頃だった。判決は懲役3年・執行猶予5年。併せて行政処分により免許は取り消され、欠格期間2年を言い渡された。刑務所には収監されなかったが、彼もまた、今まで積み上げた人生を失った。
事故発生時から裁判を通じても解明されなかった謎は、「優也がなぜ赤信号を無視して飛び出したのか」という点だった。
学校へ向かうならば、現場となった交差点を駅とは反対の方に曲がるはずで、駅に向かって横断する合理的な理由は見当たらない。
警察での聴取の際もその点が腑に落ちず何度も食い下がったが、有力な目撃証言も監視カメラの映像も見つけられなかったと告げられた。
トラックにはドライブレコーダーが搭載されておらず、運転手も飛び出す前の優也を認識していなかった。
「佐伯さん、お気持ちはよくわかりますが、あの年代のお子さんが突発的に飛び出して犠牲になるケースは少なくありません」
警察官の慰めはまったく耳に入らなかった。優也はどちらかと言えば慎重な性格で、一拍考えてから行動する子供だった。意味もなく道路に飛び出したりするはずがない。その確信は、強く心にこびりついて離れなかった。
運転していた石橋の裁判が終わり、ようやく独りの暮らしにも慣れ始めた頃、3度目の桜が街を染めていた。SNSで見つけた一本の動画が全てを変えた。
普段から「交通事故」や「ドライブレコーダー」で検索し続けたせいで、おすすめにはずらっと事故映像が並ぶようになった。
その中の『衝撃映像』と銘打たれたその動画は、20秒程の短いものだった。どうやら、対向車線の車両から撮影されたドライブレコーダーの映像らしかった。
交差点の反対側から近づくトラック。その横の歩道を走る、ランドセルを背負った小学生。
子供は横断歩道の手前で一度しゃがみ込み、何かを拾って、そのまま車道へ飛び出す。
車体の前面で弾かれ、車体の下へ巻き込まれる小さな体。
停車したトラックの陰で優也の姿は見えなくなる。
そして、駅の方向から現場へ駆け寄る4人の男たち。
男たちがトラックの陰に入ったところで、動画はぷつりと終わっていた。
何か見落としてはいないか。震える手でシークバーを戻し、何度も再生をタップした。その度に、画面の中で優也はトラックに撥ね飛ばされ、アスファルトに叩きつけられる。
「ああ……」
喉の奥から乾いた声が漏れた。それとともに、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。
言葉も交わせなかった。看取ってやることもできなかった。息子はたった一人で、恐怖と痛みに耐えていたんだ。
動画の中で息子に駆け寄る男たちに向かって、私は叫んでいた。
「助けてくれ! 息子を……お願いだ、助けてやってくれ! 頼む、私はどうなってもいい。だから、頼む……助けてくれ!」
スマホを握りしめたまま、絶叫した。自分の声が部屋を震わせ、誰にも届かずに消えていく。その静寂の中で、膝から崩れ落ちた。あの日流れなかった涙が、後から後から溢れて止まらなかった。
動画はたったそれだけだった。だが、あの日からずっと謎だった息子の「最期の行動」を知るには十分だった。
やはり息子は、理由もなく飛び出したのではなかった。
動画に、横断歩道を先に渡った人物そのものは映っていなかった。だが、信号が赤のまま渡った「誰か」が何かを落とし、優也はそれを拾って追いかけたのだ。
画面の中の優也は、知らない誰かのために走っていた。そう考えた瞬間、焼けるような悲しみの中に、温かいものが灯るのを感じた。
「やっぱりお前は、優しい子だ」
そう呟きながら、また涙が頬を伝う。
最大まで拡大しても、息子が拾ったものが何かは判然としない。しかもその『何か』は現場から消えている。
実況見分調書によれば、駅西口の交番から駆けつけた警察官は、通報から2分で現場に到着していた。警察官より先にそれを拾い、あるいは回収し、姿を消した者がいる。
