第3話 二万七千人と、親父
序章(7話)までは1日3回(12時、18時、6時)に投稿して、それ以降は毎日12時に投稿します。
暗い通りの向こうで、誰かが叫んだ。
「広場が抜けた!」
親父が、ものも言わずに道具箱からロープと槌をつかんだ。
「親父?」
「来い」
崩れた所は、工房から通りを二本はさんだ広場の下だった。
石畳が皿のようにへこみ、真ん中に黒い穴が開いていた。親父は穴の縁にしゃがみ、ランタンをかざした。
「下を見る。ロープ持ってろ」
親父は、その場にいた作業員を二人連れて、崩れた先へ下りていった。レトは上に残り、ロープの端を握った。
地の底で、またあの低い音がした。
今度は、足もとのすぐ下だった。
「親父!」
ロープが手の中で跳ね、穴から土煙が噴き上がった。
それからのことは、順番がはっきりしない。レトは穴に飛びこみ、崩れた石を素手でどけた。ランタンの灯りの中に、親父の、節の太い指が見えた。親父の脚の上に、レトの胴ほどもある石が乗っていた。
「親父!」
石に肩を入れて押した。動かない。もう一度押した。誰かの手がいっしょに石をつかみ、石が、ずるりと傾いた。
気がつくと、治癒院にいた。
灯りは半分しか点いておらず、うす暗い中に寝台がいくつも並んでいた。作業員の一人が、肩を押さえてうめいている。
親父の寝台の横には、治癒院の主任のガルムが膝をついていた。左手に古い大きな傷のある大男で、レトが子どものころから知っている顔だ。その両手が親父の脚の上にかざされ、手のひらから治癒の光が出ていた。
細かった。いつもなら寝台ごと包むような光が、糸のように細い。光が揺れるたびに、ガルムの額に汗が浮いた。
「マナが来ねえ」
ガルムは親父から目を離さずに言った。
「町じゅう、どこもだ。崩れたのは水路だけじゃねえ。龍脈がどっかで詰まってる」
「親父は……」
「やってる」
ガルムは片手を親父の手首に移したきり、口を開かなかった。
親父の顔には、血の気がなかった。目は閉じたままだった。
母には、まだ知らせていない。治癒院の隣の小神殿で、夜番のはずだった。
レトは自分の手を見た。爪が割れて、指の皮がめくれていた。穴の中で、ほかにも誰か埋まっていたかもしれない。まだ石の下に。
レトが戸口へ向かおうとすると、ガルムが片手を光から離し、振り返りもせずにレトの手首をつかんだ。
「どこへ行く」
「穴。まだ誰か……」
「全員出た。お前が出した」
「でも、まだ崩れるかもしれないだろ。見てこないと……」
「座れ」
「ガルムのおっちゃん、俺は……」
ガルムが、つかんだ手首の先に目を落とした。
「怪我人はコーロー様の管轄だ。お前もな」
ガルムの手は、少しも緩まなかった。
「その手で石を積む気か、坊主。座れ」
レトは座らなかった。手首をつかんでいた手が、ふっと離れて、親父の脚の上の光へ戻った。
寝台の上で、親父の指がかすかに動いた。光は細いままだった。
「マナはどこで止まってんだよ」
「配分所に聞け。わしには分からねえ」
レトは走り出した。
**
王府の庁舎へ向かう通りは、街灯が消えて真っ暗なうえ、人と荷車で詰まっていた。レトは川沿いの土手へ回った。土手は町はずれで、結界の柵に沿って曲がっている。
暗い土手の先で、乾いた銃声が鳴った。
柵の手前に、町の年寄りの冒険者が四、五人、間を空けて並んでいた。柵の向こうの暗がりで、泥の塊のようなものがいくつも動いている。泥獣だ。この柵から向こうが囲いで、泥獣は結界でそこに閉じこめてある。いつもなら柵のずっと奥にいて、ここまでは寄ってこない。土手の内側には、川沿いの長屋の低い屋根が、柵のすぐ手前まで並んでいる。灯りの消えた戸口の一つに年寄りが一人、椅子を出して座り、柵のほうを見ていた。
一番手前にいた小柄な老婆が、古い単発の銃に一発だけ込めて、撃った。柵に這い上がりかけていた泥の塊が崩れ落ちる。老婆は銃を下ろすと、その場にしゃがみこみ、膝の上の分厚い帳面に何か書きつけた。それから、角の丸くなった印鑑を、帳面に押した。
立ち上がって、次の一発を込める。
レトは泥の塊から目が離せず、足を止めていた。
老婆は、隣の年寄りが肩にかけた長い弾帯を、もったいなそうに見た。
「海の向こうのニューディールなら弾帯ごと撃つ。……ここはヒノアさね」
それから、レトに気づいた。
「修繕屋の子かい」
「……セルマのばあちゃん」
セルマは帳面に、もう一つ印鑑を押した。
「柵の向こうの相手にしか撃てん弾さね。……行政術士でもいて、所管が取れりゃ、神様がまとめて引き取ってくれる。一発ずつ撃たんでも話は早いんだがね」
