16章
顛末書を刑事課長に渡し、深々と頭を下げた。
「いいから、頭を上げろ」
「はい」
直立不動で課長を見た。彼は顛末書を一瞥すると脇に投げ捨てる。
「相手のほうが一枚上手だったということだ。しかし、周辺に潜伏していることは、はっきりした。お前の手柄だ」
「はい、ありがとうございます」
「だがな、本部長はカンカンだ。真田と今川、二人を本件の担当から外す」
「課長。それは……」
あまりにもな決定だと思えた。ただ一度佐伯を取り逃した処分としては、果たしてどうなのだ。あるいは、県警本部側の意趣返しともとれた。再び、主導権を取り戻す腹づもりなのだろう。
「最後まで聞け。厚労省麻取からの捜査協力依頼だ。読んでみろ」
課長が書類を滑らせる。
『部外秘』とスタンプされた表紙をめくった。要請の概要から、内偵調査の結果、特定された店舗の外観写真と内部の見取り図、そして容疑者の個人情報と写真。そこで手が止まった。
(これは……)
「わかったようだな。あとは任せる。好きなようにやれ。責任は俺が取る」
写真の中に4人のうちの最後の1人、石上孝のものがあった。
佐伯に先んじて確保できれば、もう手は届かない。
今日分の捜査日報を打ち込みながら、頭の中の引っ掛かりが指を遅くした。佐伯の逃走はあまりにも、鮮やかすぎた。非常階段に人員を割かなかったのは俺のミスだったが、それにしても影すらも踏むことができなかった。
浮かび上がった考えを振り払えず、交通課の業務日報にアクセスした。調書などの正式書類に比べれば、閲覧権限ははるかに緩い。
『山崎。午後3時から須賀2丁目交差点で安全指導』
指で机を軽く叩きながら、思考を巡らせる。車内でセントラルホテルの情報がもたらされる少し前だ。
佐伯が潜伏していたホテルの情報も、現場で任意同行をかける指示も、いずれも所轄無線で流されていた。所轄無線を聞いていれば、特別な立場でなくとも知り得た内容だ。
交差点で安全指導に当たっていた山崎が、それを耳にしていた可能性は高い。そして――それを佐伯に伝えたとしても、不自然ではない。
山崎に佐伯の訪問を確認した時の反応が、脳裏に蘇る。一瞬、誰だかわからないという表情を見せ、その後で資料に目を落とし、来ていないと答えた。
気になったのは、その速度だ。
外れていてほしいという思いを抱えたまま、4月分の交通課日報を順に確認していく。見るべきは、内容ではない。作成日と最終編集日だ。
――あった。
4月の日報の中に、最終編集日が5月になっているものが、ひとつだけ。それは、池田事件の3日後だった。
誰の手が入ったのかは、考えるまでもなかった。
「USBだ」
突然、その情景を思い出す。4月の終わり、署内で来訪者が落としたそれを拾って手渡した。大した話をした覚えはない。大事そうに抱えていたノートパソコンは覚えている。あれに、動画が入っていたのか……。
やはり、佐伯は来ていたのだ。
今起きている事態を思えば、佐伯は相当食い下がったはずだ。まじめな山崎のことだ、困り果てて、強い言葉で追い返したのだろう。
あの動画だけで警察が動くはずがない。そんなことは、俺にだってわかる。
――わからなかったのは、山崎の馬鹿のほうだ。
「俺は、そんなに頼りにならなかったのか?」
ある考えが浮かび、さらに思考を深めた。
麻薬及び向精神薬取締法違反。スターダム従業員に対しては、売買と所持、使用について嫌疑がかかり、厚生労働省地方厚生局麻薬取締部、通称マトリが内偵調査を進めていた。
容疑が固まり、令状を取った上で、店舗を含め全員の一斉検挙を計画していた。容疑者全員が、今この瞬間も追跡されていて、店舗への強制捜査も準備されていた。下手を打ったら問題は警察だけでは済まない。慎重にことを運ぶ必要があった。
千種駅周辺のビジネスホテルを拠点にして、スターダムの調査を進める。歓楽街ではただ立っているだけでも、職質をされる恐れがあった。
スターダムのセイヤの行動を把握することは、困難を極めた。この数ヶ月取り組んできた何よりも難しかった。だが、徐々に行動パターンがわかってきた。
セイヤは色々な女性とタクシーで店を離れることがほとんどだった。そして毎回、同じグループのタクシーを店に横付けさせて、セイヤが乗り込んでいった。コマーシャルでもよく見る、あの大きなロゴのステッカーが目を引く。
タクシーがいなかったら、店の前を素通りし常に歩き続けて、タクシーがいたらセイヤが乗り込むまで、なるべく近くで待った。
注意を店だけではなく、周囲にも配る必要があった。制服を着た警察官が見えたら、ごく自然にその場を離れた。
たまたま通りかかった空車のタクシーを捕まえて「前の車を追ってください」というのは現実には成功しないだろうと思えた。あれはドラマの中でだけの話だ。
