2章
一定のリズムを刻みながら、キロポストが現れては飛び去っていく。俺は視線を固定することなく、次々と現れる案内標識や規制標識を網膜に焼き付ける。
その全てには、必ず意味がある。50年以上の時間をかけて、色や大きさ、設置間隔に至るまで洗練されてきたものだ。
完全ではなくても、ここを利用する全ての人へ最大限の安全を提供するために、システムは維持管理されている。世の中のあらゆる仕組みは、そうして作られ、継承されてきた。俺はそう信じている。
バックミラーを見ると、黒いスポーツカーがウインカーを乱暴に点滅させながら近づいてきた。制限速度など眼中にない走りだ。俺の車を追い越し、あっという間に小さくなった。
その向こう、遠くに見え始めた山並みは青々としていた。常緑広葉樹林帯のため、紅葉の季節であっても景色に大きな変化は乏しい。春なら、桜や菜の花が咲き乱れ、美しくなるのだが。
人間は必ず間違える。だからこそ、システムは先回りしてリスクを最小限に抑えるために存在する。手順や仕組みを理解せずとも、ただなぞりさえすれば、致命的な失敗は回避できるはずなのだ。
道路交通法の規定通りに全員が行動すれば、理論上事故は起きない。しかし、現実には毎日想像以上の頻度で事故は起きている。この矛盾の解消こそが、システムを守る側の人間に課せられた義務だと俺は考えていた。
この仕事の利点の1つは、趣味のゴルフが存分に楽しめることだ。しかも割安で。非番が週末とは限らないからだ。
早朝の高速道路は交通量も少なく、非常に走りやすい。ただし第1車線をキープし、制限速度は絶対に超えない。
そんなことをしなくてもプレイ開始には十分間に合うし、万が一検挙されたら、ただでさえ遅い出世がさらに遠のく。最悪の場合、免許センターでの楽しくも退屈極まりない勤務が待っている。
「身内だから目こぼしされる」などという甘い考えは通用しない。一般道でも所轄が違えば仲間ではないし、ましてや高速は交通機動隊の管轄だ。
警察官だからといって、好き勝手にサイレンを鳴らして緊急走行できるわけでもない。
ダッシュボードに固定したホルダーの中でスマホが振動する。表示された名前を見て、次のインターまでの距離を即座に思い描いた。
運転中はスマホに着信があっても、決して手には持たない。スマホを手に持ったまま事故を起こしたら一発で免停だ。しかも反則金で済まず、懲役や罰金までついてくる。
俺はハンドルから手を離さず「応答しろ」と短く命じた。
「何か動きが?」
相手が刑事課の今川であることはディスプレイで確認済みだ。プライベートで電話をしてくるような間柄ではない。
次のインターまで2キロ。そこで降りてUターンすることになる。ゴルフはお預けだ。
「今日はゴルフでしたか? 本当にすいません。非常呼集です。課長の判断で」
非番時に所轄から離れる時は、ホワイトボードに行き先を記すのが慣例だ。質問ではなく確認であり、謝罪ではなく挨拶に過ぎない。
「ゴルフは中止だ。本当に悪いと思ってるなら、かけてくるな。用件を言え」
「やられました、3人目です。また『ナップサックの男』かもしれません。午後には県警本部が乗り込んできて、3件合わせて合同捜査本部が設置されます」
ハンドルを左手でしっかりと保持しながら、右手でドアを殴りつける。
特捜が立ち上がったら、捜査方針は引き継がれない。事件解決が遅れるかもしれない。
「いいか、捜査資料は……」
「二人選んで、引き継ぎ用に整え直してます。私は臨場しています。やれるだけのことはしておきます」
「そうか、わかった。場所は?」
「諏訪町の八幡神社です。詳細はいりませんね」
「それならわかる。30分で着く」
須賀駅の東側だ。
「被害者はどうします?」
「そのままにしておけ。急いだって生き返るわけでもないし、担当の解剖医だって喜んで飛んで来るわけじゃない。今連絡しても来るのは午後一だろ」
「わかりました。では現場で」