ならばそれは、最初に駆けつけているこの4人のうちの1人である可能性が、限りなく高い。
現場保存をする警察官の目を盗んで、優也のそばに落ちていただろう「それ」を拾って、逃げるなどということができたのだろうか。
大きい画面の方が見やすいだろうと、動画データをノートパソコンに移し、警察署へ向かう準備をしておいた。
警察なら息子の事故の真相に辿り着き、本当の原因を作った男にきっと罰を与えてくれるはずだ。ベッドに入っても、ついに全てがわかる、その興奮からなかなか寝付くことはできなかった。
翌日、千種中央署の応接室で対応してくれたのは、交通課の山崎という男だった。
室内は適度に空調が効き、落ち着いた色調でまとめられている。ここが警察でなければ、居心地のいい場所だと思うだろう。
「お待たせしました。佐伯さん、事故資料をお持ちしました」
「ありがとうございます。まずはこの動画を見ていただけますか」
持参したノートパソコンであの動画を再生する。
「佐伯さん、この動画はどこで?」
「ネットにありました」
「ネット、ですか……」
じっと画面を見ていた山崎が、何度か一時停止や早戻しを求めたので、その通りに操作した。
「……確かに、あの時の映像のようです。この続きはどうしましたか」
「いえ、これが全てです。息子は飛び出す前にしゃがんで、何かを拾っています」
「ええ、そう見えなくもありません」
「では、警察でこの画像を解析して、事故の本当の原因を突き止めて頂けますか?」
山崎は腕組みをし、少し考えこんでから口を開いた。
「佐伯さん。拝見したところ、息子さんが飛び出し、トラックのブレーキが間に合わずに撥ねられた。その事実に、事故当時の実況見分と違いはないと考えます」
「しかし、息子は意味もなく飛び出したわけではないんです。誰かの落とし物を届けようとしたんです」
「現場の遺留品リストに、それらしき記載はありませんでした」
資料をめくりながら山崎が事務的に答える。
「そこです。最初に駆けつけた4人のうちの誰かが、警察の到着前にそれを持ち去った可能性はありませんか」
「あるかもしれません。ですが、持ち去った行為自体が即座に罪になるかと言えば、難しいところです。仮に他人の物だとしてもすぐに犯罪にはなりません。それと、調べてみないとはっきりとは言えませんが、すでに時効になっているかもしれません」
山崎の反応は鈍い。警察が再捜査に乗り出し、息子の名誉が回復されると期待していただけに、その温度差が堪えた。
「判断するのは私ではありませんが、仮に持ち去った者がいたとしても、それが『事故の原因』であると法的に立証するのは極めて困難ですし、持ち去りそのものを立件することも困難だと考えます。したがって、警察として新たな捜査が行われることはないと考えます」
「何故です? 息子を死に至らしめておきながら、何の罰も受けないのですか? だとしたら、あなたたちは何のためにいるのですか!」
山崎は困ったように眉を下げ、穏やかに諭すように言葉を継いだ。
「息子さんの事故に関しては、過失致死罪を争う裁判の結果、運転手への刑が確定しています。一事不再理の原則と言いまして、法的にはこの件はそれで決着がついているのです」
「ええ、知っています。裁判は全部傍聴したし、記録も暗記できるほど読んだ。それとこの動画と何の関係が?」
「原因を作ったかもしれない人物がいたとしても、その人物が『直接』息子さんを突き飛ばしたわけではない。飛び出したのはあくまで息子さんの意思であり、轢いたのはトラックです。その人物に法的責任を問うことはできません。この動画に関する見解は当時も今も変わりはないと思います」
「捜査すらしてもらえないんですか? せめて、この4人が誰かくらいは、調べてもらえませんか? あなたたちは、見せしめのように車を摘発するだけで、歩行者はやりたい放題じゃないですかっ!」