どこかでぎりぎり赤になるタイミングで、交差点を通過されたら、事情のよくわからない客のために、信号無視をする運転手は多くはないと思えた。
だから、狙っていたのはドアが閉まり切る前に、行き先を運転手に伝えるその一瞬だった。そして今日ついに「須賀駅方面へ」という言葉が聞き取れた。時計を確認した。
始発までは30分ほどだった。加藤の時に利用して以来、あのコンビニへは行っていなかった。
始発で須賀駅に移動し、駅前にもう1軒あるコンビニで酒を2本購入した。飲むためではない。
コンビニから少し離れてから蓋を開け、中身を全部側溝に捨てた。
イートインに上がると、窓側の端の席に座って目の前に空き缶を2つ並べた。店員が清掃のために入ってきたら、寝たふりをすれば、声を掛けられることはほぼないはずだ。
セイヤがタクシーに乗り込んだのは1時間以上前だった。この近くまで早朝ならば15分もかからないだろう。一緒に帰った女性とホテルを利用してる可能性は低い。ここよりも、千種駅周辺の方がはるかに軒数が多いからだ。
まず、間違いなくあの女性の家なのだろうと思った。あと1時間なのか、2時間なのか。あるいはもっと長い時間なのか、わからなかった。
ただ、セイヤは事故の時も駅を利用していたはずだ。今日もそうする可能性は充分高いはずだ。それに賭けるしかなかった。事故が起きた時間まで、もう1時間を切っていた。
署内の休憩スペースはベンチが置かれ、署員が一時、心を休める場となっている。かつては喫煙スペースだったが、署内が全面禁煙になってから改装された。ベンチには見知った顔も何人か座っていた。彼らに軽く声をかけると自動販売機で缶コーヒーを2本買い1本を今川に渡す。
「もう、済んだのか」
軽く頭を下げて今川はプルタブを引いて一口含んだ。
「ええ、窃盗の被害届けでした。調書は取れたので、今は別の者に引き継いで鑑識と現場に向かわせました」
周りにいるのは署員だけだ。ここなら捜査情報でも外部に漏れる心配はない。
「難しい事件か」
「どうでしょう。盗られたのは洗濯物です。境町のコインランドリーですね」
「まあ、ひと通り捜査はしないとな」
「手短に説明する。厚労省の麻取が石上が滞在している家を張っている。動きがあり次第、俺たちも動く。確保さえできれば、佐伯の手は届かなくなる。そうなったら、既にいなくなっている石上を探し続ける佐伯を、必ず捕まえる」
「麻取は踏み込まないんですね」
「全体の指揮権は厚労省だ。判断は向こうがするが、不所持な上、任意の尿検査でも結果がでなければ勾留は認められない。自宅を押さえて家宅捜索で手堅くいく方針らしい」
「タクシーで移動するという可能性もありますよね」
「麻取は徒歩と車両、どちらにも対応できる準備がある。もしタクシーで移動されたら、こちらも車を使う」
「緊急走行はできませんね」
「そうだ。麻取の車と無線で連携してタクシーの前後を挟む。途中で右左折したり、信号待ちで離されたら、片方が常に捕捉し続ける」
「石上の自宅と職場もうちと向こうで人員は配置されている。そっちも指示がなければ動けん」
スマホが振動する。耳にあて2、3やり取りをすると今川に目を向ける。
「行くぞ。石上が動き出した。徒歩で須賀駅に向かっている。悟られないように周囲を固めて、自宅か職場で身柄と証拠を押さえる」
これでちゃんと伝わったはずだ。
スマホが小さく震えて、ショートメールが届いた。セントラルホテルで、刑事たちが来ることを伝えてきたのと同じ発信者だった。
『あなたの追っている男は、このあと須賀駅で確保される。警察だけではなく麻取も動いている。チャンスはない。諦めて出頭してくれ。あのホストの男は、もう逃げられない。法の裁きを受けさせる』
この発信者は誠実な人だ。既に確保されたと書けば目的は達成できたかもしれないのに、この後と正直に書いてしまっていた。
もっとも、逮捕されたからといってチャンスが潰えるわけではない。最短で72時間で出てくるし、勾留し起訴されたとしても執行猶予なら収監はされない。実刑だった場合でも、死刑でなければ、必ずいつか出てくる。
コインロッカーの前には制服の警察官が立っていた。荷物が取り出せないというのは、致命的な計算違いだった。――鉄の扉の向こうに、私の覚悟は取り残された。素通りしてホームへと向かった。
駅への入り口は全て、私服の捜査員が張り付き、佐伯が現れたら確保する手筈になっている。今川や麻取も配置につき、ホームで電車を待つ石上の周りに散っている。
俺は少し離れたところから、全体を見渡し、不測の事態に備える。今川は石上の左隣に並んだ。手筈通りだった。2人の後ろにも乗客が並び始めた。
