閑話1 四本の腕
ここから毎日12時で投稿します。連載版の新しいお話は、ここから。天上府で働く神様たちのお話です。
天上府の夜は、灯りが落ちない。
記録の神ソームの部屋は、長い廊下のいちばん奥にある。机が一つ、椅子が一つ、壁には天井まで届く棚。どこの町役場にもありそうな一部屋で、窓だけが夜通し開いている。
世界じゅうから届く許可の控えを、綴じて残すのが、この神の役目だ。
その窓を、紙の鳥が出入りしていた。封筒の形のまま舞いこんで、机の上で羽をほどくと、一枚の控えになる。あちこちの神殿で、きょう受け付けた申請の控えだった。港の桟橋の継ぎ足し、山あいの関所の屋根の葺き替え、地図の端の小さな村の井戸の浚い。窓の外では、順番を待つ鳥が列をつくって、夜空に白い線を引いている。
ソームの灰色の文官の衣からは、腕が左右に二本ずつ、四本出ている。袖を四本とも肘までまくり上げ、右の二本に判子とペン、左の二本に算盤と封蝋を握って、同時に動かしていた。一枚を綴じるのに、ひと呼吸もかからない。区域を書き違えた控えが混じっていても、目を落とさずに、正しい綴りへ移していく。棚には区域ごとの綴りが並んでいて、夜が明けるまでに、そのどれにも今日の分が綴じ込まれる。
机の隅の湯呑みは、とうに冷めていた。
「……本日分、例年の三割増しです」
返事をする者はいない。棚の中ほどで、トワルの綴りだけが、両隣の倍ほどにふくらんでいる。窓から、次の鳥が三羽入ってきた。ソームは算盤を持った手の甲で、目の下の隈をこすった。判子とペンと封蝋の三本は、そのあいだも止まらなかった。
机の端に、一羽だけ動かない紙の鳥がいた。
けさ早く、トワルへ承認を運んでいった鳥だ。戻ってくると、嘴にくわえてきた控えを机に置いて、そのまま羽を畳んだ。運んだ一枚が綴じられるまで、机を離れない鳥だった。ときどき首を伸ばして、紙の山の減り具合をのぞいている。
新しく入ってきた一羽が、その控えの上に降りようとした。待っていた鳥が片方の羽を広げて、押し戻した。
「お待たせしました。トワルの分です」
ソームは控えを手元に引き寄せた。
隅に、事前着手の印が押してある。この印のついた控えが机に来たのは、何十年ぶりのことだった。同じ形の印が、申請者の左手の甲にも出ているはずだ。けさは、ほかの束より先に抜き出して、判だけ押して送り出した一枚だった。
「第七区域、特定修繕。事前着手あり。現地にて、コクド、ザイムの二柱が審査のうえ協議済み。条件付き承認、発送済み。控えはトワルの綴りで整理します」
読み上げながら、封蝋の手が綴じ紐の先を穴に通しかける。待っていた鳥の羽が、かすかに控えの端をこすった。
紐の先が、穴の手前で止まった。
どの状態へ戻すか、の欄だった。
どの石にも、無理がかかっていない状態。
人の手の字だった。少し右へ傾いていて、最後の「状態」だけ筆の跡が濃い。
ソームは、トワルの石積みを見たことがない。この部屋から見える世界は、どれも紙の形をしている。竣工の日付と、図面の番号と、検査の印がそろえば、どこの石積みも、この机の上で確かめられた。
状態は書いてある。いつの状態かが、書いていない。様式の上では、不備になる。
判子とペンと算盤の手は、まだ動いている。封蝋の手だけが、紐をつまんだまま動かない。
ペンの手が、補正依頼の用紙を一枚引き寄せた。「どの状態へ」の欄につき、時点の記載を求めます、まで書いて、ペン先が浮いた。
その一行のすぐ下に、コクドとザイムの確認の印が並んでいた。図面を見るまで判を押さないコクドも、十年先の数字まで問うザイムも、日付のない一行を、そのまま認めている。
……なぜ、通したのか。
控えの裏に、二柱の審査の記録が一枚ずつ留めてあった。
一枚は、コクドの字だった。彫刻刀で刻んだような、角ばった字だ。
竣工の図面どおりに戻せば、流れは一つの石に寄る。同じ石が、また割れる。
石は、我輩が叩いた。無理のかかった石は鳴らない。どれも鳴った。
そう積めば、百年もつ。
もう一枚は、ザイムの字だった。細く、行の端まできっちりそろっている。
百万を流して、十年先にまた詰まるのなら、捨てるのと同じではありませんか。わたくしは、そう問いました。
流れは見ました。どの石の前でも、同じ速さです。
一つの石に寄せないのなら、どこが、また詰まるのです?