「残念ですが、この動画だけで組織が動くことはありません。私個人としては佐伯さんの気持ちは痛いほどわかります。ですが……我々が守るのは正義や感情ではありません。我々が守り、執行するのは『法』なのです」
警察は当てにならない。
怒りのままに部屋を出て玄関へと向かう。頭の中がぐるぐると巡り、視界すらぼやけているような気がした。
「失礼ですが、これはあなたの物ではありませんか」
呼び止められ振り返ると、濃い色のスーツに、きちんとアイロンがけされた白いシャツの男が、USBメモリを差し出しながら話しかけてきた。
慌ててノートパソコンを確認すると、確かにスロットに刺さっていなかった。
「ありがとうございます。気がつきませんでした」
「いえ、幸いでした。ちょうど落ちるところを見ていたので。ちなみにこちらへはどういったご用件で」
柔和な顔立ちの中に、目にだけは鋭さを湛えてこちらを見据える。制服ではないというのに、こちらの隠し事を射抜くかのような力がある。
「もう、済みました。これから帰るところです」
何一つやましい事がないのに、声がうわずる。
「そうでしたか。では、お気をつけて」
明るめのスーツに水色のシャツを合わせた若い男と2人、私が来た方へと歩き去っていった。
警察からの帰り道。運転しながらぼんやりと景色を見ていた。
学校帰りの子供たち。スーパーの袋をさげて家路を急ぐ主婦。彼らの姿が、すりガラスを通した映像のように希薄に感じる。
音が遠くなり、私の周りだけが色を失っていた。
信号待ちをしていると、視界の端に人影が入った。スマホを操作しながら、若い女性が横断歩道に足を踏み入れる。
歩行者信号は既に青い点滅を始めているにもかかわらず、彼女は急ぐ様子もない。その後ろを、小さな男の子がついて行く。渡り切る前に赤になるのは確実だ。
その無責任な母親の歩み去る姿に、視線が吸い込まれる。その無防備なはずの背中は、それでも誰も彼女を傷つけることはない、そんな傲慢さが滲んでいた。
その無責任さこそが、息子を死に誘ったのだ。あの親に悪意はないのだろう。信号を無視する理由も、スマホに目を落とす差し迫った事情も、きっとないに違いない。
ただの惰性だ。
そうか。全てが繋がった。
何かを落とした男も、そうやって惰性で信号を無視して駅に向かったのだ。だから、息子はそれを追いかけてしまった。
男が落とし物をしなかったら。
赤で渡っていなかったら。
たまたまトラックが通過しようとしていなかったら。
そもそも息子がそこにいなかったら。
困っている人を助けようとしなかったら。
いくつもの「もしも」が最悪の形で重なり、優也の死へと収束した。
そして、そのきっかけを作った男は、今ものうのうと信号無視を繰り返しているのだろう。あの母親と同じだ。あの4人の中の誰かも、あの日、ただ惰性で赤を渡っただけなのだ。
その不条理に、心臓を直接握り潰されるような痛みを感じた。
繁華街で見知らぬ男が「あなたの財布を預けてください」と言って手を出しても、誰も財布を渡したりはしない。にもかかわらず、人々は日々、最も大切な命を、見ず知らずの運転手が握るハンドルに無警戒で委ねている。
人は財布は守るくせに、命は守らない。いや、守っているつもりで、実際は誰かの惰性に丸投げしている。
その無自覚な信頼こそが、優也を殺したのだ。
警察が動かないなら、自分でやるしかない。
法が裁かないなら、私が裁く。
「優也。お前の死を無駄にはしない」
声に出してみたら、驚くほどストンと心に落ちた。
信号が青に変わり、ゆっくりとアクセルを踏み込む。再び世界が動き出す。色を取り戻した景色。しかし世界はとっくに壊れていた。
誰もが、無自覚に、無責任に、自らを顧みることなく危険の種をまき散らしている。
この狂った社会で正気を保つ方法は、たった1つしかなかった。