ベンチには朝から酔い潰れた作業着の男が力なく座っていた。通勤客は遠巻きにして近寄らないし、あえて近くで立ち止まる者もいなかった。だらしない姿で何事かを呟いているようだった。
俺は意識を石上に戻した。
セントラルホテルでは指紋だけでなく、コーヒーカップから佐伯のものと思われる唾液も採取できていた。科捜研での初期鑑定の結果、池田事件の皮膚片とDNAが一致した。既に逮捕状は所持していた。
次発の入線まであと5分といったところだった。乗客の待機列はさらに伸びていた。
麻取の人間は左右の扉から乗り込むべく準備していた。今川も含めて、乗車後は距離をとって監視を続けることになっていた。俺は最後に乗り込み、石上が動いたら先に降りて前を歩く。
タクシーを車で挟む作戦を徒歩に置き換えるだけだ。
入線を予告するアナウンスが流れる。
佐伯は現れなかった。
山崎が伝えなかったのか、佐伯が近くに潜伏していなかったかだろう。佐伯の件はまた考えるとして、今は石上の追跡に神経を集中すべきだった。
「黄色い線の内側でお待ちください」
アナウンスが流れた。
あの男を追っているはずの刑事は、ついに声を掛けてこなかった。セイヤの隣と階段の下にいる刑事は中央署の2人だった。だが、この距離ならしくじりようがない。
線路が鳴り出し、入線してくる先頭車両が見えた。
素早く起き上がり、セイヤの背中を目掛けて加速する。
電車を待つ乗客たちが先に気づき、皆一斉にこちらを向く。セイヤはイヤホンをしているので、前を見たまま動かない。
体ごとぶつかり、奴は宙を舞った。
ホームに倒れ込みながら「やった」と呟く。このタイミングなら助かりはしまい。
作業着の男が突然立ち上がり駆け出す。作業着に茶色いスニーカー。一瞬で意図を悟り警告の声を出す。
「今川っ。佐伯だ!」
佐伯は石上に体当たりし、石上がホームから飛び出す。
今川があとを追って線路に飛び降りた。
電車の警笛とブレーキの軋む音が鳴り響く。誰かが押した非常警報ボタンによって、けたたましい電子音がなり続けた。
倒れ込んだまま、何かを呟いている佐伯に手錠をかけた。
「佐伯辰雄だな。8時26分。殺人未遂の現行犯で逮捕する。お前には黙秘する権利がある。不利な発言を強要されることもない。弁護人を選定する権利もある。わかったかっ」
騒然とするホームでも佐伯の耳に届いたはずだが、放心したように今川が飛び込んだあたりをみつめていた。
騒ぎを聞きつけ、私服の刑事が集まってくる。そのうちの1人に佐伯を任せると、電車とホームの隙間から見える範囲を見渡す。ちょうど3号車の下になる。
覚悟はしていたが、線路には血は見えなかったし、もっと酷いものもなかった。
「今川っ。無事か⁈」
ホームの下から声が聞こえた。
「大丈夫です。ただ、石上は怪我をしているようです」
麻取の班長が、連絡を取っていた。
「何?そうか、わかった。真田さん、石上をここで確保します。スターダムを担当してる班が、現物を確認しました」
「今川、確保だ!石上を確保」
「わかりました!」
「んだよっ。俺は被害者だろうがっ!ふざっけんな!」
抵抗する石上を麻取が連れて行く。
「真田さん、あとできっちり説明してもらいますよ。――その男、見覚えがある。歓楽街で揉めていた一般人だ」
そう言い残し、麻取は石上を連れて撤収していった。
賭けだったが、なんとかなった。しかし何枚かは始末書を書くことになるだろう。
やっと緊張から解放されたその時、背後で獣のような叫び声が上がった。佐伯が膝から崩れ落ち、何度も何度もホームを殴りつけて、大声で泣いていた。その手には血が滲んでいた。
遠巻きに我々を囲む人混みをかきわけて、制服の警察官が佐伯めがけて歩み寄ってきた。
「山崎、お前……」
俺の声は届いていなかった。山崎は泣き声を上げ続ける佐伯のそばでひざまずいた。
「間に合わなかった。佐伯さん本当に申し訳なかった」
そう言ってホームに額を擦り付けた。
「あの動画は事故当時からあった。証拠として採用しなかったが、あなたに見せることもできなかった。あなたが自力で動画を探し当てた時、実は知っていたとは言えなかった。だから、一事不再理を持ち出して、あなたの申し出を退けた。しかし、それは起訴されることがないというだけで、再捜査自体は法的には可能だった」
俺の推測とほぼ同じだった。お前は警察官に不向きなほど優しすぎたんだ。
『俺は刑事は目指さない。とても厳しい取り調べができるとは思えない。お前のようにはできんよ』
かつて、鳥平で飲んだ時の言葉が蘇った。厳しさを避けたその優しさが、結果として佐伯を修羅へと変えたのだ。
「許してくれ。あなたを凶行に走らせたのは、私だ。本当に済まなかった」
2人の視線は交わることなく、中空を漂っていた。
佐伯は、ただ、ただ壊れたように泣き続けていた。




