11章
「元のところに戻してきなさい」
喉元まで出ていた言葉を飲み込む。
梅雨空の下、びしょ濡れで帰ってきた優也は、シャツの中から1匹の三毛猫を引っ張り出した。
「きっと、ミャアもお母さんがいないんだ。かわいそうだよ」
独立したばかりで、日中は家を空けていることも多い。仕事を軌道に乗せながら、優也と猫の世話か。命を預かる以上、いい加減なことはできない。
もう、名前まで付けている息子を翻意させることは、簡単ではなさそうだった。口にはせずとも、寂しさを小さい体に溜め込んでいたんだろう。
毎日の世話は優也なりに頑張っていた。時々は手を貸すこともあったが、ほとんど1人でこなしていた。
3年間という短い間だったが、ミャアもきっと幸せだったに違いなかった。
あの朝、駅前の交差点で偶然見つけ、即座に特定した2人目のターゲット―― 小太りの男、小西秀和は、倉庫街にある運送会社で働いていた。
これといって特徴のない男だった。夕方に会社に向かい、朝になったら家に帰る。仕事帰りに職場の同僚と談笑することも、休日に出かけることもなかった。
結婚はしておらず、妻や子供はいなかった。ただ、年老いた母親と2人でひっそりと暮らしていた。
空っぽな男だった。ある日突然なくなっても、誰も思い出せないような、消えた風景と変わらない。
だが、池田がそうであったように、この小太りの男にも隙は存在した。
早朝、仕事明けの始発で駅に帰ってくると、彼は必ずコンビニに直行する。酒とタバコ、そしてつまみの缶詰や朝食を買い、2階のイートインで食事を済ませてから店を出る。
その足ですぐに帰宅せず、歩きタバコをしながら、吸い殻を側溝に投げ捨て、小さなスナックが並ぶ路地の間の小道を入っていく。そこから10分くらいで出てくるのが日課だった。
池田の時のようにすぐに尾行はせず、別の機会にその小道の先を確認しに行ってみた。そこには想像したより広い空き地があった。二辺がスナックの裏手、もう二辺はテナントビルに囲まれた、ビルの谷間だ。
かつて臨港部の工場地帯に活気があった頃、ここにも飲み屋が軒を連ねて賑わっていたのかもしれない。今となっては、周囲のスナックを全て立ち退かせないと、この土地を有効に活用することは難しそうだった。
片隅には餌皿らしきプラスチック容器と水入れがあり、野良猫の姿がちらほら見えた。
風の抜けることのない、行き止まりの空間。昼間でも薄暗く、ここだけ周りから取り残されたような陰を帯びていた。
小西がここで何をしているのか、決定的なところまではわからなかった。だが、毎日ではないにせよ、定期的に立ち寄るこの場所は、人目がなく、犯行にはうってつけの立地だと思った。
池田の時に使った古い包丁は、骨に当たって先端が欠けてしまっていた。自治体が推奨するやり方で、不燃ゴミの日に回収させた。それが最も安全なはずだと考えたからだ。
新たに用意した包丁は、常に持ち歩いている。いつその機会が来てもやれるように。
残りの1人は、いまだに見つからない。だが、この2人目を消せば、警察も今よりも本腰を入れて捜査に乗り出してくるに違いない。計画を最後までやり切るためにも、より一層の慎重さが求められる。
私は、自分の痕跡を消すことにした。
不動産屋の男に鍵を渡して、売却の手続きは全て終わった。
手元に残したのは、家族のアルバムとノートパソコン、何日か分の着替え、預金通帳。新しく買った包丁。
当面必要なものを旅行カバンに詰めてみると、だいぶ余裕があった。私の半生など、詰め込めばその程度のものだったのだ。
家財道具の処分も不動産屋に任せた。その費用分は土地と家屋の査定額から引かれることになったが、当面暮らしていけるだけの金は手に入った。
しかし、役所に住所変更の届け出はしない。今日からは市内外のホテルや短期滞在向けのマンションを転々とすることになる。
今の時代、ネットにはホテルのWi-Fiで簡単に繋げられるし、飲み食いにも困ることはない。どうしても高速な回線環境とハイスペックなパソコンが必要なら、ネットカフェを使うという手もある。
ただし、会員登録のために身分証提示が必須となるネットカフェは、ホテルに比べれば足跡を残すリスクがある。極力避けるべきだろう。
カバンを手に、住み慣れた家を出た。スマホで撮影する気にはなれなかった。この目に焼き付けておけばいい。この家も、主を失い、もはや空っぽでしかないのだから。
大きなカバンを常に持ち歩くわけにはいかない。私はまず、駅のコインロッカーを目指した。