現場の神社には、2重の規制線が張られていた。内側は神社の敷地全体、外側は野次馬とマスコミを遠ざけるために、さらに1ブロック広く張られている。
内側の規制線の外で今川が待っていた。
「真田さん、5分遅刻ですね」
「2番目候補の駐車場から来た」
「相変わらず律儀なことで」
当たり前だ。俺の車は警察関係者の車両だが、緊急車両ではない。
規制線に立哨している所轄の若い巡査が敬礼をしたので、手帳の顔写真を見せながら軽く頭を下げる。
脱帽時には挙手の礼はしない。ましてや今は私服だ。単なる儀礼だが、最低限の規律さえ守れないなら、警察官とは呼べない。
歩きながら手帳を繰り、今川が情報の共有を始める。
「被害者は加藤慎二、25歳。都心の証券会社勤務ですね」
俺はその情報を頭の中に刻んでいく。
現場では鑑識課員が痕跡を探して這いつくばっていた。被害者を近くで観察したところで得られるものは多くない。彼らの邪魔をしないよう、離れたところから全体を観察する。
明かりになりそうなものは、鳥居のそばに2つ、社殿の周りに3つある街灯だけだ。いずれにしても大した光量はない。
背後からなら、ほぼ不意打ちできたはずだ。加藤は犯人の顔すら見ていないかもしれない。本人に直接聞くことは、もう叶わない。
「ここ、夜には来たくないですね」
「墓地よりはましだ。それより、凶器は出たか?」
「やはりなさそうです」
「持ち去ったか。慎重な奴だ」
これまでの捜査で、1人目の池田の体内からは包丁の破片が出ている。国内で流通している大量生産品で、近隣のホームセンターでも容易に入手可能な代物だ。購入者を特定することは、不可能に近い。
殺傷能力の高いサバイバルナイフや軍用ナイフを規制したところで、大した意味はないのだ。普通の包丁で十分人は殺せる。包丁の入手を困難にしたところで実効性は低く、普通の人々が困るだけだ。
「今回も財布やスマホの持ち去りはありません。物取りの線はないですね」
「交通系ICカードはどうだ?」
「スマホに取り込んでいます。JRの利用履歴に照会済みで、今日の0時57分に改札を通過しています」
「じゃあ、また駅から自宅に帰る途中か」
「ええ、背中から刺殺。駅から自宅までの途上。前の2人、池田、小西とそれ以外の接点は、多分出てこないでしょうね」
全く面識のない逆恨みによる犯行だろうか。だとしたら、それは犯人にしか見えない景色の中の出来事だ。外側からいくら観察しても答えに辿り着くことはできない。
だが、それにしては3人の間に何もなさすぎる。
1人目は夕方、2人目は早朝、今回は深夜。直接見えはしないが、俺は駅の方向を見つめ、ここまでの経路を脳裏に描く。3人とも、最終的には駅の東口から自宅へ向かう途中で殺されている。
人間関係に接点がない以上、通る道そのものに何か共通点があるのかもしれない。
「よし、ここは鑑識に任せて行くか」
「駅ですね」
「ああ、きっと何かあるはずだ」
そう言って歩き出す。
「真田さん、駐車場はあっちでは?」
「馬鹿野郎、歩きだ」
規制線の外側から改めて神社を見てみる。何らかの犯罪を実行するのに、これ以上ない立地に思えた。女性の一人歩きで夜ここを通り抜けようなどとは、まず思わないだろう。
「今川、被害者の自宅は」
「神社を抜けたら5分くらいですかね」
神社を正面に見て、俺は右手側に視線を送る。個人宅を3軒越えたところに細い路地がある。
「あそこを曲がれば反対側じゃないのか」
頭の中で周辺の地図を思い浮かべる。50メートルは短縮できるか。たった50メートル……。
「ええ、歩きましたので。通報してきた爺さんが曲がった先に住んでるんです。犬の散歩中に腰を抜かして通報してきたそうで。聞きに行きますか?」
「いや、いい。何度も顔を出すのは迷惑だろうし、どうせ大した情報もないだろ」
改めて鳥居を見上げる。青い空の高いところに、うろこ雲がゆっくりと流れていく。しかし、すぐに現場に意識を戻す。
