第4話 担保は、命よ
序章(7話)までは1日3回(12時、18時、6時)に投稿して、それ以降は毎日12時に投稿します。
電信局の灯りが消えると、旧市街で明るい窓は、ほとんどなくなった。坂の上の振興会館の、一階の端の窓だけだ。
レトは走った。細く開いたままの正面の扉を肩で押し開け、暗い廊下を抜けて、灯りの漏れる戸を叩きもせずに開けた。
「……何時だと思ってるの」
ミレアは机に書類を広げたまま、丸眼鏡の奥からレトを見た。
「親父が、崩落に巻き込まれて」
息が続かなかった。レトは戸口に手をついて、治癒院と配分所で聞いてきたことを、切れ切れに並べた。
「……電信も、止められた」
ミレアは一度も口を挟まなかった。聞き終えると立ち上がり、棚から分厚い書式集を引き抜いた。
「あんたが十二回落ちた申請、何だった?」
「今それ関係ないだろ」
「あるから聞いてるの」
「……壊れたもんを、元に戻す魔法」
「石積みを直す申請でしょ。龍脈のふちも石積みなら、あの申請と同じ種類で出せる。でも、あんたが持ってる簡単な修繕の包括許可の枠には入らないから、今夜のうちに、緊急で個別に出す」ミレアは書式集を閉じた。
戸口で、咳払いがした。
小柄な男が立っていた。仕立てのいい上着の袖口がすり切れていて、肩に図面筒を掛けている。受付の帰りに、廊下の絵の前で立ち止まっていた男だ。
「悪いな。崩れたと聞いて、家から昔の図面を引っぱり出してきた。この下の新しい水路は、若いころ俺が見積もった所でな。確かめに来たら、景気の悪い話が聞こえてな」
「どちら様ですか」ミレアの声が、客に向けるものに戻った。
「サカド・カナール。商店街の診断屋だ」
その名前を、レトは工房の奥の事務机で聞いたことがあった。
「おっさん……うちの工房に来て、マナを借りるなって言った人だろ」
「言ったな」男はあっさりうなずいた。「ハイネの工房の子か。親父さんは」
答える前に、廊下を重い足音が近づいてきた。整えた髭の大男が戸口をふさぐ。ガルムだ。
「やっぱりここか、坊主」
「ガルムのおっちゃん、親父は」
「命は取り留めた。今は眠ってる」ガルムはそれだけ言って、レトの肩をつかんだ。「で、お前は何をしに来た。また降りる気なら、わしが担いで帰るぞ」
その後ろから、もう一人入ってきた。首から真鍮の流量計を下げ、脇に台帳を抱えている。
「……配分官」
「閉塞点を割り出しました」ネイラは机の書類の上に台帳を開いた。「この建物の真下です。下りる扉の鍵を、持ってきました」
「だったら、なんで治癒院を後回しにしたんだよ。下を直せば済むだろ」
ネイラは胸の流量計に目を落とした。「電信を止めても、針は止まりませんでした。配分では、延ばせても直せません。直す方法がありません。ですから、聞きに来ました」
サカドが、レトとネイラの顔を見比べた。
図面筒から紙を一枚抜いて、裏返した。
「いったん整理しよう。論点は三つだ。下に何があるか。どう直すか。それを誰が神様に出すか」紙の裏に線を三本引く。「誰が、何を、いつまでに?」
「下の数字は、私が出します」ネイラが台帳に手を置いた。
レトは槌の柄を握り直した。「直し方は、俺が分かる」
「書類は私が作ります」ミレアがペンを取った。
「で、トセラ先生」サカドは戸の札をちらりと見た。「いつまでに?」
「からかわないでください」ミレアは言い返してから、ネイラを見た。
「夜明けまでです」ネイラが答えた。
「わしは」ガルムが腕を組んだ。「お前らのうち誰が倒れるかを見てる」
ミレアのペンが、様式の欄を上から埋めていった。書いては線で消し、消した横にまた書く。「どの状態へ戻すか」の欄で、ミレアは書式集の見本を一度見て、迷わずペンを動かした。
振興事業の竣工時の状態。
「工事が終わった日の形に戻すってこと。記載例どおりよ」
レトは横からその一行を見ていた。
「……それ、なんか違う」
「どこが」
「分かんない。でも、違う」
「理由を言えないなら黙ってなさい」
言ってから、ミレアのペン先が紙から浮いた。すぐに、また下りた。
レトは黙った。手の中で、槌の柄が汗ですべった。
**
夜の小神殿の受付は、どこも閉まっていた。治癒院の隣の夜間窓口だけが、まだ開いていた。
格子の向こうに座っていたのは、母のペトゥラだった。袖口に朱肉の跡がある。
ペトゥラはレトの顔を見て、一度だけまばたきをした。その目が、治癒院のある側の壁へ動いて、戻った。それから窓口の声で言った。
「ご用件を承ります」
「緊急です」ミレアが申請書を差し出した。押印の欄に、「印」と書いた付箋が貼ってある。
ペトゥラは中身を読まずに、欄が全部埋まっていることだけを確かめた。
