第5話 見て分かることを、言葉にしなさい
序章(7話)までは1日3回(12時、18時、6時)に投稿して、それ以降は毎日12時に投稿します。
振興会館の地下へ下りる階段は、途中で石から煉瓦に変わった。
先頭はガルムだった。担架の柄の棒を一本、杖のように突いている。その後ろにレトが槌と楔を腰に下げて続き、書類鞄を胸に抱えたミレア、図面筒を担いだサカド、腰の高さほどもある鉄の開閉鍵を肩に乗せたネイラの順に降りた。
古い水路には、膝の深さまで泥水がたまっていた。ランタンの光が水面で揺れて、天井の苔を照らした。崩れた石が、ところどころで水をせき止めていた。
レトの足が、勝手に遅くなった。崩れた石を見ると、どうしても手が出そうになる。
気づくと、ネイラが隣を歩いていた。開閉鍵の重さで、肩が片方だけ下がっている。
「……配分官は、なんで来たんだよ。鍵なら誰かに渡せばいいじゃん」
ネイラは少しのあいだ、前を見たまま歩いた。
「私の島は、配分表の一行で消えました」
「……一行で?」
「島の結界へ回す行が、消されたんです」
それ以上は、言わなかった。
「……そっか」
泥水を踏む音だけが、二人ぶん続いた。
古い水路が尽きると、急に壁がきれいになった。
手で据えた石が終わり、型に流して固めた灰色の壁に変わる。目地が一本もない。天井が高く、床にも壁にも、マナを流すための銀の線が細い溝になって走っている。線は網の目のように枝分かれして、通路の奥へ続いていた。壁に打ちつけた真鍮の銘板には、「振興事業 第三期」とあった。
入ってすぐの床に、番号を振った鉄の丸い蓋が三つ並んでいた。その先の壁ぎわには、錆びた鉄の箱が一つ据えてある。
「新しいほうの水路だ」サカドが図面の四角い印と見比べた。「弁が三つに、排水の箱が一つ。俺が最後に見たときのままだな」
前の暗がりで、ぬちゃりと音がした。
ガルムが立ち止まった。腰の銃に手をやり、抜く寸前で止めた。
「……ここは柵の手前だ。この弾は、柵の向こうの相手にしか使えねえ」
この水路には、柵も杭もない。
床の銀の線から、泥が盛り上がった。
泥の塊に、崩れた石がいくつも埋まっている。床を掻いてこちらへ向き直っても、足の先は銀の線から離れなかった。あの柵の向こうと同じ、腐った土の匂いがした。
「下がれ!」
ガルムが棒を横に払うと、泥獣の前足がそれて壁に当たり、泥がはねた。その隙に、レトは懐に飛びこんだ。泥の中の石と石のあいだに楔を当て、槌を振り下ろす。継ぎ目が割れて、泥獣の片側がずるりと崩れた。
崩れた泥は、床の銀の線に吸いつくように集まった。線がかすかに光る。光っているのは、入口に並んだ三つの蓋のうち、いちばん奥の三番から伸びてきた線だけだった。泥が盛り上がり、さっきと同じ形に戻った。
泥獣の前足を棒で受けながら、ガルムが叫んだ。
「嬢ちゃん! こいつの所管は!」
ミレアが胸の資格章に手を当てた。その目は、牛ほどの体と、這って床を掻く四つの足と、吠えるように身をよじる動きだけを追っていた。
『所管確認。……本件、所管は、生き物と確認する』
胸の章が一瞬光って、ぱちんと消えた。
泥獣には、何も起こらなかった。
ミレアが、光の消えた章を見下ろした。
「不受理!?」
床の銀の線がいっせいに光り、泥の体がひとまわり膨らむ。前足に押されて、ガルムが棒ごと膝をついた。
ミレアが叫んだ。「どうして! どう見ても生き物なのに……!」
レトが言った。「あんたの見方が違うんだよ」
「じゃあ何が違うの!」
「何がって……」レトはさっき割った継ぎ目の手応えを、手のひらで思い出した。「見りゃ分かるだろ」
「見て分かることを、言葉にしなさい!」
レトは口を開けた。手の中には答えがあるのに、一つも言葉にならなかった。
「……あの線だ」
レトは、床を指さした。崩れた泥が戻ったとき、一本だけ光っていた線だ。「さっきも、あの線から戻った」
サカドが、ランタンを床に向けた。銀の線が、泥獣の足もとから入口の蓋のほうへ伸びている。
「戻るのは、その線からマナを吸ってるからだ。線は入口の弁から来てる。三番だ! 課長、閉めろ!」