算盤の手が、二枚の記録を控えの横に並べた。日付のない一行なら、竣工の図面と見比べなくていい。石を叩けば、その場で確かめられる。
インクが一滴、用紙の端にたまった。
紙の鳥が、畳んでいた羽を半分ひらいた。
ペンの手が、補正依頼の用紙を二つに折って、足もとの屑籠へ落とした。
「……前例が、ございませんね」
算盤の手が棚の高い所へ伸びて、特定修繕の書式集を抜き出した。背の擦り切れた、古い綴りだった。記載例の頁を開くと、城壁、水門、橋の欄干と、何百年ぶんもの例が並んでいた。どの状態へ、の欄には、どれにも同じ言葉が入っている。
竣工時の状態。
どの例にも、隣に竣工の日付が添えてあった。
ペンの手が、トワルの控えの一行をそのまま写した。封蝋の手が、その写しを、竣工時の状態の記載例の隣に綴じ込んだ。
「記載例に、一件追加します」
控えのほうは、トワルの綴りへ綴じた。
紙の鳥は、新しく綴じた頁の端を、嘴で一度だけつついた。それから羽を胴に巻きつけて、封筒の形に戻った。机の端から小さく跳ねて、窓の外の夜へ出ていった。
冷めた湯呑みの横に、今夜届いた紙が二枚、重なっていた。
一枚は、治癒の神コーローの意見書だった。
もう一枚は、結界の神ボエイダの報告書。「第七区域 杭 一 復旧」
判子の手が、トワルの綴りの背に今夜の日付を押した。そのあいだに算盤の手が、報告書を綴じるために、棚のいちばん下の段から、この部屋でいちばん古い台帳を引き出した。綻びの台帳だった。
封蝋の手が、第七区域の頁を開いて、報告書を綴じた。
頁には、トワルの町はずれの綻びのことが書き留めてある。地面が、布の端のようにほつれて裂けている。裂け目のへりから、細い光の糸が何本も立つ。泥獣は、そのへりの土から湧いてくる。
綻びは、どの神の受け持ちでもない。直し方を知る神が、一柱もいなかった。それで神々は、直せないまま、まず囲うことにした。まわりに柵を立て、杭に結界を張らせる。その仕事を受け持つ神として生まれたのが、ボエイダだった。
それでも頁の下には、修繕の申請の欄が刷ってある。いつか直す日のために、用意しておいた欄だった。何を、どの状態から、どの範囲で。そこまでは埋まっている。
どの状態へ、の欄だけが空いていた。前の頁も、その前の頁も、同じだった。
修繕は、元の姿に戻すことだ。元の姿は、竣工の図面と日付が決めてくれる。けれど綻びは、誰かが造った物ではない。裂ける前の地面がどんな姿だったか、天上府のどの綴りにも残っていない。戻す先が書けなければ、修繕の申請は出せない。
ソームの目が、机の上の書式集へ戻った。竣工時の状態の隣に、さっき綴じたトワルの一行がある。
どの石にも、無理がかかっていない状態。
いつの姿に戻すかは、書いていない。どうなっていればいいかだけが、書いてある。
……綻びも、状態で書けるのでは。
算盤の手が、トワルの綴りを繰った。いま綴じた控えの申請者の欄に、レト・ハイネ、とある。同じ名前の控えが、その前に十二枚挟まっていた。どれにも、不許可の印が押してある。
天上府の夜に、四本の腕が、ひと呼吸だけ、そろって止まった。




