第2話 並んでるのと、直ってるのは違う
序章(7話)までは1日3回(12時、18時、6時)に投稿して、それ以降は毎日12時に投稿します。
旧市街の水路は、朝のうちから日なたの石の匂いがした。
今日の仕事は、市から工房に回ってきた、川下の水路の修繕だった。水を堰で脇へ逃がし、乾いた水路の底に下りて、崩れかけた石積みを積み直す。レトは昼前までに、傷んだ石を抜き、裏の土を詰め直して、新しい石を据えた。かがむたびに、作業着の胸の内側で、古い紙がかさりと鳴った。十二回目の申請書を書く前に、工房の棚の奥から黙って持ち出した、親父の古い申請書の控えだ。様式の見本にするつもりだったのに、まだ一度も開いていない。開けば、親父に頭を下げるのと同じ気がした。
石積みの面はまっすぐに通り、目地の幅も、指で測ったようにそろっていた。
レトは一歩下がって、積んだ面を眺めた。悪くない。夕方に堰を戻せば、水がこの石の前を通っていく。直した水路に水が戻ってくるときの音が、レトは好きだった。石と石のあいだを、水が迷わずに抜けていく音だ。
親父のドーマが、小さな槌を手に水路の上から下りてきた。何も言わずに、レトの据えた石を、こつ、こつ、と軽く叩いていく。叩くたびに、首を少し傾けて音を聞いた。
三つ目の石で、親父の手が止まった。
親父はその石の目地に節の太い指をかけ、ゆっくりと引き抜いた。
レトは眉を寄せた。「ちゃんと並んでるじゃん」
親父は抜いた石を手の中で一度裏返した。
「……並んでるのと、直ってるのは違う」
それから、空いた穴の両脇を、槌の柄で軽く押した。
「隣の石に、無理させてる」
「なんで? 叩いただけじゃん」
答えのかわりに、親父は右の石をもう一度叩いた。今度はレトの耳にも、音がほんの少し詰まって聞こえた。
親父は抜いた石をレトの足もとに置き、自分の持ち場へ戻っていった。
レトはしゃがんで、空いた穴に手を入れた。右の石の裏に、指先がかすかに当たる。見た目には分からない。手は、もう分かっていた。
レトは石置き場から、ひとまわり小さい石を選んだ。叩いて、裏を返して、また叩く。据え直してから右の石を叩くと、今度は澄んだ音が返ってきた。
どこがどう変わったのかを言えと言われたら、レトには言えなかった。
昼の休みに、郵便配達が水路の縁まで来た。
「工房の若いの。また来てるよ」
「……また、って言うなよ」
「だって、いつも同じ封筒だろう。薄いのばっかりだ」
差し出された封筒の薄さは、受け取る前から見えていた。受け取ると、やっぱり紙が一枚入っているだけの重さだった。
開けなくても分かっていたが、開けた。天上府の丸い印の下に、一行だけ。
申請の趣旨が不明確。
十二回目の申請を出したのは、ミレアの事務所で控えに線を引かれる前だ。当然の返事だと分かっていても、腹は立った。
水路の上で、親父が弁当の包みを開いていた。郵便配達は帰りがけに、その横へ工房あての請求書を置いていった。親父は封を切って中を一度見ると、ため息をついた。
「……マナ代と天税で、また上がった」
町の灯りをともす力も、パン一個の値段も、同じマナで数える。
レトの封筒も見えていたはずだが、親父はこちらを向かなかった。最初の封筒を見たときは、余計なことはするな、とだけ言った。今日は、それも言わなかった。
レトは十二枚目の通知を、鞄の中の十一枚に重ねた。今持っているのは、ずれた石を一つ二つ元の場所へ戻すくらいの、簡単な修繕の包括許可だけだ。十二回落ちたのは、その先の、手では積めない所まで自分の魔法で直してよいという許可だった。それさえ下りれば、親父が一人で抱えている町じゅうの水路の仕事を、少しは分けてもらえるはずだった。
ふと、工房の前の水路が頭に浮かんだ。北側の石積みの、上から三段目。冬に凍みて、外にふくらんだあの石だ。手を当てれば、戻せる気がした。けれど、裏の土まで戻すのは、許可のない魔法だ。レトは鞄の口を閉めた。
夕方になって、片づけを始めた。昼に親父が抜いた石を拾い上げると、なんとなく手放せなくなって、片手に持ったままでいた。
堰を戻すと、脇へ逃がしていた水が、また水路に入ってくる。据え直した石の前を、水が音を立てて抜けていった。足首まで来た水の冷たさに、一日の疲れが少しほどけた。
そのとき、足もとの水がぴたりと動かなくなった。浮いていた木の葉が、水の上で止まっている。
地の底のほうで、低い音がした。
遠い雷のような音だった。けれど空は晴れている。音は足の裏から上がってきて、水路の石積みを震わせ、すぐに消えた。
親父が顔を上げた。槌を持ったまま、旧市街の地下へ続く、水路の暗い口のほうを見ている。
水路の底の格子から、冬の井戸の中のような、冷たい風が吹き上がってきた。
レトは格子に手をかざした。風は吹いては止まり、少しして、また吹いた。奥のどこかで、何かがつかえている。手のひらにそう伝わってきたが、それが何なのかは分からなかった。
親父はその暗い口から目を上げ、一度だけ、坂の上の振興会館のほうを見た。何も言わなかった。
水路の水が止まったのは、奥でつかえているせいだ、とレトは思った。だとしたら、同じ地下の古い水路から水を引いている家々の井戸も……
向かいの家の戸口から、桶を提げた女が出てきた。
「井戸が、止まったよ」
誰に言うでもなくそう言って、女は空の桶を見下ろした。
通りの街灯が、遠いほうから瞬きはじめた。
川上の端の一つが、二度、三度と明滅して、消えた。その手前が瞬いて、消えた。消えるのが、少しずつ近づいてくる。通りにいた人たちが、話すのをやめて顔を上げた。
レトはズボンのポケットに手を入れた。指先に、折りたたんだ紙が触れた。あの事務所で、線を引かれた控えだった。この何日か、腹が立って何度も捨てようとしたのに、まだそこにあった。
目の前の街灯が、音もなく消えた。
あたりが暗くなった。レトの手の中で、昼に親父が引き抜いた石が、いつのまにか冷たくなっていた。
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