閑話2 様式はいりません。寝なさい
天上府は、神々の役所が一部屋ずつ、長い廊下に沿って並んだ建物だ。戸の上にはそれぞれの名札が掛かっていて、夜が更けても、たいていの戸の下から灯りが細く漏れている。
天上府で、定時に灯りを消す役所は一つしかない。命と、働く者の体を受け持つ、コーローの役所だ。
終わりの鐘が鳴ると、コーローは胸の懐中時計の蓋を開けた。針が鐘と合っているのを確かめてから、自分の机のランプを吹き消す。
役所の奥で、白い大猫たちが一匹ずつ伸びをして、籠の寝床へ帰っていった。入れ替わりに、夜の番の三匹が、まだ半分閉じた目で起きてくる。
「今夜も、お願いね」
三匹は返事のかわりに、そろってあくびをした。
コーローは深緑の治癒衣の上で、白い前掛けの紐を結び直した。首の聴診器を胸の前にそろえる。大きな体を少しかがめて、暗い戸口をくぐった。
定時を過ぎても、コーローには一つだけ出かけていく用がある。
働きすぎの神の部屋へ踏みこむ、臨検だった。
ほかの役所の廊下は、どこも昼のように明るかった。
コクドの部屋の前では、手のひらほどの石の作業員たちが、図面の筒を担いで一列に歩いていた。十七番の足がもつれて、筒が傾いた。コーローはしゃがみこんで、その小さな背中に指先を当てた。
冷えている。石なりに、くたびれている。
「十七番さん。あなたは、もう上がりなさいね」
十七番は少し迷ってから、筒を十八番の肩に移した。それから、ころころと転がるように帰っていった。部屋の奥で、図面の上にかがんでいるコクドの背中は動かなかった。あちらは明日でいい。今夜の行き先は、もう決めてある。
廊下のいちばん奥に、いちばん明るい部屋があった。
戸の上の小窓から、紙の鳥が二羽、封筒の形のまま出ていった。入れ違いに三羽が入っていく。中では、判子の音とペンの音と、算盤の玉の音と、蝋の溶ける匂いが、途切れずに続いていた。
コーローは戸を叩いて、返事を待たずに開けた。
「臨検です」
四本の腕が、いっせいに跳ねた。一本が開いていた台帳を閉じ、一本が書きかけの紙を引き出しへ払いこみ、一本が判子を袖の中へ隠した。残る一本は、なぜか襟を正した。
灰色の文官の衣の神は、それから顔を上げた。目の下の隈が、前の臨検のときより一段濃い。
「……ご、ご苦労さまです。当方、ただいま、その、台帳を一冊、整理しておりまして」
言い終わるより先に、四本の腕は、もう元の仕事へ戻っていた。
判子が下りる。ペンが走る。算盤が鳴る。封蝋が垂れる。
コーローは懐中時計を開いた。
「ソーム。今朝の一つ目の鐘から、その椅子に座っていますね」
「照会が、本日分で四十一件ございまして」
「数は聞いていません」
コーローは机の横に回って、判子を持った手から、そっと判子を取り上げた。
判子を取られた手は迷わず引き出しを開けて、二つ目の判子を出した。
コーローはその判子も取り上げた。ペンを持った手から、ペンも取った。すると算盤の手が算盤を置いて、ペン立ての鉛筆を抜いた。封蝋の手だけは、まだ蝋を垂らす形のまま傾いている。
ソームの腕は四本、コーローの手は二本だった。
コーローは鉛筆を抜き取り、封蝋も外して、取り上げた物を前掛けのかくしに全部しまった。
「置きなさいね」
四本の腕が、のろのろと机の上に下りてきた。
机の端の一枚に、見覚えのある字があった。今日の夕方、定時の鐘の前に、コーローが自分で書いて出した意見書だ。トワルの修繕屋の生命力使用報告書に、あとから添える物だった。
ソームの目が、そこへ動いた。
「そちらの意見書も、拝受しております。当方にて、関係の神々への回付を……」
「それも明日でいいの」
「……しかし、明日の分の照会が……」
「明日の照会は、明日の照会です」
ソームは四本の腕を机の上で組み直した。二本ずつ、行儀よく重なった。それでも、指先のインクの染みが、机の上の紙のほうへ少しずつ寄っていく。
コーローは黙って、その指を見ていた。
ソームは口を開いた。言うことは、毎回同じだった。
「……休暇の申請の様式が……」
「様式はいりません。寝なさい」
戸口のほうで、小さな足音がした。
夜の番の一匹が、いつのまにかついてきていた。白い大猫は机の脚の匂いをかいで、軽く跳び上がった。紙の山を踏みかためて、開いたままの台帳の上で、ぐるりと回る。
そして、そこに丸くなった。
ソームは猫を見た。猫は目を閉じた。台帳の見開きは、白い毛の下に半分隠れていた。
四本の腕のうちの一本が、そろそろと猫の腹の下へ伸びかけた。猫の尻尾が、その手の甲を一度だけ叩いた。
腕は引っこんだ。
しばらく、部屋には紙の鳥の羽音しかしなかった。
「……本件、明朝に繰り越しで整理します」
「はい。よくできました」
コーローは机のランプに顔を寄せて、吹き消した。部屋の隅の長椅子に、ソームが灰色の衣のまま横になるのを見届けてから、戸を閉めた。中から、四本の腕のどれかが毛布を引き寄せる音がした。
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暗い自分の役所に戻ると、コーローは小さなランプを一つだけ点けた。
臨検簿を開いて、今夜の分を書きつける。
ソーム。連続在席、長時間。是正、済み。
コクド。作業員十七番、帰す。本人は次回。
机の端に、事前着手の控えの写しが回ってきていた。担保の欄には「左手」とあり、印が押してある。
コーローは臨検簿を閉じて、引き出しのいちばん奥から、薄い綴りを一冊出した。表紙の字は「命の担保」だけだった。
めくっていくと、字のある最後の頁は、インクが茶色く褪せていた。そのあとには、白い頁がずっと続いている。
褪せた頁の次に、ペンを下ろした。
トワルの修繕屋。左手、握り。経過観察。
書いているうちに、机の上がふっと重くなった。
もう一匹の夜の番が、綴りの上に乗っていた。ペン先のすぐ横で、前足をそろえて、こちらを見上げている。
コーローは猫を見た。猫は、まばたき一つしなかった。
今夜、天上府でいちばん遅くまで働いているのは誰なのか。そう咎められているようだった。
コーローは懐中時計の蓋を開けた。針は、終わりの鐘から、ずいぶん先まで回っていた。
「……そうね。わたしも寝るわ」
コーローはペンを置いて、懐中時計の蓋を閉じた。ランプを吹き消すと、白い毛の形だけが、しばらく闇の中に残っていた。
その夜、天上府の灯りが、一つ減った。
"本日の不受理
申請:台帳の上で眠る許可
申請者:コーローの役所 夜の番の白い大猫
結果:不受理(理由:すでにお休み中のため、審査ができません)"