神社の境内は私有地だ。ほとんどの公園が公共であるため、似たような感覚で通り抜けるのだろう。
マンションや会社の敷地境界に、簡便なチェーンとともに『通り抜け禁止』の看板があるのをよく見かける。あれは、それだけ部外者が通り抜けをしていて、彼らに罪の意識も良心の呵責もないことを端的に示している。
「近道だ」というのは、他人の敷地に侵入する言い訳にはならない。そもそもマンションの駐車場や神社の境内は『道』ではないのだ。
今日に限って何かの気の迷いか、突然湧いた考えでここを横切らなかったら、被害者は助かったのだろうか。俺にはそうは思えなかった。
背中から身体の左側を一突き。明確な殺意と完遂する意志のようなものを感じる。せいぜい数日か、運が良ければ何週間か、寿命の延長に成功しただけかもしれない。
駅に向かいながら考えを巡らせる。「ナップサックの男」。果たして被害者をここまで憎む動機は何だ。
1人目と2人目には殺害方法と現場が通勤経路であること以外に接点は見つからなかった。家族や友人、職場での聞き込みでは、そこまでの殺意を抱くようなトラブルや人物は浮かんでいない。
警察相手に人が必ず本心を語るわけではないし、人の心の中などわかりようもない。本人でさえ自分の感情を制御できていないケースもままある。
それでも「死んで欲しい」や「殺してしまいたい」という感情と、それを実行に移す間には想像以上に大きな隔たりがある。
明確なトラブルとまでは呼べなくとも、何か軋みのようなヒビは必ず存在する。1人目と2人目の周辺にそういった匂いはなかったし、きっと3人目にもないだろう。
3人の数少ない共通点、それは駅の東口を利用していること。歩きながら今川に話しかける。
「現場を見てどう思った?」
「慎重さは増しているように感じました」
「ああ、発覚すること自体には恐れはなさそうだが、早すぎる発覚は避けている」
「大胆なんだか慎重なんだかわかりませんね」
「スパッと割り切れるほど単純じゃないんだ」
「何か遺留品があればいいのですが」
「望み薄だな。一番隠したいはずの被害者をそのままにしてるんだ。つまり……」
「被害者からも直接犯人に辿り着けないか、あるいはかなり困難」
「そういうことだ。さあ、駅を調べるぞ」
土曜日の午前中。東口のロータリーは、駅に向かう人々と、駅から出てきて街に向かう人々が行き交っていた。バスを待つ親子連れや、タクシーに乗り込む年配の夫婦。駅前にはごく日常の時間が流れている。
池田と小西については様々なことが判明していた。改札を通過して、家までの間にある現場で殺害されていたこと。交通系ICカードの使用履歴で、2人が改札を通過した時間も把握できている。
そして2人のスマホの通話・通信履歴から、誰かと待ち合わせをしていなかったことも裏が取れていた。少なくとも、デジタルな繋がりは存在しなかった。
今川と2人でロータリーからの景色を見渡す。
「やはりあそこしかなさそうだな」
交差点の先のコンビニ、その2階を見上げた。
「ええ、あそこのイートインならある程度の時間そこにいても怪しくはないでしょうね」
「ああ、ロータリー全体を見渡せる絶好の位置だ」
しかし、思考の流れを今川が遮る。
「真田さん、あれ山崎さんじゃ?」
今川が指差した先には、蕎麦屋や花屋が並ぶ一角があった。その店先を、俯き加減で歩いていく男がいる。
「……あいつは非番か」
一瞬だけ視線を送ったが、すぐにコンビニへ戻した。今はあいつに構っている場合ではない。
「そんなことより、さっきの続きだ」
「イートインのカメラは撤去されています。小西の時です」
今川の声にうなずいた。しかも階段を降りてすぐの自動ドアから出入りすれば、コンビニ店内のカメラにも映らない。
2年ほど前に、自分たちのいちゃついている姿が映っているはずだからデータを消去しろと本部にねじ込んだバカがいたせいで、そのカメラは撤去されていた。
私有スペースでも占有スペースでもないのだから明らかな言いがかりだが、民間企業は時に筋の通らないことなかれ主義に走ることがある。
