1章
駅前の交差点を、けたたましいクラクションが切り裂いた。通勤時間帯の道を急ぐ人々は足を止め、音の出所を探す。
ブレーキ音がアスファルトを削り、鈍い衝撃音が響いた。一瞬の静寂の後、目撃した女性の悲鳴が重なり、現場の熱を急激に上昇させる。
何人かが被害者に駆け寄り、運転手は蒼白な顔で立ち尽くしていた。車道に投げ出された体。そこから伸びる足は不自然な角度で固まり、ぴくりとも動かない。
通報を受け、駅の反対側にある交番から駆けつけた警察官たちが、交通整理と加害者の確認を分担する。遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。
きっとあの朝、見慣れた駅前は、そうして修羅場と化したに違いなかった。
私が知っているのは、調書と裁判で語られた断片だけだ。
あの日からずっと、見ていないはずの光景が網膜を焦がし、聞いたことのないはずの衝突音が鼓膜を刻み続けた。
実況見分調書の冷たい行間からは、熱を帯びた血が滲み出していた。
しばらく後、再び訪れたその場所には『死亡事故発生現場』と記された黄色い看板が立っていた。
3度目の命日が近づいた昨夜のこと。
すっかり就寝前の日課になってしまったスマホでのネット巡回中に、その動画は不意に紛れ込んできた。
何千回と繰り返し思い描いてきた、モノトーンのままのあの朝の光景。それについに色と意味がつき、私の視界を塗り替えた。
あの日以来、初めて明かりを消して眠りについた。
かつては濃い黄色だった看板も、今では日に焼けて全体が白く褪せてしまっている。
私は看板の足元に花束とジュースを供え、何度目かも思い出せない祈りを捧げて手を合わせた。瞼の裏にあいつの顔が浮かぶ。
優しかったその笑顔は、もうどこにもない。あの日から、生きていく理由など何もなかった。その存在は私にとって全てだった。
「これなら、きっと警察も動いてくれる」
彼らも知らない新事実だ。手応えはある。今日からはまた忙しくなるぞ――確信とともに、自然と口元がほころんだ。
「必ずいい報告をするからな。そこから見守っていてくれ」
通勤者たちはスマホに目を落とし、駅へと向かい続ける。誰も看板のことなど気にしていない。ただ、春の名残を含んだ風だけが、私たちの間を吹いていた。
9月の夜。暑さは相変わらずだが、この時間になると上着がなければ肌寒い風が吹き抜ける。
家路を急ぐ人々は思い思いの方向に歩みを進めていた。歩行者信号が点滅し、赤に変わった。
見下ろす交差点には、今日も看板が佇んでいる。すっかり枯れた花も、時折吹く風に小さく揺れている。
だが、まだ報告はできない。
駅前の交差点が見渡せるコンビニの2階。イートインスペースで持ち込んだパンを齧り、缶コーヒーで流し込んだ。店員に咎められたことはない。
普段は下の売り場で購入してここに来る。だが、レシートを含め痕跡を残すわけにはいかないため、今日は何も購入しなかった。
時折、店員がここにやってくるが、ゴミ箱のゴミの量だけを見てすぐに降りていく。ついでに室内を見渡すが、声をかけられたことは一度もなかった。
全ては想定通りだった。
部屋の隅、天井の石膏ボードにはかつてそこにあったであろう、カメラの撤去跡がはっきりと見える。
絶対に安全だとは言えないが、少なくともこのコンビニを怪しむ根拠がなければ、危険ではない。
これまでの積み重ねが、私を支えている。存在そのものを物理的に消すことはできない。ただ、誰の記憶にも残らなければいいのだ。
スマホは必要ないのでここにはない。電源は入れたままだ。今頃、サイドボードの上で無音のまま、延々と動画を再生しているはずだった。
この手順もようやく終わりが見えてきた。1ヶ月かけて追跡と調査を積み重ね、男の行動ルーチンはすでに把握している。
この計画に車を使うことは、最初から除外していた。要は今、捕まらなければいいのだ。死体を隠す必要はない。
逃走や偽装工作に車を使うということは、さらに車を使った痕跡を隠蔽する必要に迫られる。そして、警察の捜査能力を低く見積もるのは致命傷になりかねない。
駅に向かう人はまばらだったが、車が通ることもほとんどない。ほとんどの人が赤信号をそのまま渡っていく。