セルマは土手の下の屋根へ目をやった。
「柵が消えりゃ、こいつらは土手を下りる。最初は、あの長屋さね」
それから、柵の一か所を顎で示した。杭が一本、斜めに傾いたままになっている。
「あれ、まだ誰も直さん」
レトはその杭を知っていた。あの杭の向こうに、子どものころに一度、入ったことがある。泥の匂いと、目の前で持ち上がった黒い塊。その帰り道に見たときから、杭は傾いたままだった。
柵の向こうで、また泥が動いた。セルマが一発込めて、撃って、しゃがんだ。その後ろを抜けて、レトは土手を走った。
**
王府の庁舎は、旧市街で一番古い石造りの建物だった。二階の窓だけが、ぼんやり明るい。
「第七地域マナ配分所」と書かれた扉を開けると、職員たちが机のあいだを走り回っていた。奥の一番大きな机に、灰茶の髪を短く切りそろえた女が座っていた。机の上に、分厚い台帳が広げてあった。女は首から真鍮の流量計を下げ、それを懐中時計でも見るように手のひらに載せていた。机の札には「配分課長 ネイラ・アデル」とあった。
机の上の灯りは、油のランプだった。この部屋の天井の灯りは、一つも点いていない。
「配分官」
レトは机の前に立った。
「親父が治癒院にいる。下敷きになった。……治癒院に、マナを回してくれ」
ネイラは顔を上げた。その目が、レトの割れた爪に一度だけ落ちた。
「ハイネ工房の、ハイネさんですね」
それから、流量計の針を見た。
「その要望は、配分計画の第三順位に劣後します」
「……つまり、後回しってことかよ」
「はい」
ネイラは台帳に目を戻し、ペンを動かしはじめた。開いた頁には、町の下を走る線が細い升目の上に引いてあり、ペン先がその線を一本ずつたどっていた。
レトは机に両手をついた。
「人が死ぬんだぞ!」
職員たちの足が、一瞬止まった。
ネイラはペンを置き、台帳を半回転させてレトのほうへ向けた。線のわきに、細かい字と数字が、ページの端まで詰まっている。ネイラの指が、その上に置かれた。
「あなたには一人が見えている。私には、この街に住む二万七千人が見えています」
声は大きくなかった。台帳に置いた指の先が、白くなっていた。
「……その二万七千人に、親父は入ってないのかよ」
「入っています」
ネイラは台帳から指を離さなかった。
机の端に、紙の束があった。電報の控えだった。一番上の紙に、カタカナが一行。
トワル リュウミャク ヘイソク シジ コウ
その下にも、同じ文面の控えが二枚重なっていた。返事らしい紙は一枚もない。
「所長は王都です。予算の会議だそうです」
ネイラは控えに目もやらずに言った。
「本局は、確認中です」
職員の一人が駆けてきて、ネイラの耳元で何か言った。ネイラは流量計の針を見た。レトの目にも、針が下がっていくのが分かった。ゆっくりと、止まらずに。
「結界がもつのは、夜明けまでです」
ネイラは壁ぎわに目をやった。マナの送り先ごとに取っ手が並んだ、鉄の盤がある。盤の横の釘には、札のついた鉄の鍵がいくつも掛かり、その下に、柄の長い鉄の鍵が一本立てかけてあった。
「最後の電報を打ってください」
ネイラは紙に一行書いて、職員に渡した。職員が読み上げる。
「ケッカイ ユウセン デンシン テイシ ダイケツ ス」
レトは頭の中で、それを字に直した。結界、優先。電信、停止。
「……電信の分を、結界に回すのかよ。止めたら、もう王都に何も聞けないじゃん」
「はい」
ネイラは職員のほうへ顔を向けた。
「打ち終わったら、知らせてください」
職員が走っていった。ネイラは流量計の針を見ていた。
しばらくして、隣の部屋から声がした。
「送信、終わりました」
ネイラは引き出しから判子を出し、決裁の紙にまっすぐ押した。
朱色の字が、紙の上に残った。
所長不在につき、配分課長代決
「代決?」
レトは聞き返していた。
「所長の代わりに、私が決めます」
ネイラは立ち上がり、鉄の盤の前へ行った。取っ手の下の札に、「電信局」「中継所」とある。端の一つだけ、札が「結界所」だった。そばにいた年かさの職員が、何か言いかけた。
ネイラは職員を見ずに言った。
「このままじゃ、ハシマの二の舞です」
職員はそれ以上何も言わなかった。
ネイラは「電信局」と「中継所」の取っ手を、順に下ろした。端の「結界所」の一つだけが、上がったまま残った。重い金属の音が、部屋に二度響いた。下ろしたあと、その手が少しのあいだ取っ手から離れなかった。
窓の外で、電信局の灯りが消えた。
ネイラはそれを見なかった。