いや、民間に限った話ではないか。警察も組織である以上、上層部の決定には従うしかないし、市民の皆様の要望にはできるだけお応えする義務がある。
「死亡事故発生現場か。こんな看板立てて何か意味があると思ってるのか」
千種市役所・千種中央署と設置者も連記されていた。看板の表面を軽く叩いてみた。薄い鉄板の乾いた音が響く。
「設置前後での事故発生率の有意な変化、ですか? 統計的には抑止効果があると言われていますが」
今川が教科書通りの答えを返す。
「数字の話じゃない。中身の話だ」
「中身、ですか」
「ああ。俺に言わせれば、こんなものは行政のアリバイ作りに過ぎない。全ての交差点は車と歩行者、自転車が同一平面で交差する。システム上、どこだって同じように危険なんだ」
「それは、まあ……否定はできません」
「しかも、だ。『ここで死亡事故がありました』という結果しか伝えていない。これでは、何の教訓にもならない」
俺は看板の『死亡』という文字を指でなぞる。
「どんな事故で、誰の過失で、誰が犠牲になったのか。それがわからなければ、同様の事故を防ぐことはできない」
「詳細な情報を看板に書くわけにはいかないでしょう。プライバシーの問題もあります」
「そうだな。だから結局、誰も看板のことなど気にしない。ただの風景だ。……風景になってしまった」
そこまで言って、今川も黙ってしまった。つい、熱くなってしまった自分が滑稽に思えて、口の端がわずかに歪んだ。
「しかし、ここでも誰か亡くなっているんだな」
木枠の部分は白っぽく変色し、打ちつけた釘には薄く錆が浮いている。
「3年……いや、もう少し前かもしれません」
日光と雨風にさらされて、過ぎ去った季節が層になってこびりついていた。
足元をよく見ると、枯れてしまった花束がそのままになっている。花を手向ける人がいるのに、片付ける人はいない。なんともいびつな光景だ。
犯人の動機がわからない以上、あらゆる可能性を潰す必要がある。3人が渡ったはずのこの交差点に立っている看板。事件に関係しているかどうかもわからない。単なる偶然なのか、それとも……。
「お前、交通事故でどれだけ犠牲になっているかわかるか?」
「昭和45年の第1次交通戦争で約1万7000人、第2次交通戦争のピークが平成4年で1万1500人ですね。今は年間2500人といったところでしょうか」
今川が間髪入れずに、すらすらとデータを並べる。
「お前すごいな。警察白書が愛読書か……とでも言うと思ったか? お前がそんな細かい数字を覚えているわけがない。いつ、調べた?」
「真田さんが看板に向かって歩き出した時です。聞かれるのでは、と思いました」
「まあいい。相手の思考や行動を先回りすること自体は悪くない。だが、悟られてはだめだ。調べたからには、その数字がどこで切られた統計かわかるな?」
「はい、この数字の恐ろしいところは、事故発生から24時間以内に死亡が確認された場合のみの合計値だということです」
「ああ。それ以上の時間をかけても治療の甲斐なく亡くなった人や、事故で負った障害を苦に自ら死を選んだ者、あるいは突然襲った身内の悲劇に精神のバランスを失った者は含まれていない」
3人とも駅から出て、必ずこの横断歩道を渡っている。犯人が見るとしたら、この視界――横断歩道と、イートインと、そしてその脇に立つ看板もまた、その風景の一部だ。
「今川、この看板の事故覚えているか?」
「いえ、ぱっとは出てきません。あっ、それなら山崎さんに……」
そう言いながら今川の視線を辿る。
「いませんね」
「ああ」
「まだ近くにいるはずです。探してきますか」
「いや、いい。もっと確実な方法がある」
事故と事件が繋がるにしても、被害者が3人も狙われた理由が分からない。
この時点では、確信めいたものはまだ、何一つなかった。だが、3人も人が死んでいるんだ。きっと、そこには何かがある。