時折、ルート配送のトラックがクラクションを鳴らすが、気にも留めずにゆっくりと歩き続ける。運転手がブレーキを踏むはずだという根拠のない確信。どこの誰かもわからない相手に命を預ける愚か者の行進に見えた。
移動には自転車を使うことにした。あらかじめ、近くにある監視カメラのない空き地を選び停めてある。
週末に警察官が実施している自転車盗難防止の職務質問、その実施ポイントは完全に特定済みだ。
もっとも、用意した自転車は正真正銘自分のもので防犯登録もしてある。
万が一止められても失うのは時間のロスだけで済む。しかし、今夜に限ってはその時間こそが最も貴重なのだ。
日付が変わり、土曜日になったばかりの店内には、私を含めてまともな客はいなかった。
窓から離れた席ではカップルが人目もはばからずいちゃついているし、少し離れた席では作業着姿の男が、もう長いことテーブルに突っ伏したまま微動だにしない。
残る下り電車はあと2本。過去の経験上、奴がタクシーで帰宅したことは一回もない。どちらかに乗っている可能性が高かった。
橋上駅からロータリーに繋がる階段から、断続的に人が吐き出されてくる。跨線橋を兼ねているため、電車が入線していなくても人通りは絶えない。
今日は空振りかもしれない。そう思い始めた矢先に、とうとう奴が現れた。
シンジと呼ばれていた、あの男だ。本名は知らない、名前になど興味はなかった。ただ、その存在をこの世から消し去る、そのためにここまで積み上げてきたのだ。
階段からまっすぐ駅前の交差点に向かってくる。信号を確認することもなく、赤のまま渡り始める。それを見て、私は慌てずに席を立った。
男の後ろを、一定の距離を保って歩き始める。自宅の場所も通り道も、全て把握している。奴の家までは歩いて15分ほどかかる。
私は先回りするため、空き地に停めておいた自転車にまたがった。
男は自宅までの経路で必ず神社の境内を横切る。
そこは事実上開かれた場所であり、基本的に誰がいても咎められることはない。だがそれは参拝するという建前あっての話だ。
毎日近道のために境内を横切る行為は、厳密に言えば不法侵入になりうる。今回の場合、男の遵法意識の低さがこちらに味方した。
先週のあの会話が、周囲の闇に紛れて浮かんでは消えた。
思い返すたびに、こちらの判断が間違っていないことだけは確かだった。
あの朝、奴は何もしなかった。
裁判や調書にも名前はない。それが答えだ。動画とも矛盾していない。感情で動くわけにはいかない。手順通りに進めるだけだ。
男を待つ間、深夜の神社だけが纏う静けさに心を鎮め、虫の音に耳を傾ける。暗闇に心が同調していき、私自身が静寂そのものになっていく感覚があった。
男の死角となる社殿の暗がりに潜み、手早く使い捨てのビニール製のレインコートを着込み、滑り止めのついた軍手を装着する。
ホームセンターで購入した包丁を取り出し、刃先を確認した。
男はスマホで動画を見ながら現れるはずだ。両耳にはイヤホン。乾いた落ち葉や土を踏みしめる音も、近づく気配も、奴は察知することができない。
男の来る方向を見据えていると、想定通りのシルエットが現れた。距離はまだ少し離れているが、暗がりの中、スマホのバックライトが男の顔を青白く照らし出す。
間違いない。あの男だ。
はやる気持ちを抑えて、男が通り過ぎるのを待つ。
男の後ろから息を殺して近づき、刃を横にして背中の左側に突き刺した。
発した叫びは神社の木々に吸い込まれ、遠くまでは届かなかった。
前のめりに倒れ込んだ男の背中に馬乗りになり、体重をかけてさらに包丁を押し込む。
男のうめき声が消え、体が動かなくなってから包丁を抜いた。
ポケットからペンライトを取り出し、さっと周囲を見渡す。
スーツの背中が黒く染まっていくのを確認してから、レインコートと軍手、そして包丁をコンビニ袋に入れ、ナップサックに押し込む。
自転車に乗り、男が入って来た方向とは逆に向かってペダルを漕いだ。
こちら側には監視カメラを道路に向けた家はなく、商店は皆閉まっている。誰にも見られることなく逃げおおせる確信があった。
あと一人。それまで警察に捕まるわけにはいかない。それで最後だ。そうすれば、ついに全てが完結する。
覚悟を新たにペダルを踏みしめる。
ようやく秋の色を帯びはじめた空気が、顔を撫でて後ろへと流れていった。