受付でいつも言われる印鑑を、レトは鞄から出しかけた。そこで母の声がした。
「印鑑は……今回は、結構です」
レトの手が止まった。ミレアが格子の下から手を伸ばし、「印」の付箋を剥がして、何も言わずに握った。
「受け付けました。こちらでお預かりして、回します」
ペトゥラが封をした申請書を奥の台に置くと、封筒の角がひとりでに折れはじめた。翼の形に、頭の形に。紙の鳥は一度羽ばたいて窓口の天窓を抜け、暗い空へ上がっていった。
レトは、鳥の抜けた天窓に向かってつぶやいた。
「人同士の電報は止まってんのに、神様への申請だけは届くのかよ」
母は何も言わなかった。
**
事務所に戻ってから、誰も座らなかった。
サカドが懐中時計を開けては閉じた。ネイラの胸の流量計の針は、さっき見たときより、また少し左に寄っている。
窓が、こつこつと鳴った。
ミレアが開けると、紙の鳥が机に降りて、ひらいて一通の書類に戻った。
「……補正命令」
「不許可じゃないんだろ」
「不許可じゃない。でも」ミレアは書類を読み進めた。「所管がまたがるから、協議の書類を出せって。石の所管と、流れの所管の両方に。行って、戻って、また行って……早くて三日」
「夜明けまでです」ネイラが言った。
ランプの芯が、じりっと鳴った。
ミレアは補正命令を、もう一度上から読み直した。指が一行ずつ下りていき、末尾の小さな但し書きで止まった。
「……待って。緊急の場合は、事前着手……」
サカドが、ミレアの肩越しにのぞきこんだ。
「事前着手? うちの業界じゃ毎週聞く言葉だ」
ミレアの顔から色が引いた。
「一緒にしないで。……ケイザー様のマナ補助とは違うのよ。魔法の事前着手の担保は、命よ」
サカドが口を閉じた。
ミレアは書式集の後ろのほうを開き、但し書きのもとになった条文を探し当てた。
「許可の前に始められる。その代わり、始めた本人の命を預ける。審査は、受け持ちの神様が、その場でなさる。通れば戻る。不許可なら、没収」
「……没収って」
「返ってこないってこと」ミレアは条文から目を上げなかった。「試験には出るけど、実務で使った人はいない」
「認められません」ネイラが先に言った。「生命力の量は、私の台帳には載っていません。載っていないものは、配分できません」
「わしの前で、若いのに命を張らせるか」ガルムの声は、いつもより低かった。
レトは槌の柄を強く握った。それでも、膝の震えは止まらなかった。
「……怖い」口に出すと、よけいに震えた。「でも……」
その先が出てこなかった。誰も、続きを急かさなかった。
「下までは行く」声が少しかすれた。「決めるのは、石を触ってからだ」
ミレアは何か言いかけて、書式集を鞄にしまった。
ガルムが長いため息をついた。「なら、わしも行く。倒れたら誰が担ぐ」
「下へ行く前に、一つ見せたいものがある」
サカドが言った。
廊下の壁の、色あせた計画の絵の前で、サカドは図面筒から黄ばんだ図面を一枚出した。
「振興事業が終わったあとに出した報告書の、図面の写しだ。捨てろと言われて、捨てられなかった」
ランプを近づけ、絵と図面を並べた。ほとんど同じだった。サカドの指が、図面の上で何本にも分かれた線を順にたどり、それから絵の同じ場所の、太い一本の線をなぞった。絵の右上の四角囲みの、細かい字の終わりに、こうあった。
龍活協分科会(改)。
サカドが、その四角を指でたたいた。
「振興事業を回してた寄り合いだ。この『改』は、あとから計画を書き換えたって印だ。この絵は、図面から線を変えてある。その届けが、天上府には出てないぞ」
「……一本に、寄せたのかよ」
レトは線が一本に集まる所を、指で押さえた。「水路でも、流れを一か所に寄せたら、そこの石から割れる」
サカドは答えなかった。ネイラが台帳を開いて、線の寄った一点と見比べた。
「閉塞点と、同じ場所です」
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降りる前に、レトは治癒院に寄った。
寝台のドーマは、目を開けていた。包帯の上から、節の太い指が毛布をつかんでいる。
レトは何から言えばいいのか分からなかった。
「……親父」
ドーマは天井を見たまま、少し黙った。毛布をつかむ指が、一度だけ強くなった。
「……石は、叩いてから据えろ」
「……うん」
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振興会館の地下への扉は、鉄でできていた。
ネイラが懐から扉の鍵を出して、差しこんで回した。錆びた蝶番が鳴った。扉の向こうから、湿った土と古い油の匂いが上がってきた。