ネイラはもう、開閉鍵を肩から下ろしていた。床の鉄の蓋をはね上げ、弁に鍵を差しこむ。
「三番、閉めます」
鉄の鍵が、重い音を立てて回った。銀の線の光が、入口のほうから順に消えていく。泥獣の体は、それ以上ふくらまなくなった。
「……マナは、もう吸えません」
「マナは止まった。次は水だ。……あれだ」サカドが通路の脇の錆びた鉄の箱に駆け寄った。「第三期で入れた排水ポンプだ。俺が見積もった」
蓋を叩き開け、上着の内から出した工具で中をいじりながら、泥獣を顎で示した。
「図体のわりに足が遅い。固定費がでかい体だな。あの形を保つのに、水とマナを食いっぱなしだ。……泥なら、水を抜けば鈍る。ガルム、押さえてくれ!」
「レト、壁が来る!」
振り向くと、ミレアが壁を指さしていた。泥獣がぶつかった所から、石が二つ、三つとずれかけていた。
レトが魔物を相手に魔法を使えば、包括許可の目的外になる。石を元の場所へ戻すだけの修繕だと、神様に分かってもらうしかない。
『これは修繕です』
聞こえるように言い張ってから、レトはずれた石を手のひらで押し戻した。押し戻した石が、目地へすっと収まった。その脇に楔を打ちこむと、石はもう動かなかった。見て分かることを言葉にしなさい、というミレアの声が、まだ耳の奥に残っていた。
ポンプが咳きこむように動き出した。サカドは吸水管を引きずってきて、網のついた先を泥獣の脇腹に突き立てた。網に石が当たって鳴り、泥水だけが管を駆け上がって、通路の溝へ吐き出されていく。サカドは取っ手を回しながら、ぼそりと言った。
「全部、借りたマナで買った機械だ。今夜やっと役に立った」
「……おっさん、借りるなって言ってたよな。なんで借りちゃダメなんだよ」
喉に引っかかっていた言葉が、口からこぼれた。工房の道具が古いままなのは、親父が借りなかったからだ。
取っ手を回すサカドの手が、一度だけ止まった。
「……全部借りて、全部なくしたのが、俺だからだ」
それきり、サカドは取っ手を回し続けた。
泥水が抜けるにつれて、泥獣の体がしぼんでいった。中から、積み重なった石が浮き出てくる。ガルムが棒で押さえこみ、レトがその石と石のあいだに楔を当てた。
叩くと継ぎ目が割れ、泥は、すぐには集まってこなかった。
レトは手を止めて、割れた所に指を当てた。泥の下は、ざらりと固かった。積んだ石の重なり方を、指でたどる。
「……中は泥じゃない。石だ。生き物みたいに這ってるけど、積み方は石垣と同じだ。下の石が、上の重さを受けてる」
「水は半分抜けた」サカドがポンプ越しに言った。
ネイラが流量計の針を読んだ。線を流れるマナの量を測る針だ。
「流入、ゼロです」
ミレアの目が、三人の顔を順に見た。それから、もう一度泥獣を見た。
「中は積んだ石。水は抜けた。流れこむマナもない」指を一本ずつ折っていく。「生き物じゃない。動いてるだけ。……これは、土地だ」
胸の章に手を当てる手つきは、さっきよりゆっくりだった。
『所管確認。……本件、所管は、土地と確認する』
胸の章が光って、そのまま消えなかった。
「……受理」
ミレアが、小さな声で言った。
床の石が割れて、岩が伸びた。太い岩の枷が泥獣の四つ足に巻きつき、そのまま地面へ引きずりこんでいく。泥は土に戻り、石は床の石と見分けがつかなくなった。
ポンプの音のほかは、何も聞こえなくなった。
サカドが取っ手から手を離すと、ポンプの音がゆっくり止んだ。
ガルムは棒に体をあずけて大きく息を吐き、ネイラは流量計の針を確かめた。
ミレアが、泥だらけのレトの手を見た。
「レト。手、切れてない?」
「……平気。ミレアこそ、眼鏡」
ミレアは泥のはねた丸眼鏡を外して、袖で拭いた。それから、そっぽを向いた。
「よく通したな、嬢ちゃん」ガルムが笑った。
「嬢ちゃんって呼ばないでください!」
怒った顔のまま、ミレアの口もとはゆるんでいた。
叫んだ声が、通路の奥へ吸いこまれていった。
返ってきたのは、こだまではなかった。もっと奥のほうから、低い音が、足の裏に響いてきた。
"本日の受理
申請:★の評価
申請者:地下まで付いてきてくださった方
結果:受理(理由:審査はありません。下の欄からどうぞ)"