幸い、須賀駅のロッカーは最新の「スマートロッカー」ではなく、旧来の硬貨を投入して鍵を抜くタイプのものだった。
スマホアプリで解錠するスマートロッカーは、物理的な鍵を必要とせず利用者の利便性は高い。だが、最大のネックは個人情報の登録が必要なことと、使用履歴がデジタルなログとして管理されることだ。
警察がロッカーの利用履歴に目を付ければ、すぐに「佐伯辰雄」に辿り着いてしまう。
その点、旧式のロッカーはいい。
鍵さえなくさず、利用期間を過ぎなければ、管理会社はロッカーの使用者を特定できない。――アナログの隙間だ。だから、私は安心してロッカーに全財産とも言える荷物を預けることができた。
準備は整った。そうして、チャンスはすぐに訪れた。
早朝のコンビニ。イートインスペースで、私は後方から小西を見つめていた。缶コーヒーを飲みながら、男が朝食を食べ終わるのを待つ。
男のスマホが振動し、通話を始めた。一応、公共の場所だという意識はあるのだろう。小声で話し始めた。
「はい、小西です。ああ、その荷物でしたら……。いえ、きちんと引き継ぎを……。はい、すみません。気をつけます」
通話が終わると、小西は大きな溜息をついて立ち上がった。
慌てて追いかける必要はない。奴の行き先はわかっている。
30秒ほど経ってから私も席を立ち、飲み干した空き缶をゴミ箱へと投じた。
小西は、いつもの道をタバコをくゆらせながら歩いていく。
歩きタバコはおろか、指定された喫煙場所以外での喫煙が条例で禁じられて久しい。
健康増進法を根拠にしているが、煙がすぐに拡散してしまう野外で喫煙を禁じる合理性は私にはよくわからない。すぐ横を走る車からは常に排気ガスが出されているのに、それを対象とはしていないからだ。
だが、ルールはルールだ。ポイ捨てによって街は汚れるし、ちゃんと消せていなければ火災の原因にもなる。
この男は、ルールを破ることに全く悪びれたそぶりを見せない。あの日も、そうして平然と赤信号を渡ったに違いなかった。
充分な距離を開けてあとをつける。
スナックの間の路地に曲がったのを確認して、私も路地に入る。彼はすでに奥の空き地へと足を踏み入れている。もう一度通りを確認する。歩いている人はいない。時々、車が通り過ぎる音だけが聞こえる。
路地はビルの陰になり、太陽光が入らず薄暗くなっていた。
私は歩きながら、素早く滑り止めのついた軍手を装着した。カバンから新しい包丁を取り出し、水平に握りしめる。
池田の時の失敗は繰り返さない。何も聞かない、何も語らせない。ただ、処理するだけだ。
空き地に入ると、小西はしゃがみ込んで何かをしていた。入り口から5メートルといったところか。3秒あれば詰められる距離だと計算した。何かの理由で振り向かれたらやっかいなことになる。
池田の時に感じたような恐れや迷いは、もはやなかった。人としての躊躇は、あの廃墟に全て捨ててきた。
ただ、生理現象として、わけもわからずに手が震える。左手を右手に添え、深く静かに息を吐く。3つ数えるとぴたりと震えが止まった。
1歩目、踏み出す。足音は立てない。
2歩目、しゃがんだ背中がビクッと震える。反射で肩の贅肉が波打つように動いた。気配を感じたのか。
3歩目、小西が首から上だけを回してこちらを捉えようとする。
4歩目、横顔の目が驚きに見開かれる。
私は体全体で背中にぶつかった。勢いのままコンクリートの地面に押し倒す。小西の手から「ツナ缶」が転がり落ち、中身を地面に撒き散らした。
躊躇なく、的確に、刃を突き立てる。
男が動かなくなってから、包丁を抜き、外した軍手と一緒にコンビニ袋に入れてナップサックに押し込む。
小道に戻ろうとした、ちょうどその時だった。
猫の鳴き声がして、私は振り返った。
ビルの隙間、どこかから現れた子猫が3匹、動かない男に体を擦り寄せている。男が起きないとわかると、やがて諦めたように、小西がこぼした缶詰の中身を食べ始めた。
猫に餌を与えていたのか。あの缶詰はツマミではなかった。だとしたら……。
だが、そんな感傷はどうでもいい。私の息子を見殺しにした罪は消えない。
猫が餌を喰むピチャピチャという水音だけが、空っぽの空間を埋めていた。
私は通りへと戻り、再び街の景色に溶け込む。
これで、4分の2だ。残りの2人。それ以外に、今考えるべきことはなかった。あの男の存在は、私にとってそれ以上でも、それ以下でもなかった。そこに比較する意味自体が、もう、存在しなかった。




